第二十四話 井の中の蛙、大海を知らず
場面は魔界へと移る。
魔王城の、黒い霧が立ちこめる部屋にて、ユノーは白銀の髪を揺らし、冷たい瞳で魔導水晶を見つめていた。
水晶には、クロノスとの戦闘で敗れたメルクが、自爆寸前に放った暗号伝達による文字が残されている。
──《器、存ス》
──《エリス、未滅》
──《側近、協力》
その断片的な情報が、エリスの存命というユノーの疑念を確信へと変えた。
「よくやったメルク……あなたの最期の任務、無駄にはしないわ」
ユノーは視線を部屋の正面方向に変え、手を叩いた。
闇の中から、三つの影が音もなく現れる。
大鋏使いのキャンクロー。
毒針使いのスコルピア。
幻術使いのピュートン。
いずれも魔王軍の中でも一芸に秀で名を馳せる者たち。
ユノーは静かに命じた。
「裏切り者のアーテーと使い魔マケを探し出し監視しなさい。ただし──手を出すのはまだ早い」
キャンクローが低く唸る。
「……殺さないのか?」
ユノーは首を振る。
「奴らはエリスをおびき寄せる『エサ』よ。本命はエリス。人間界で生き延びているあの女を炙り出すための」
スコルピアが妖しく笑う。
「じゃあ……観察と情報収集ですね。闇に紛れて……得意分野だわ」
ピュートンが一歩前に出る。
「人間どもが、しゃしゃり出てくると厄介ですからな。我らの有利な場にエリスらをおびき寄せ、一網打尽にするのが得策かと」
ユノーはやや笑みを浮かべ頷いた。
「ええ。それにメルクが言い遺した『器』という言葉が気になるわ……エリスが弱まっているのは間違いないけれども、相手も偽装しているでしょうから」
そして、ユノーの瞳が紅く光る。
「エリス……二度とこの地を踏めないように……」
魔導水晶による紫色の光が輝く部屋の中で、使命を受けた三人の影は、いつの間にか姿を消していた。
◆
数日後、首都へ出向いたクロノスは、議会に元老院議員として報告書を提出し、魔族の実力者メルクがガレッシア共和国内に拠点を築いていた事実を明らかにした。
だが――
「……信じがたい話だな、オリン殿」
「魔族が国内に? なんのために?」
「壁を造るカネはどうする? 増税しろというのかね?」
「だからといって、誰もがきみのように一晩でできるものではないぞ?」
議員たちの反応は鈍かった。
クロノスは眉間にしわを寄せる。
(……この国は、平和に慣れすぎておる……危機が迫っているというのに……)
確かに、ソル村で増強したような結界を国内の町や村に水平展開しようとしても、扱える魔導士が足りない。
予算が下りない。
議会の承認も遅い。
元老院議員とはいえ、政府の大統領ですらないクロノス独りでは、やれることも限界に近づいていた。
そして、クロノスは多忙を極め、アレスとの修行時間がどんどん削られていった。
「師匠、今日は魔法の練習……」
「すまんアレス。議会の緊急委員会が入ってしまってな……こっちの自主トレメニューをな」
「……うん」
アレスは笑ってみせたが、クロノスは胸が痛んだ。
(このままではいかん……アレスの成長を止めてしまう……)
アレスは才能がある。
魔力の伸びも卓越して早い。
だが、今の状況ではその才能を伸ばす時間が取れない。
クロノスは深く考え、ついに決断した。
ある日、久々に修行場へ顔を出したクロノスは、アレスを呼び出した。
「アレス。お前を……魔導術専門学校へ入学させたい」
アレスは目を丸くする。
「えっ……学校に?」
クロノスは頷いた。
「本来なら、あと数年はわしの下で鍛える予定だった。だが、今のわしには時間が足りん。国の防衛と議会の仕事で、どうしてもな」
アレスは、その言葉を黙って聞いていた。
「幸い、お前の成長は想像以上だ。それに、もうすぐ半期ごとの入学試験もある。基礎を終え応用に入ったお前の実力ならば、試験も難なく突破できるだろう」
そしてクロノスは少し声のトーンを変え、ゆっくり話し続けた。
「それにな、『井の中の蛙、大海を知らず』という言葉もある。むしろ、わし以外の魔導士や広い世界を知るよい機会だ」
アレスは胸の奥が熱くなるのを感じた。
(じいちゃんが……僕を信じてくれてる……)
エリスもアレスの胸の奥から声を響かせる。
(アレス。わらわも賛成じゃ。お主はもっと強くなれる。それに、わらわ的にもアーテーやマケとも会いやすくなるしの)
アレスは深く息を吸い、ゆっくりと頷いた。
「……わかった。僕、行くよ。もっと強くなるために」
クロノスは満足げに微笑んだ。
「うむ。それでこそ、わしの孫だ」
その後、アレスはクロノスと共に帰宅の途へ就く。
クロノスは歩きながら言った。
「アレス。入学試験は、コネでは突破できん。完全に実力勝負だ!」
アレスは緊張した面持ちで頷く。
「……僕、受かるかな」
クロノスは即答した。
「受かる。今のお前なら、余裕だろう」
アレスは驚いて目を見開く。
「そんなに……?」
「わしが保証する。一応試験対策はあるにはあるが、この入門10か月で培ってきたものばかりだからな。わしの弟子として恥じぬ実力を持っている」
エリスも胸の奥で満足げに言う。
(うむ。アレスはわらわと融合しておるのじゃ。弱いはずがなかろう)
(いや、それはエリスさんの力じゃ……)
(違うわ。お主自身の成長じゃ!)
アレスは少し照れながらも、心が少しばかりほんわかになった気がした。
◆
試験当日の早朝、アレスは深呼吸し、クロノスの方を向く。
「師匠……行こう」
クロノスは杖を掲げ、飛行移動を展開する。
「うむ。もっとも、わしが付き添うのは校門までだがな」
アレスは苦笑しながらも頷いた。
「まぁ、自分のできることをやるだけだよ」
クロノスは笑う。
「飛ぶぞ!」
風が巻き起こり、二人の身体がふわりと浮かび上がる。
エリスはアレスの姿に擬態したまま、胸の奥で静かに呟いた。
(アレス……わらわはずっとそばにおるぞ)
アレスは心の中で返す。
(うん。一緒に行こう、エリスさん)
まだ日が昇ったばかりの、うっすらとした空を切り裂きながら、二人は首都エースターへ向けて飛び立った。




