第二十話 心臓ひとつ、の思わぬ罠
アレスがゴーレムを倒し、息を整える間もなく、迷宮の空気はさらに重く、冷たく変わっていった。
壁の石は黒く染まり、床の魔力はざわつき、通路の奥からは不気味な音が響く。
エリスの声が鋭く響いた。
「アレス……気をつけるのじゃ。この迷宮、全体に魔の結界が広がっておる」
「魔の……結界……?」
「うむ。自然発生ではない。『誰か』が迷宮そのものを書き換え、罠と魔物を強化しておるのじゃ」
アレスは背筋が冷たくなるのを感じた。
「じゃあ……これって……」
「わらわはこの手口をよく知っておる……メルクの仕業じゃ」
エリスは断言した。
「この罠の配置、魔力の流れ……あやつのやり方そのものじゃ」
アレスは唇を噛む。
「じいちゃん……大丈夫かな……」
「心配するなアレス。クロノスほどの魔導士が、この程度で遅れを取るはずがない。むしろこの根源を破壊しに向かっておるじゃろう」
エリスの声は揺るぎなかった。
「お主は出口を目指せ。わらわが導くのじゃ」
アレスは頷き、走り出した。
◆
アレスが進むたび、迷宮は容赦なく襲い掛かってきた。
床が突然沈む落とし穴。
壁から飛び出す黒い槍。
魔力を吸い取る霧。
どれも、先ほど通った時には存在しなかった罠ばかり。
「くっ……! また罠……!」
「アレス、右へ跳べ!」
エリスの声に従い、アレスはギリギリで槍を避ける。
「次は上じゃ! 天井が落ちるぞ!」
アレスは転がり、背後で天井が崩れ落ちる音が響いた。
そこへ新たにモンスターが迫ってくる。
「はぁ……はぁ……しつこいなぁ……!」
「その通りじゃ。あやつは罠と魔物を組み合わせて追い詰めるのが得意じゃ。だがアレス……お主はよく避けておる。成長したのう」
アレスは階段を駆け上がりながら、少しだけ胸が温かくなった。
そうして進んでいるうちに、アレスにはようやく出口の光が、視界に入ってきた。
「あと少し……!」
だが、その光を遮るように黒い霧が渦を巻き、ひとつの影が姿を現した。
「……あらぁ。あなたが『侵入者』なのねぇ?」
アレスは息を呑んだ。
そこに浮かんでいたのは、やや小ぶりな、黒い羽を持つ妖艶な女性型の魔物。
しなやかな肢体、甘い香り、妖しい微笑み。
ダークニンフ──ラーレス。
エリスが低く呟く。
「……ラーレス。メルクの使い魔の一体じゃ」
ラーレスはくすりと笑った。
それに対し、アレスは杖を構えた。
「どいて……! 僕は外に出ないと……!」
「いやぁねぇ、そんな怖い顔しないで。ほら……こっちを見て?」
ラーレスの瞳が妖しく光った。
次の瞬間、アレスの心拍数が一挙に上昇する!
「……っ!? な、なにこれ……!」
視界が揺れ、頭がぼんやりし、身体が熱くなる。
エリスが叫ぶ。
「アレス!目を合わせるな! あれは個体魅了じゃ!」
魅了は精神系魔法の中でも特に厄介。
男性は種族を問わずこの耐性が低く、相性は最悪だった。
アレスは必死に目を逸らすが、ラーレスの声が甘く耳に絡みつく。
「ねぇ……そんなに逃げないでよ……あなた、可愛い顔してるじゃない……?」
アレスの頬が熱くなる。
「くっ……やめろ……!」
「アレス! 腕輪の効果を切るぞ! 魅了はわらわには効かん!」
エリスが決断した。
「よし……わらわが戦う!」
アレスの腕輪が光り、抑えられていた二人の魔力が解放された。
アレス側の身体に、エリスの魔力が直接流れ込む。
エリスがアレスの身体を操作しようとした、その瞬間――
逆に魅了の魔力がアレスの心臓へ流れ込む!
「……っ!? な、なんじゃこれは……身体が……熱い……!」
エリスの声が震えた。
「エリスさん!? 魅了が……効いてるの!?」
「ば、馬鹿な……わらわは女じゃ……本来、魅了は効かぬはず……!」
だが、アレスの心臓が乱れれば、エリスの心臓も乱れる。
アレスの感情が揺れれば、エリスの感情も揺れる。
心臓ひとつの代償が、ここで表面化した。
「アレス……すまぬ……わらわ……動きが……制御できん……!」
ラーレスは妖しく笑う。
「……あらぁ? あなたの中……もう一人いるのねぇ?」
すると、常時発動していたエリスの幻惑擬態が解除され、半々な姿のアレスとエリスが露見することとなった。
「……なっ!!」
エリスは珍しく激しい動揺を覚え、同時にアレスにも凍り付いた。
「ふふ……この魔力……まさか……エリス様かしら?」
ラーレスは、しめたとばかりにほくそ笑んだ。
逆にエリスは、余裕のなさが隠し切れなくなっている。
「……アレス、気をつけるのじゃ。いまのわらわたちは、奴とは水と油じゃ。それに、わらわの存在を悟られた以上……もう隠密は通じぬ」
ラーレスは楽しげに舌なめずりをした。
「なるほどねぇ……あなた、エリス様と『融合』してるのねぇ? これは……メルク様への最高の献上品だわぁ」
アレスは震える声で叫んだ。
「僕もエリスさんも、誰にも渡さない……!」




