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Dの断片(フラグメント)  作者: シェリー


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2/2

カレーの日

初日の午前は、あっという間に過ぎた。


 書類の場所。コピー機の癖。

 社内チャットの使い方に、会議室の予約ルール。


 覚えることは多かったけれど、不思議と頭は冴えていた。


 ――今日は、カレーはやめたほうがいい。


 朝、何の脈絡もなく浮かんだその感覚だけが、少しだけ引っかかっていた。


 *


 昼休み。


「じゃあ、行こうか」


 声をかけたのは、早乙女先輩だった。


 不破さんと、一ノ瀬も一緒だ。


 四人で向かった社内食堂は、思った以上に混んでいた。

 列の先にあるメニュー表示を見て、胸の奥がひやりとする。


 本日のおすすめ。


 ――カレーライス。


「わ、今日カレーなんですね〜」


 不破さんが、嬉しそうに声を上げる。


「迷う余地ないな。俺、カレー」


 早乙女先輩も即決だった。


 一ノ瀬は少しだけ考えてから、頷く。


「……私も」


 トレイを手に取る三人の背中を見ながら、僕は一瞬、迷った。


 けれど――。


「……僕は、日替わり定食で」


「え、神寺くん、カレーじゃないんですか〜?」


「今日は、ちょっと」


 それ以上は言えなかった。


 *


 席について、ほんの数分。


 それは、突然起きた。


「あっ――」


 一ノ瀬の声と同時に、誰かがぶつかる。


 バランスを崩したトレイ。

 宙を舞うカレー。


 次の瞬間。


 白いブラウスに、濃い色が広がった。


 食堂が、一瞬だけ静まる。


「……っ」


 一ノ瀬は言葉を失い、その場で固まっていた。


「だ、大丈夫!?」


 不破さんがすぐに立ち上がる。


「熱くなかった?」


「……はい。大丈夫です」


 声は落ち着いていたけれど、指先がわずかに震えている。


 周囲の視線が、集まる。


 *


「……悪い」


 ぶつかった男性が慌てて謝る。


「こちらこそ……」


 一ノ瀬はそう言って、小さく頭を下げた。


 その様子を見て、不破さんがすっと一歩前に出る。


「私、替えのシャツありますから」


「え……?」


「後で着替えましょ。食べ終わったら更衣室行こ〜」


「い、いえ……そんな、悪いです」


「遠慮しない遠慮しない」


 不破さんは、ふわっと笑った。


「こういう時はね、謝らなくていいの。

 『ありがとう』でいいんだよ〜」


 一ノ瀬は一瞬、戸惑ってから――


「……ありがとうございます」


 小さく、そう言った。


 *


 食堂を出たあと。


「初日の昼食は、残念だったな」


 早乙女先輩が肩をすくめる。


「せっかく親睦深めようと思ったのによ」


「……すみません」


「いや、神寺のせいじゃない」


 そう言ってから、ふと思い出したように僕を見る。


「そうだな」


 にやりと笑った。


「親睦ついでに、呼び方でも決めるか」


 嫌な予感がした。


「神寺、今日からお前は――」


 一拍。


「……え?」


「でら。だから D。

 呼びやすいだろ」


「……は?」


「決まりな」


 一ノ瀬が、わずかに目を丸くする。


 不破さんは楽しそうに手を叩いた。


「わ〜、Dくん! いいですね〜」


「いや、ちょっと……」


「却下は受け付けない」


 早乙女先輩は、満足そうに頷いた。


 *


 その日の午後。


 白いブラウスを着替えた一ノ瀬は、何事もなかったように仕事に戻っていた。


 けれど。


 デスク越しに見えた横顔は、どこか硬い。


 ――やっぱり、だった。


 朝の感覚は、間違っていなかった。


 守れたのか、変えてしまったのか。


 その境目は、いつも曖昧だ。


 ただひとつ確かなのは。


 この日から僕は、

 神寺蒼真ではなく――


「D」


 そう呼ばれるようになった。

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