カレーの日
初日の午前は、あっという間に過ぎた。
書類の場所。コピー機の癖。
社内チャットの使い方に、会議室の予約ルール。
覚えることは多かったけれど、不思議と頭は冴えていた。
――今日は、カレーはやめたほうがいい。
朝、何の脈絡もなく浮かんだその感覚だけが、少しだけ引っかかっていた。
*
昼休み。
「じゃあ、行こうか」
声をかけたのは、早乙女先輩だった。
不破さんと、一ノ瀬も一緒だ。
四人で向かった社内食堂は、思った以上に混んでいた。
列の先にあるメニュー表示を見て、胸の奥がひやりとする。
本日のおすすめ。
――カレーライス。
「わ、今日カレーなんですね〜」
不破さんが、嬉しそうに声を上げる。
「迷う余地ないな。俺、カレー」
早乙女先輩も即決だった。
一ノ瀬は少しだけ考えてから、頷く。
「……私も」
トレイを手に取る三人の背中を見ながら、僕は一瞬、迷った。
けれど――。
「……僕は、日替わり定食で」
「え、神寺くん、カレーじゃないんですか〜?」
「今日は、ちょっと」
それ以上は言えなかった。
*
席について、ほんの数分。
それは、突然起きた。
「あっ――」
一ノ瀬の声と同時に、誰かがぶつかる。
バランスを崩したトレイ。
宙を舞うカレー。
次の瞬間。
白いブラウスに、濃い色が広がった。
食堂が、一瞬だけ静まる。
「……っ」
一ノ瀬は言葉を失い、その場で固まっていた。
「だ、大丈夫!?」
不破さんがすぐに立ち上がる。
「熱くなかった?」
「……はい。大丈夫です」
声は落ち着いていたけれど、指先がわずかに震えている。
周囲の視線が、集まる。
*
「……悪い」
ぶつかった男性が慌てて謝る。
「こちらこそ……」
一ノ瀬はそう言って、小さく頭を下げた。
その様子を見て、不破さんがすっと一歩前に出る。
「私、替えのシャツありますから」
「え……?」
「後で着替えましょ。食べ終わったら更衣室行こ〜」
「い、いえ……そんな、悪いです」
「遠慮しない遠慮しない」
不破さんは、ふわっと笑った。
「こういう時はね、謝らなくていいの。
『ありがとう』でいいんだよ〜」
一ノ瀬は一瞬、戸惑ってから――
「……ありがとうございます」
小さく、そう言った。
*
食堂を出たあと。
「初日の昼食は、残念だったな」
早乙女先輩が肩をすくめる。
「せっかく親睦深めようと思ったのによ」
「……すみません」
「いや、神寺のせいじゃない」
そう言ってから、ふと思い出したように僕を見る。
「そうだな」
にやりと笑った。
「親睦ついでに、呼び方でも決めるか」
嫌な予感がした。
「神寺、今日からお前は――」
一拍。
「……え?」
「でら。だから D。
呼びやすいだろ」
「……は?」
「決まりな」
一ノ瀬が、わずかに目を丸くする。
不破さんは楽しそうに手を叩いた。
「わ〜、Dくん! いいですね〜」
「いや、ちょっと……」
「却下は受け付けない」
早乙女先輩は、満足そうに頷いた。
*
その日の午後。
白いブラウスを着替えた一ノ瀬は、何事もなかったように仕事に戻っていた。
けれど。
デスク越しに見えた横顔は、どこか硬い。
――やっぱり、だった。
朝の感覚は、間違っていなかった。
守れたのか、変えてしまったのか。
その境目は、いつも曖昧だ。
ただひとつ確かなのは。
この日から僕は、
神寺蒼真ではなく――
「D」
そう呼ばれるようになった。




