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生駒の山の蓮菩薩

掲載日:2026/01/04

 チントンシャンテントン。

 それは、どこかから響く三味線の音である。

 巧いのだろうか。

 拙いのだろうか。

 まだ洟垂れ坊主であった私に分かるはずもない。 

 チントンシャンテントン。

 ただ寂しい音だと、思っただけである。

 その場所は生駒の坂を上がったところ。

 静かな町を見下ろす生駒の新地。

 紅と白粉の香りにまみれ、三味線の音だけが響く場所。

 しかしこれは、半世紀も昔の話である。


「シンチを覗くんやおまへんで」

 私が風呂の支度を整えて4つ下の弟の手を握ると、決まって母がそう言った。

 真剣な顔で私を見つめ、口を尖らせるのである。

 そして自分の怒りを誤魔化すようにため息をつく。

「……なんで風呂屋がシンチの奥にあるんやろう」

 船場の商家のコイさん……お嬢さんだったという母は、いつまで経っても船場言葉の抜けない人だった。

「足を止めるのもあきまへん。ぱっと駆け抜けていきなはれ」

 ぬるい雨水のような母の言葉を、私はいつもかしこまって聞いていた。

 十分に母のお小言を聞いたあと私は弟の手を引き、石鹸箱の入った風呂桶を抱えて通い慣れた生駒の坂道を駆け上がる。

 階段は子供でも息が乱れるほどの急勾配で、高台まで上がれば生駒の町が一望できた。

「坊主」

 ぼんやりと町を眺めていると、杖をついた爺さんに声をかけられる。

 人見知りの弟は慌てて後ろに隠れるが、私は構わずまっすぐ男を見上げた。

 ここで声をかけてくるのは決まって道に迷った人々だ。そして彼らの行き先は2つしかない。

「寳山寺はどこや」

 今回はそっちだったか。と、私は心のなかで頷いてケーブルカーの駅を指す。と、男は満足そうに頷いてそちらに足を向けた。

 この道は生活道路であるのと同時に、中腹にある寳山寺へとつながる長い長い参道なのである。

「兄ちゃん、僕もケーブルカー乗りたい」

「あほ。毎日乗ってられんわ」

 甘える弟の頭を小突き、私は再び坂道に向かい合う。

 山には長いケーブルカーが走っているが、利用するのはもっぱら観光客だ。地元の人間は坂道を足で駆け上がるのが常だった。

 参道を日常使いするのがこの町の人々の特権だ。などと、大人たちは笑っていう。

 ……が、参道といっても敬虔深いものではない。

 私は坂道の途中の道で足を止め、息を潜める。

 母から覗くな、足を止めるなと口を酸っぱく言われたその場所を、私はそうっと覗き込む。

(昨日、道を聞いてきた爺さんは、寺やなく、この場所を探しとった……) 

 覗き込んだその先は、不思議な場所だ。

 左右に古びて狭い家が連なり、どれもニ階には赤い格子の窓がある。そして隙間から女の白い肌が見え隠れする。

 寺の近くにはきまって花街が作られるそうだ。

 男たちは精進落しと名を変えて、参拝のあとに女のもとに通う。そんなことを知ったのは私がもっと大人になってからだ。

 母がシンチをひどく嫌悪した理由も、シンチの奥にある風呂屋に知らない男たちが大勢いた理由も、男たちが囁くように道をたずねて来た理由も。

 全て、私は大人になって初めて知ることになる。

(……また、腕が生えとる)

 私は道の途中で足を止め、息を整えるふりをして顔をそらした。

 私が道を駆け抜けると、それを見越したように二階の窓から女の腕が突き出して、こちらを嘲笑うように揺れるのだ。

 抜けるように白く細い腕に赤い襦袢が絡みつき揺れている。その様子は、まるで校長室で飼われている金魚の尾のようだ。

「兄ちゃん、腕や」

 幼い弟はそれを見るたび、阿呆のように口を開けて宙を見つめていた。

「タケ。ええから、こい」

「だって兄ちゃん」

「じろじろ見いな、行くで」

 私は洗面器の中で揺れる石けんの音だけに集中して、坂をのぼる。

 それが、まだ幼い私の毎日であった。


 繰り返されるその毎日が狂ったのは、ある夏の夕暮れのこと。

 狐の嫁入りが降りしきる、明るい雨の夕暮れだった。雨が夕日の色を吸い込んで、黄金色に輝いていたのを覚えている。

 坂道のちょうど途中。くぼんだその場所に、一人の女が座り込んでいるのが見えた。

 それは真っ赤な襦袢を纏った女である。

 たっぷりと膨らんだ髪は縮緬の布でゆるく結ばれ、肩の辺りで揺れていた。

 雨に濡れても構う様子もなく、ただただうずくまっている。

 身に纏う赤い襦袢は濡れた地面に広がり、合間から白い物が見える……足だ。と思った瞬間、私の胸が激しく音を立てた。

「兄ちゃん?」

「タケ、先いっとけ」

 私は弟の背を押して、先に行かせる。

 なぜそうしたのか分からない。しかし、そうしなくてはいけない。そんな気がしたのだ。

 私は大きな傘を女の上に掲げる。振り返った女は想像と異なり、涙を一粒もこぼしていなかった。

「あら」

 彼女は足下でしなびる朝顔に手を伸ばしている。見れば彼女の小さな足を覆う草履の鼻緒は切れていた。

「ありがと。鼻緒が切れてしもたんよ」

 女は柔らかい……まるで綿菓子のような声でそう囁く。

「小僧さん、どこの子?」

「はよ、こい」

 こん、と私の傘が揺れた。見上げれば、二階の窓から男の手が生えている。

 二階にいる男が地面に向かって豆菓子を投げたらしい。転がった小さな豆菓子が地面に落ちてぐずりと崩れた。

「いつまで油売っとるんや」

「もう。あんたが花を取ってこい言うたくせに」

 女は口をとがらせ、立ち上がる。と、濡れた襦袢の裾が女のふくらはぎに絡んで白い肌が滲む。それが恐ろしいほどに美しかった。

「……小僧さん」

 彼女は不意に私の手を取る。

「飴あげよ。内緒にしとき。大事に食べえなあ」

 手のひらに転がってきたのは、小さな飴玉だ。柔らかな紙に包まれた、小指の先ほどの小さな飴玉。

 それを呆然と見つめる私の上に、チントンシャンと明るい三味線の音が鳴り響いていた。


 風呂で汗をかいても家に駆け戻っても、その三味線の音は私の耳に染みこんだままだった。

 そんな私の浮かれ気分を察したように、玄関前で立ち塞がっていたのは母である。

 腕を組み、彼女は私の体を上から下まで眺めた。

「シンチを覗かんかったやろうね」

「……してない」

 私は真剣な顔でそうつぶやき、弟をきつくにらむ。

 ポケットの中に残されたのは、飴玉一つ。それを指先で転がすだけで、鼓動が何度も早くなった。

「なら、ええんやけど」

 私の言葉に満足するように、母は鼻を鳴らし背を向ける。

 思えば母も悪い人間ではなかった。

 母は女学校の頃に褒められた針の上手さを、いつまでも自慢するような無垢の人だった。

 ただ思い至らなかった、それに尽きる。

 格子の窓から腕を突き出し揺らす女の気持ちも。切れた草履や打ち付ける雨より、男の求める小さな花に気を取られる女の気持ちも。

 母は、思い至れないのである。

 無垢ではあるが、ただ思い至れぬ人であった。それを責めることなど私にできるはずもない。


 私が母を責めない代わりに、私を折檻した男がある。

「大野」

 翌日、学校でのこと。教室に着くなり、私は担当の先生に肩を掴まれた。

 背が高く、顔も恐ろしい先生だ。

 彼は大きな手で私の肩を教室の壁に押しつけると、何も言わずポケットを漁る。

 そこにあったのは、女に渡された飴玉だ。

 私が思わず声を上げると、先生は勝ち誇ったような顔で私をにらむ。

「これ、どうした」

「……ひ……拾いました」

「嘘を言うな」

 先生はそう吐き捨てて私の頭を小突き、飴玉を奪った。そして彼は、それを汚れたゴミ箱に叩きつけるのだ。

「余計なもん持ってくるな」

 先生の袖は汗染みで汚れている。その汚れを隠すように、舶来物の赤いカフスボタンが輝いていた。

 彼はそのカフスボタンのせいで、生徒に赤鬼と揶揄される男であった。

 私はただ悔しさを噛みしめて、その腕を見つめていたことを覚えている。


 もう飴の女とも会うことはあるまい……そう考えていたというのに、女は再び私の前に姿を現した。

「小僧さん。お風呂? いってらっしゃい」

 あの坂道を上がるたび、気まぐれに女が声をかけてくれるようになったのである。

 彼女の部屋はちょうど、道沿いの窓が定位置だったようだ。夕暮れになると必ず顔を出している。 

 まるで私を待ってくれているようで、奇妙に胸が締め付けられた。

 そして三回に一度は、上から飴玉がふってくる。

 彼女は洋装のときもあれば、赤い襦袢姿の時もあった。

 赤い襦袢の時は、二階の窓の隙間から、その裾がたらりと垂れてている。  

 まるで花か、美しい金魚の尾びれのようだった。

 私は母の小言を心の奥に押しこんで、必ず店の前で足を止めた。

 女の名前など知らない。素性も知らない。長い会話をしたこともない。

 垂れ目で眉の太いこの女が、どのような事情でこの二階にとらわれているのか、そんなことを私が知るよしもない。

 私たちはただ、ただ飴を投げる女と、受け取る小僧。それだけだ。

「小僧さん。内緒よ」

 そう言って、女は飴を投げる。

 そして必ず、その逢瀬は途中で邪魔された。

「おい」

 女が飴玉を投げると、それを見とがめるように誰かが女に腕を伸ばすのである。

 苛立つような声と共に太い腕は女の肩を掴み、部屋へと引きずっていく。女は眉を寄せ、最後にちらりと私を見る。

 ある天気のいい夕暮れ、私は女を奪う男の腕を細部まで見ることができた。

(あの腕は)

 女の腕を乱暴に掻き抱く、その袖は汗染みで茶色く汚れ……そして、熟した柿のような赤いカフスボタンが輝いていた。


 女と初めて真っ当に会話ができたのは、夏の終わりの頃である。

 気の早い嵐が来るのだと、そんな話を母から聞いた。

 風邪を引き込んだ弟を置いて、私一人少し早めの風呂へと駆け出した。

 薄暗く、風が強い。雨が斜めに降り付ける。そんな日である。

 階段の隅で、赤い金魚が震えていた……いや、あの女が震えていた。

「あ……あの」

 それは一番最初に彼女と出会ったあの場所だ。もう朝顔の花はない。

 嵐のせいか店はどこも早仕舞いだ。観光客も地元の人間も誰も歩いていない。

 誰もいないその階段の隅っこで、女は震えて小さく頭を抱えているのだ。

「……お姉さん」

 長い逡巡の後にようやく声をかけると彼女は怯えるように振り返る。

 その耳が赤く血に染まっているのを見て私は思わず目を見開いた。

「耳」

「ええの。ごめんな」

「手ぬぐい、使って」

「ええって……」

 嫌がる彼女に、私は手ぬぐいを差し出した。

 それさえ拒否するので、私は女の顔を抑えて耳に手ぬぐいを押し当てる。あっという間に手ぬぐいに赤い血が滲み、私の指まで血に染まった。

 見れば、耳たぶが欠けているのだ。誰かに無理やり、切り取られたように。

 事故でも故意でもないはずだ。女の涙がそう物語っている。

「ひどい」

「平気。耳は血が出るから、それだけよ」

 女は大粒の涙をこぼしながら、気丈にそう言った。

 永遠の愛を誓うため、互いの体の一部を傷つけ合う……そんな時代錯誤な愛の証明があるらしい……そんな噂を聞いたことはあったが、幼い私には難しすぎた。

 女もまた、子供にそのようなことを語るほど幼くはなかった。

 彼女は「平気」とだけ言って、立ち上がる。そして再び店に吸い込まれようと、した。

「来て」

 思わず彼女の腕を握ったその理由は、今でもわからない。

 ただ、堪らなかったのである。胸の奥が苦しくなるほど、堪らなかったのである。

 幸い今日は嵐が近い。駆け出す足音も聞こえないような強風である。

「逃げたらええ」

 彼女の濡れた腕を掴み、私は坂道を駆け上がった。

 振り返れば赤いカフスの腕が追いかけてくる……そんな妄想のせいで足が震え、涙が溢れた。

 嵐の雨と涙で、体も顔も濡れしきる。何度も女の手を滑り落としそうになりながら、それでも私は離さず駆け続けた。

「どこへ?」

 女は突然のことに驚くように目を丸める。それでも手を振り払うことはしなかった。

「……唐招提寺」

「なんで?」

「一番……遠いところ、が、そこ!」

 彼女の言葉に、私は曖昧に応えることしかできない。

 この頃、私の知りうる限り一番遠いのは唐招提寺の境内である。

 広大な寺だったように思う。どこまでも巨大な屋根が青空にかかっているのだ。巨大な塔も、立派な仏像もある。

 その足元でゆらゆらと揺らめく蓮の花を覚えている。

 あそこはこの世の一番端っこ、極楽浄土である。

 幼い私にとって、世界はその場所までしか存在しなかった。

「足じゃあ、無理よ」

「じゃあ寳山寺!」

 私は意地になるように、彼女を引っ張る。

 この生駒の花街の上にそびえる大きな寺院。

 寳山寺というのが正式名称だが、そこの秘仏は女を守る仏様であると聞いたことがある。

 その場所にいけばきっと彼女は救われる。そんな気がした。

「仏様は、何でも救ってくれるって」

「あたしなぁ。行かれへんわ」

 ……が、女は唐突に足を止める。女の力は存外強く、私は転がりそうになった。

「あたし、あそこしか居場所がないもの」

 彼女は私の背を優しく支え、まっすぐ背を伸ばす。

 嵐の風が厚い雲を振り払ったようだ。西の空に奇跡のように穴が開く。

 雲から漏れる夕日の色が襦袢の上で輝いて、彼女自体が光を放っているようだ。

 それは、どこかで見た観音様によく似ていた。

 眼下に広がる生駒の街が、赤く赤く、美しく光っている。

「大丈夫」

 彼女は息を整えたあと、私の顔を撫でて微笑んだ。

 顔には血がこびりつき、髪は乱れ着物は濡れて体に張り付いている。

 それなのに、なぜかまるで観音様のように、神々しく見えた。 

 そんな私の心に気づいたように、彼女はそっと囁く。

「……実はあたし、蓮の仏様なんや」

「蓮の?」

「弥勒菩薩様は何億年も先に現れて人を救うらしいけど、それやとあんまりにも先すぎるでしょ」

 明るく笑う彼女を、私は呆然と見上げた。

「せやわ。60年後でどうかしら。60年後に現れて皆を救うの」

 血で濡れた頬を揺らして彼女は笑う。そして傷ついた耳をそっと撫でる。

「やからね。仏様やもの。なんも痛いこと、ないのよ」

 ありがとうなあ。と、彼女は呟いた。そして私の体を抱きしめる。

 小さな体だというのに、私を抱きしめるそのときだけは、雲をも覆う巨身のようだった。

 もしや彼女の言うとおり、この人は確かに菩薩なのかしら。私は幼いながらにそう考える。

 60年後、彼女は地獄に落ちた人を救うのかもしれない。

 しかしそれはあまりに先すぎる話だった。

「でも、じゃあ、今のお姉さんを誰が救うんや」

 私が思わず呟くと、彼女は驚くように目を見開く。

 やがてその目が、虹のようにゆるく円を描いた。

「……今」

 小さな手が、私の顔を撫でる。

「小僧さんに救われた」

 それが彼女との、最後の邂逅である。


 嵐と共に夏が終わり秋になる頃、女が唐突に消えた。男と逃げたのだ。いや、死んだのだ。周囲はあれこれ喧しい。

 件の先生の手首からは赤いカフスが消えた。女にやったのだ。いや、奪われたのだ。

 こちらも噂があちこちと喧しく囁かれた。

 先生は目に見えてやつれ、目の下に深い隈を作り、生徒にもひどく当たるようになる。

 しかしそれも一時のこと。

 彼はやがて別の女の元に足繁く通うようになり、それを責められ逃げるように学校を去った。

 顔はすっかり忘れてしまったが、汚れた袖とカフスの色だけは不思議なことに何十年たっても忘れることがない。

 女は消えた、先生も去った。

 人々の口から女の思い出が出ることさえなくなった。

 そうなって初めて、私は雨の中で地面を殴って何度も泣いた。

 彼女の行末を案じたのではない。思い至れぬ周囲に怒ったのである。

 彼女はとうとう蓮になったのに、誰も悲しまない。それが悔しい。彼女は蓮である。私はそう信じていたのである。

 彼女が去っても日常は変わらない。

 ちんとんしゃんと鳴る三味線の音を聞きながら私は湯に通い、母は女を見るなと目を尖らせて私を叱り、弟は相変わらず私の目を盗んでは三味線の音に聞き惚れた。

 大人になった私はその街でどんなことが行われているのかを知り、耳を切られた女を何人も見た。

 やがて父の仕事の都合で関東へと居を移し、私は大人になった。

 そして気がつけば、半世紀もの時が経っていたのである。


 今、目の前に広がるのは、すっかり寂れたかつての色町である。

「……いるわけがない」

 60年の時を経て、私は久しぶりにその場所に足を踏み入れた。

 街並みはすっかり変わってしまっている。

 駅などはひどく立派になって、観光客も地元の人間も一様に、きれいな街を綺麗な足で行き交うのだ。

 私達一家の暮らしていた家はすでに無く、今は違う家が建っていた。足繁く通った銭湯はもう影も形もない。

 ……ただ、変わらぬ場所もある。

 三味線のかき鳴らされていたあの古びた家は、奇跡的にいくつか残っているようだ。すでに店じまいはされているようだが、その風景だけは幼い頃となんら変わらない。

 子供の時分のようにそれを見上げ、私は小さく息を漏らした。

 女と手を取りに必死に駆け上がった坂道は、相変わらず急な角度でそこにある。

「もし」

 不意に声をかけられて私は足を止めた。

 まさかこの年になっても道を聞かれるのか……と、振り返れば透けた袈裟の色も涼しげな僧が私を見上げている。

「もう調査は終わられたのですか?」

「調査?」

「失礼。警察の方かと」

 僧は慌てたように腰を曲げた。そして言葉をごまかすように、会話を変えた。

「今年は秋になってもひどく暑い日が続きますね。観光でしょうか、どうぞ日差しにお気をつけて」

「あの、警察……とは?」

 僧の言葉に不穏なものを感じ取り、私は先を急ぐ彼を捕まえる。と、僧は少し困ったように首をかしげた。

「ああ、ご存知ありませんでしたか。つい先週、台風で大雨が降ったでしょう。山が削れました。そこから……」

 僧は言葉を濁し、代わりにその白い両の手をあわせる。腕に巻いた数珠の音で、私は彼の濁した言葉の先を知った。

「事件が?」

「いえ、まだはっきりとは。ただ土の中から赤い着物だけ見つかったそうです。古い物だそうです」

 赤い着物と聞いて、私の脳裏に懐かしい音が聞こえた気がする。

 ちんとんしゃんの、三味線の音である。小僧さん、と囁く優しい女の声である。

 ぞっと震えた手を押し隠すように、私はようやく口を開いた。

「なにか……例えば、骨など……」

「いえ、それはまだ」

 僧は少し寂しそうに呟く。時間の問題だというように。

 そして下に広がる町を、じっと見つめた。

「このあたりは花街でしてね。過去のものが時折見つかるのですよ」

 気がつけば、私は幽鬼のように僧の後をついて歩いている。

「ご参拝ですか」

「……ええ」

「ケーブルカーに乗られたほうが、早いですよ」

「……いえ、このまま、ご一緒させていただければ……」

 長い階段に進めば、左右に置かれた地蔵菩薩に緑陰が落ちていた。

 幼い頃見た風景が瞼に浮かんだ。目の前を歩く僧の姿がゆがみ、女の姿を映し出す。

 記憶が混濁するように私を責めた。

(ああ、来なければ良かった。今更、来なければ良かったのだ)

 痛いほどに手を握りしめ、私は思う。

(なぜ来てしまったのだ。今更、なぜ来てしまったのだ)

 私は心の片隅で、女が幸せになっている未来を思い描いていたのである。 

 逃げた女は幸せになり、その姿を60年経った今、私に見せてくれるのではないか。そんな甘い妄想を抱いたのである。

 小僧さん、久しぶり。そんなことを言いながら……孫の手など引いて。

(……そんなわけが、あるはずがないのに)

 土の中から現れたという赤い着物を想像し、私は目頭を押さえた。

 なぜ、あのとき私は女を無理にでも連れて逃げなかったのだろう。

 私はあのあと、青年になり大人になり、結婚をし、子どもができた。

 がむしゃらに働き、親を看取った。矢のように進む人生の中で、なぜかあの夏のひとときだけが、私の胸につかえたまま、流れない。

 あの時、女を見捨てたという記憶だけが、私の心の中に重しとなって残り続けている。

「そういえば、暑いといえば不思議なことがあるもので……夏の名残りが今頃咲きました」

 僧はふと、足を止めた。それは延々と続く階段の中頃である。

「名残……?」

「ええ、あそこです」

 僧の手に誘われ、私は階段の上から宙を見上げた。

 そこに見えるのは、雑草や木の根が生い茂る山肌だ。

 何があるのか。老いてぼやけた目を凝らせば、そこに薄い桃色の花が見えた。

 まるで飴玉を包む女の掌のような、ぷくりと膨れた花弁が風に揺れている。

「これは」

「珍しいでしょう。今朝、急に花を咲かせたのです」

 僧の言葉に、私の目が丸くなった。

 ……それはこの季節に咲くはずもない小さな蓮の花なのだ。

 思わず私は僧の前に進み、花に近づいた。小さく可憐なその蓮は、夏の名残りを吸い込んだように、涼やかで美しい。

 そして。

「切れている」

 私は唖然と、花を見上げた。

 美しい花弁の片隅が欠けているのである。それはまるで耳を欠いた彼女のようだ。つるりと美しい花の顔に、一点だけ影があるようだ。

 しかし、花は欠けた箇所など気にもしないように、堂々と胸を張る。かつて二階の窓から手を振った、あの時のように。

 花は風に揺れながら私を見つめていた。

 待ちくたびれた。と、拗ねるような声が聞こえた気がする。

 約束は守ったと。と、愛らしく誇るような声が聞こえた気がする。

 あの時のように飴玉は降って来ないが、代わりに甘い蓮の香がゆるりと降り落ちる。

 60年後に現れて、人々を救うのだ。

 ……彼女の声が、また聞こえた気がする。 

(ああ、この蓮は……)

 この瞬間、60年に渡って私を包んでいた濁りが不意に蕩けて消えた。

 まるで一陣の涼しい風が、私の脳内を撫でたようである。

「なるほど。あなたはまこと、蓮の菩薩であったのか」

「何か?」

「いえ、ただ……」

 私は僧の後をついて歩きながら、生駒の町並みを振り返る。

 眼下には60年前と変わらない風景が広がっている。

 チントンシャンテントン。

 今はもうないはずの建物から、軽やかな三味線の音が聞こえた気がする。

「……山からはもうこれ以上、何も見つからないでしょうね」

 私はそう呟いて、そっと手を合わせた。

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