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処刑令嬢は、魔王城の食堂のおばちゃんになったついでに、故国を滅ぼす!?

作者: 八木 羊

◆1/6 鬼娘、魔王城に就職す


 私、ノレア・ノクターンの人生は山あり谷あり、奈楽ありだ。というか、天国と地獄を行き来していると言っても過言ではない。

 侯爵家の一人娘として生を受けるも、早々に母を亡くし、父の再婚相手の継母と義妹の策略によって、父殺しの濡れ衣を着せられ、釈明の余地もなく、処刑された。

 はずなのだが――


「ノレアの作る料理はどれも絶品だ。ノレアがウチに来てくれて本当に良かった」


「ほら、ノレアもたんとお食べ」


 梟の顔をした老夫婦が目を細めて、私を見ている。私たちは白い湯気の立つ食卓を囲む。今日の昼食は街の市場でお買い得だった魔猪(ベヒモス)のクリーム煮と、菜園で採ってきた芽キャベツのソテーだ。


「はい、いただきます」


 肉はスプーンでも簡単にほぐれるほど柔らかい。口の中に入れると濃厚な酪味と甘い脂が舌の上にとろりと溶けた。そして、ほんのり苦みのある芽キャベツが時々口をサッパリさせてくれる。我ながらいい腕だ。

 ふと、卓上の水差しが目に入った。ぴかぴかの銀の表面に映るのは、美味しそうに料理を頬張る赤角の生えた白髪の少女だった。


「やっぱりノレアは鬼人族(オーガ)にしては上品だねえ。食べ方がまるでお姫様みたいだ」


「お、お姫様だなんて! わ……アタシは生粋の鬼人族(オーガ)ですから! おばさま、おかわり……です!」


 父殺しの罪で死んだはずの私は、目が覚めたら何故か人間ではなく鬼人族(オーガ)になっていた。しかも、目覚めた場所は故郷と海峡を挟んで向こうにある、魔族だけの島にある国――パンデモニアだった。

 魔族とは、魔力の濃い地域に棲まう人に似て人ならざる者たち。呪文なしで魔法を操ったり、怪力だったり、特徴は様々だが、何より氏族ごとに見た目も違う。大柄な猪族(オーク)、耳の長い長耳族(エルフ)、鋭い牙と爪の狼族(ライカン)、そして角のある鬼人族(オーガ)など――多種多様だ。

 しかし、自分が鬼人族(オーガ)になっていたことも、ここがパンデモニアだということも、知ったのは目覚めてから少し経ってからだ。


 川岸に十年間使い古した雑巾のようなボロボロの状態で流れ着いていた私を、親切な梟族(ストロス)の夫婦――ヤン爺とイヴ婆は拾い上げ、手厚く看護してくれた。二人は学者で、街はずれの大きな家の中はたくさんの書物と、不思議な発明品であふれ返っていた。

 二人と話すうちに、私は自分の置かれた状況を徐々に理解した。

 とはいえ、最初は訳が分からず、一つ知る毎に、十は疑問が浮かぶというありさま。初めて鏡を覗いた時も、まず、頭の角に驚き、次に橡色の髪が真っ白になっていることに慄き、驚き見開かれた瞳の色が左右で違うことに腰を抜かした。


 右目はかつての私の瞳と同じ菫色だが、もう片方は明るい琥珀色だ。琥珀の目にそっと触れてみると、それは眼球とは明らかに違う硬質な感触だった。これについては、流れ着いた時点で左目が失われていたのを、ヤン爺が即席で義眼を嵌めてくれたという。指や目を欠損した水死体は珍しくない。感染症になっていなかったのが、むしろ奇跡だとか。


(なんで私が鬼人族(オーガ)に? なんでパンデモニアに? どうやって海を越えたの?)


 色違いの目の答えはすんなり出たが、数多の疑問の答えは未だにわからずじまいだ。

 しかし、ひと月もすると何だか慣れてしまった。それよりもむしろ、この幸運への感謝の気持ちの方が強くなった。

 捨てる家族(血は繋がっていないが)あれば、拾う魔族あり。故郷では様々な裏切りに逢った私だが、ヤン爺たちは見ず知らずの私にひたすら親切だった。

 自分が鬼人族(オーガ)であることすら認識していない正体不明の行き倒れを、何かの事故で記憶喪失になってしまったのだと憐れんで、いつまでも居ていいと言ってくれた。

 出来ることなら、その好意にずっと甘えてしまいたい。ここで一生、二人とのんびり暮らして生きたい。そんな思いは日に日に強くなっていくばかりだ。


「どうしたんだ、ノレア? なんだか今日は口数が少なくないな。もしかしてまた目が痛むか?」


 ヤン爺が少し不安そうに訊いた。私は、スプーンを置いて一呼吸。ポケットの中に入れていた紙をそっとテーブルの上に置きながら言った。


「やっぱり、いつまでも二人にお世話になりっぱなしになるわけにはいきません。実は街で求人を見つけたんです。ほら、食堂で料理人募集って!」


 先刻、街へ買い物に行った際、広場の掲示板にこの紙が張り出されているのを見つけたのだ。パンデモニアの文字はこの家にある本で少し勉強していた。『求む』『食堂』『料理人』『住み込み』――といった文字が読めた時、私はこれだと思った。


「おや、まあ」


 ヤン爺たちは顔を見合わせて、その大きな琥珀色の目をぱちくりさせた。私の義眼と同じ色だ。そしてイヴ婆が嘴を開いた。


「別に私たちに遠慮する必要はないんだよ。けれど、ノレアがそうしたいなら、やってみなさいな」


「もし不採用なら、またしばらくワシらの家で住み込みの料理番だな」


「もう、お爺さんったら」


 二人はそうほほ笑んで言ったた。やはり私は幸運だ。

 昼食の後片付けを終えると、私は早速、街へ出る支度をした。と言っても、ほとんど何も持たぬ身。鞄の中は何着かの着替えと小銭入れの巾着ぐらいだ。


「餞別というわけじゃないんだが、急いで作っといて正解だったわい」


 そう言うとヤン爺が私の掌に何かを握らせた。見れば、それは菫色の眼球だった。


「新しい義眼ですか?」


「文字読みの魔術を組み込んだ代物だ。大昔に試作していたのを思い出しての。ノレアにはちょうどいいだろうて」


「ありがとう、おじさま」


「大変だったらいつでも戻ってきなさいね」


 イヴ婆はそう言って、私を抱きしめ頬ずりした。羽毛の柔らかさに、不意に喉の奥が痛くなった。


「では、行ってまいります!」


 私は新しい左目を瞬かせてヤン夫婦の家を発った。


***


 求人の張り紙には、食堂までの道順が簡単な図で描かれていた。街には何度もお買い物で出向いていたから、主要な場所はあらかた頭に入っていた。しかし、地図が指し示すのは私が未だに足を踏み入れたことのない場所だった。


 大きな橋を渡り、石畳で舗装された道を行く。道はなかなか急な坂道になっていたが、私はさほど苦しくなかった。鬼人族(オーガ)になったことで、私は明らかに体力、膂力ともに人間時代の比ではないほど強健になっていた。


「……ここ?」


 坂道を登り切った先には、恐ろしく大きな門があった。生家の城館の門よりも大きい。それこそ、兵士の一団がなだれ込んできても、あの鉄柵をおろせば侵入は困難になるだろう。柵は今、上がっていたが、門の前には兵士らしき屈強な狼族(ライカン)が立っていた。

 門の向こうには広場があり、そのさらに先には城館が見える。

 てっきり街の食堂を想像していたのだが、もしやこの求人はお城の食堂の求人だったのだろうか。私は慌てて左目を凝らして求人の紙を見る。

 すると、頭の中で自然と声が響く。


『求む、食堂の料理人。年齢、氏族不問。面接あり。三食賄いつき、住み込み。日当1万グラン。詳しくは当城まで来られたし』


 たしかに『城』と言っていた。

 そもそも地元の人なら、地図を見た瞬間に募集先がこの城のものだとわかったのだろう。

 街のどこにいても、橋の向こうに見える灰色の大きな尖塔。街で一番高い場所にある、一番目立つ建築物だ。


「いくら何でもいきなり宮廷料理人は……」


 料理の腕にはそこそこ自信のあるつもりだったが、それはいわゆる家庭料理であって、宮廷料理ではなかった。

 戻ろうか。いやでも、あんなちょっとイイ感じの別れ方をしたばかりだというのに――


「おい、お前……」


 門の前にいた狼族(ライカン)の兵士がギロリと鋭い視線を私に放った。


「す、すみません! こ、この求人を見て、ぜひこちらで働きたく推参いたしました!」


 恐ろしさのあまり、言葉が口から勝手に飛び出してしまった。

 兵士は怪訝な顔で私に近づくと、私の手にしている紙をのぞき込んだ。背の高い彼はだいぶ屈む羽目になった。


 「……なんだお前、料理人か! そいつはいい! ついて来い!」


 兵士は私の腕を取ると、強い力で私を引っ張り、ずんずんと門の中へと進んでいった。


***


 城の前は大きな広場になっていて、中心では真っ青な炎がごうごうと燃えていた。少し離れているのに肌がひりつくほど熱い。何人もの兵士たちがその火を囲んでいた。


「今日はお祭りですか?」


 こんな盛大な焚火、祭りの余興ぐらいなものだろう。しかし狼族(ライカン)の兵士は呆れたように言った。


「そりゃ皮肉か? あれは罪人を焼いてんのさ」


「火炙り?」


「この近くで、何件も押し入り強盗をしてたやつらだ。殺しに強姦……ひでぇもんでよ、俺らがひっ捕らえて、王様が直々に燃やしてくれた」


 たしかにそれは情状酌量の余地はなさそうだ。


「運のいい奴らだ。俺らが燃やしたんじゃ、時間がかかってもっと苦しめただろうに。見ろよ、あの火。灰すら残らないんだぜ」


 天をも焦がす勢いで燃え盛る蒼炎。しかし、それは突風が吹いたかと思うと、ぱっと消えた。あとには燃え滓一つ残っていない。何か薄ら寒いものを感じて立ち尽くしてる私の手を、狼族(ライカン)の兵士は再び引っ張って、城の中へと招いた。


 石造りの武骨な灰色の城は、外見とは打って変わって、優美で豪奢だった。

 入ってすぐの広間は、見上げれば首が痛くなるほど天井が高く、床は白と黒の大理石が互い違いに敷き詰められ、ステンドグラス越しの青い光が水底のように照っていた。

 ステンドグラスには翼のある竜と、それを囲む銀の星々が描かれていた。

 生家の城館とは比べるのも恥ずかしくなるほど、規模も年季も段違いだ。自然と背筋が伸びる。


「お前、名前は?」


 兵士が立ち止まって私に訊いた。これが募集要項にあった面接だろうか。


「ノレア・ノクターンです」


 実を言えば、生家の名前は「クロイツベル」なのだが、さすがに本名を明かす勇気はなく、母方の姓を名乗っている。父殺しの侯爵令嬢の名前が、海を越えてここまで届いているかは不明だったが。


「性別は女だよな? で、氏族は鬼人族(オーガ)……でいいんだよな?」


「も、もちろん! 見たままです!」


「だよなあ。でも、鬼人族(オーガ)にしちゃ妙にお上品というか、迫力も野蛮さも足りないというか。あいつらなら、この時間でも既に酒瓶片手に赤ら顔でもおかしくないし」


 ここまで言われる鬼人族(オーガ)とは、一体どんな存在なのだろう。残念ながら、私はまだ本物にお目にかかったことはなかった。


「まさかその角、飾りだったりして……」


「え?」


「冗談だ。角のない鬼人族(オーガ)なんてそりゃ人間だもんな。もしこの島に人間が来ようもんなら、それこそ王様の鼻息で即燃やされてらぁ」


 兵士の笑い声が広間に響き渡った。声が出ない。

 私でさえ知っている。パンデモニアと私の故国は百年前、大きな戦争をしている。双方に甚大な被害を出した戦争は、痛み分けに終わり、両国は相互不可侵を約して、以来没交渉だ。

 そして私の生家のクロイツベル家は、当時、多大な武功を上げたことで、今の爵位を与えられた。つまり、魔族にとっては不倶戴天の仇だ。


 もし万が一、私の正体がノレア・クロイツベルだとバレたら――


「気を悪くしたんなら、悪い。あんまりアンタが緊張してるようだから、つい」


 押し黙っている私に対して、兵士は慌てたように言った。そして立て続けに訊いた。


「そうだ、お前、歳は? 鬼人族(オーガ)ってけっこう長命だよな。もしかして、俺より年上か?」


 本当の私は十六歳。それが享年にもなろうか。しかし、魔族は人と寿命が違うらしい。総じて長命、しかも氏族ごとにも異なる。

 そして、鬼人族(オーガ)としての私は、推定、百歳。信じがたいことだけど、と私は自分の角にそっと手を触れる。

 実はこの角、ヤン爺が私を拾った時点では折れいていたらしい。しかし、数日もするときれいに生え替わったのだとか。

 ヤン爺曰く「ノレアはまだ若いからの。歳を取るとこうはいかん」とのこと。

 鬼人族(オーガ)の角は、そんな歯のような代物なのかと驚いていると、イヴ婆が「きっと百歳ぐらいかねえ。お肌もピチピチで羨ましいわあ」と畳みかけてきた。

 私は一気に桁一つ歳を取ってしまっていた。


(もっと年上っぽく、かつ豪快な感じで振舞うべき……?)


 狼族(ライカン)の兵士は興味津々という顔で金色の目を私に向けていた。

 鬼人族(オーガ)の料理人として怪しまれずに雇われるためには、このままじゃ不味いかもしれない。とすれば、ちょうど一人手本となる人物が心に浮かんだ。

 それは、私の料理の師匠で、彼女はこの兵士が言う鬼人族(オーガ)像に当てはまる気がした。

 私は息を多めに吸い込んで、腹に力を入れて声を出した。


「アンタ、レディに年齢聞くとはいい度胸だね」


「やっぱ年上か。つうか、やっと本性を見せたな。鬼人族(オーガ)が猫かぶりなんて、雪でも降るかと思ったぜ」


 くくっと兵士は喉を鳴らした。どうやら、私の態度は正解だったらしい。この調子だ。私は心の中に師匠を呼び出すことにした。


「でもなんで鬼人族(オーガ)が料理人なんかに? 兵士ならわかるけどさ」


 元々人間なのだが、色々あって実家を追われた末、独り立ちのため――とは言えない。


「育て親というか、世話になった人が料理人でね。その人に色々習ううちに、アタシもいつか同じ道に進んでみたいって思ったのさ。何より、自分の作った料理で、誰かが幸せそうにしてるのを見るのがアタシは好きなんだ」


 これは事実だった。早くに母を亡くした私にとって、親代わりのように世話になった人物がいる。それが、生家の料理番だったマリアンヌ――今、私が鬼人族(オーガ)らしい喋り方として参考にしている人物だ。


***


 マリアンヌは一言でいえば豪放磊落。毎日毎食、城館に詰める人々の食事を作るため、大鍋を振るい、他の料理人たちをまとめ上げ、いつでも活力にあふれていた。小柄だが、二の腕はそこらの兵士よりよっぽど逞しく、料理を残そうものなら、「罰あたりめ! すり潰すよ!」と肉叩き用のハンマーを振り上げて兵士を叱った。そんな彼女は兵士たちからは鬼婆と呼ばれ、何だかんだ慕われていた。


 鬼婆は侯爵家の令嬢にも容赦がなかった。幼い私が甘い匂いに釣られて厨房に忍び込み、パイ用の林檎煮をつまみ食いした時も、容赦なく拳骨を落としてきた。そして罰として、一緒にパイの仕込みを手伝わされた。はじめはびっくりしたし、怖かったけれど、出来上がったパイの出来に、そんな感情は吹き飛んだ。

「焼きたては作った人間の特権さ」と、マリアンヌが食べさせてくれた熱々のパイの端っこは今まで食べたどんな料理よりも美味しかった記憶がある。


 そして二人で焼いたパイを母に持って行った時のこともよく覚えている。母がパイを頬張った途端、いつも青白いその頬にぱあっと血の朱がさしたのだ。そして目を細めて「美味しい」と何度も繰り返してくれた。


 以来、私はマリアンヌを勝手に師匠と呼んで、図々しく料理の手伝いをさせてもらい続けた。「変わった嬢ちゃんだ」と呆れながらも、マリアンヌは私に手加減なく色々教えてくれた。

 いつの頃からだろう、もし別の人生があるなら、マリアンヌみたいな料理人になりたいと思ったのは。自分の手料理で大勢の人を笑顔にできたら、なんて夢見るようになったのは。


***


 別の人生があるなら――今がその時だ。私はマリアンヌみたいな食堂のおばちゃんになりたかった。ヤン爺たちとの生活を手放しても、この求人に飛びついたのは、そんな思いがずっと私の中にあったからだろう。


「難しいことはわからねえが、アンタの作る料理はうまそうだ」


 狼族(ライカン)の兵士は鋭い牙を見せて笑った。


「ガルム、その者は誰です? 見知らぬ者を勝手に上げるなど……」


 廊下の奥から人馬族(ケンタウルス)の青年が一人歩いて来る。

 青年は栗色の長い髪を一つに結んでいた。その容姿や佇まいにはどことなく品があり、上半身だけなら、人間の社交界でも良いところの青年貴族で通じそうだ。しかし、下半身は屈強な馬であり、髪の毛と同じ栗色の尻尾が艶やかに揺れている。


「料理人の募集を見てきたんだと」


「それならそうと、早く私を呼びなさい」


「へいへい」


「返事は一回」


「へーい」


 人馬族の青年は呆れたように溜息をついてから、私の方を向いた。


「この城の家令を務めております、アドラメレクと申します。貴方のお名前は?」


「アタシはノレア・ノクターン。見ての通りの鬼人族(オーガ)さ」


 私は(しまった)と思った。頭の中のマリアンヌに任せたまま自己紹介してしまった。さすがに相手が家令ともあれば、普段の言葉遣いの方が適切だっただろう。私は慣れない状況に緊張しきっていた。


「なるほど、鬼人族(オーガ)にしては礼儀正しい。安心しました。話の通じる相手で何よりです」


鬼人族(オーガ)ってどれだけならず者なの?)


 内心呆れつつも私は胸を撫でおろした。ここはこのままマリアンヌの喋り方で押し通して良さそうだ。


「ただ鬼人族(オーガ)といえば、あまりこちらでは見かけませんが、出身はどちらで?」


「北のうんとちっちゃな里だよ。山と川以外何もないような場所さ」


「ご家族のお名前とお仕事は?」


 心臓が飛び出そうだった。本当のことを言えば、それこそ火刑だろう。でまかせでもいいからでっちあげるべきか。目の前の青年は穏やかに目を細めているが、黒い目が私をじっと見据えているのがわかる。


「おいおい、尋問かよ。せっかく料理人が来てくれるってんだから、細けぇことはどうでもいいだろ」


「私たちの口に入るものを作るんですよ。もし、どこぞの間者だったらどうするんですか?」


「人間じゃあるまいし、俺らはそこらの毒じゃくたばらねえ。大毒蛇(ヒドラ)とか蝮鶏(バジリスク)の毒なら別だが」


「そういう毒を絶対に仕込まれないという保証は?」


「何事も絶対はねえ。もし気になるなら毒見役でも置いときゃいいだろ。俺ら兵士としちゃ、一日でも早くまともな飯を食わせてほしい。ただそれだけだ。いい加減、毎食、生肉パーティは飽き飽きだぜ」


 侯爵令嬢だった身から言わせてもらうと、家令であるアドラメレクの言うことが正しい。料理人は、料理や水に毒を仕込める立場なのだ。城主やその家族、城にいる人々の命を預かっていると言っていい。決して、身元不詳の者にやらせるべきことではない。

 が、ガルムと呼ばれた兵士も聞き捨てならないことを言っていた。『生肉パーティ』とは?


「何の騒ぎだ?」


 低い声が広間中に響いた。と同時に、周囲の温度が急激に下がったように感じた。冷たい空気が突風となって吹き抜け、私の髪を激しく煽る。思わず目をつぶってしまった。

 風が収まるのを感じて目を開けてみると、眼前には男が立っていた。

 奇妙な男だった。

 まず、私と同じで頭に角が二本生えている。ただし、私の角と違い、黒く捻じれている。そして巨漢だ。高さよりも横幅に目がいく。つまり、太っていた。頬肉はたるみ、腹はパンパンで、まるで贅沢三昧の豪商のよう。だが、そこまで歳を取っているわけではない。人間ならせいぜい二十代半ばぐらいだろうか。肥えているのに、貧血のように顔は青白い。黒々とした髪と相まって、なおのこと白く見える。

 そして何故か満身創痍だ。

 右目は包帯をしていて、よく見るとブラウスの袖からも包帯がのぞいている。それこそ、川に流れ着いたばかりの私といい勝負だろう。

 ただ、具合の悪い傷病人にしては、異質な存在感を発していた。

 開いている左目の瞼は厚ぼったく眠たそうなのだが、その下にある瞳は日に透かした柘榴粒のように鮮烈な紅色だ。

 大柄な男は、自然と私を見下ろすような格好になった。


「お騒がせして申し訳ございません、シャルーカ様」


 アドラメレクが深々と頭を垂れた。この時点で、シャルーカが何者かは想像がつく。


「貴方たちも、シャルーカ様に対し何を突っ立っているのですか?」


 アドラメレクが非難めいた眼差しを私とガルムに向けた。が、すかさずシャルーカが首を横に振った。


「そういうのはいい。それより、この女は?」


「料理人志望ですが、出自が定かではなく」


 シャルーカが私の顔をまじまじと覗き込む。柘榴色の瞳はよく見れば瞳孔が縦に裂け、彼もまた人ならざることを示していた。


「偽物だな」


 頭が真っ白になった。否定の言葉が思いつかない。シャルーカは怪訝そうに眼を瞬かせた。


「お前の左目だ。よくできているが、作り物だろう」


(ああ、そっちか……)


 私は内心でほっと息をつきつつ、頷いた。


「見えているのなら問題ない。出自も料理とは無関係だ。雇えばいい」


「は!」


 アドラメレクは一切の反論をしなかった。やはりこの黒角の青年は、アドラメレクの主人らしい。


「女、俺の顔に何かついてるか?」


「いや、アンタも鬼人族(オーガ)なのかと思って」


 自分の口から飛び出した言葉に、私は耳を疑った。

 たしかに、私はシャルーカの頭についている二本の角を見て、(同族だろうか?)と疑問を感じた。が、普段の私ならそれを今この場で言わない分別ぐらいあっただろう。今の私の発言は、私の中のマリアンヌによるものだった。目の件と言い、私はシャルーカから発せられる冷たく重い空気に耐えかねて、心の中のマリアンヌに全部丸投げしようとしていた。


 時間にしてほんの一瞬、しかし体感ではかなり長く重い沈黙ののち、シャルーカは大口を開けて笑った。その口からは鋭い八重歯がのぞいている。


「俺が同族に見えるとは、さすが鬼人族(オーガ)は面白いことを言う。しかし、俺はお前たちのように葡萄酒を樽で飲む趣味は持たん」


「この国で最も尊き竜人族(ドラグニュート)鬼人族(オーガ)と一緒にするとは……不敬が過ぎます! シャルーカ様、この女撃ち殺していいでしょうか?」


 アドラメレクが声を荒げた。その手にはいつの間にか弓矢が握られている。この至近距離だ、確実に当たるだろう。引き絞られた矢じりの切っ先を見て、私は震えあがった。

 しかし、食堂の鬼婆としての私は眉の一つも動かさず泰然としていた。彼女は決して何者相手でも物怖じしないだろう。

 シャルーカはハンと鼻を鳴らした。


「やめろ。この城を血で汚す方が不敬だ」


「申し訳ございません……」


 アドラメレクの手の中で弓矢が光の粒になって消えた。


「紹介が遅れたな。俺はシャルーカ。この国の王にして、この城の主だ。それでお前の名前は?」


「アタシはノレア・ノクターン。よろしく王様」


「ああ、それでいい。俺が料理人に望むのは崇拝でも服従でもない。この城にある新鮮な肉を()()()()()()調理し、兵士や使用人どもの腹を満たすこと、それだけだ。さあ、契約をしよう。お前の手を差し出せ」


 私は言われるまま、シャルーカに向かって右手を伸ばした。すると、シャルーカは私の手を取るなり、いきなり親指に噛みついた。


「いっ……」


「お前の血の味は覚えた。歓迎しよう、ようこそ我が城に」


 シャルーカが私の手を解放した。親指の先にはうっすら血がにじんでいた。


「まずは城の中の案内をしてやれ」


「はい」


 アドラメレクが四つ脚を屈して最敬礼をすると、シャルーカは踵を返し廊下の奥へと消えていった。

 空気が少しずつ温度を取り戻す。が、ここに来て私はとんでもないことに気づく。


竜人族(ドラグニュート)ってことは……あの人、竜の末裔!?)


 吐息一つで村を焼き尽くし、翼を羽ばたかせれば山が削れ、そして顎を開けば大地を丸呑みにして国を滅ぼす神代の怪物――それがお伽噺や伝説に聞く竜であり、パンデモニアの国王とは、その竜の末裔として絶大な力を持つという。私の故郷では、魔王とも呼ばれ、恐れられている存在だ。百年前の大戦でも、数では有利を誇っていた人間が結局、押し返されたのは魔王の力によってだったという。


「何をぼうっとしているんですか。ついてきなさい。まずは貴方がこれから暮らす部屋に案内します。それから城内を見て回り、最後に厨房へお連れします」


 アドラメレクが歩き出す。

 私の足は動かなかった。急に頭の中で弱気の虫が喚きだしたのだ。いくら何でも魔王城の料理番は荷が重すぎる、引き返すなら今しかない、と。

 ついさっき広場で見た青い業火の鮮やかさも未だ瞼の裏に焼き付いている。そのぞっとするほどの熱さも、まだ肌は覚えている。


 その時、私の耳元でガルムがこそっと囁いた。


「夕飯楽しみにしてるぜ」


「ああ、しっかり腹空かせときな」


 ごくごく自然なことのように、私の中のマリアンヌが不敵に笑って答えた。

 いや、それはマリアンヌの声に似せてはいるが、まぎれもなく私自身の声だ。

 やっぱり、私は料理がしたい。そしてそれを誰かに食べてもらい、笑顔になってもらいたい――それが、生前のノレアがずっと思い描いていた夢のはず。


 それに、どうせ一度死んだ身。なら二度目はやりたいようにやってみたっていいじゃない。


 いつかのマリアンヌのように、心の中で、私は私の背中をバシンと叩いてみせた。


(……そうだよ、ノレア(あんた)は今日からこの城の食堂の鬼婆(おば)ちゃんだ!)


 私は、アドラメレクの背を追った。


***


◆2/6 鬼婆、厨房に立つ


 驚いたことに、住み込み用にあてがわれたのは個室だった。城館は広く、女性の使用人は数が少ないから全員個室なのだという。

 荷物を置いたあとで、アドラメレクにあちこちを案内されたが、とても覚えきれる気がしなかった。彼も「まあ料理人には無縁の場所ですね」と毎回付け加えていた。

 ただ、図書室に案内された時は先んじて「アタシも利用できるかい?」と訊いた。ヤン爺たちの家以上に、ここには本があった。左目の義眼のおかげで、いい暇潰しになるだろう。

 「鬼人族(オーガ)が読書とは……」とアドラメレクはぎょっとした様子だったが、すぐに「本を丁寧に扱う限りはご自由に」と答えた。

 城の敷地には修練場や、兵士用の寮館、ガラス張りの温室……様々な建物があった。


 一通り外も見て回り、再び城館の廊下に戻ってきたところで、アドラメレクが言った。


「契約を済ませた以上、貴方はこの城のどこでも立ち入ることができます。とはいえ、他人の私室に勝手に入るなんてのはマナー違反ですが」


「わかってるよ」


「ただし、あの奥の扉だけはくれぐれも立ち入らぬよう」


 そう言ってアドラメレクは廊下の最奥にある古びた木の扉を目で指し示した。


「まさか、城主が殺した歴代の妻たちの死体が転がっているとか?」


 私が冗談めかしてそう言うと、アドラメレクが眉をひそめた。


「シャルーカ様は生まれてこの方、独り身ですが」


「アタシの地元じゃ、そういう怪談話があるのさ」


「馬鹿馬鹿しい。見ての通り、古い扉で、昔は地下室に繋がっていたのですが、階段の木が腐って危ないから使用を禁止しているのです。さあ、次はいよいよ食堂と厨房です」


***


 食堂は立派なものだった。ここもまた天井が高く、広い空間には長卓がいくつも並んでいた。


「ざっと三百人ぐらい?」


「ええ、それぐらいは収容できます。ですが、今実際にこの城に詰めているのは、使用人含めてその半分です」


 生家よりは多いが、この城の規模にしては少ないように思えた。私の顔から疑問を読み取ったのか、アドラメレクが答えた。


「今は平時ですから。緊急時には城下町に暮らしている者たちも駆けつけてくる手筈です」


「なるほど。でも料理人はアタシだけだろ? さすがに一人で百五十人前はなかなか骨が折れそうだね」


「それについてはご心配なく、ついて来てください」


***


 厨房は食堂に隣接していた。設備は一見すると、生家のものと代り映えしなかった。大きな鍋や窯がいくつもあり、床はきれいで掃除はしっかり行き届いていた。しかし、無人だ。


「人手の問題ですが、これを使っていただければと」


「カンテラ?」


 アドラメレクは戸惑う私の手に、どこから取り出したのか、カンテラを握らせた。そして指をパチンと弾いた。するとカンテラに青い火が灯り、私の足元の影がいくつも分裂し始めた。その数、十。影たちは床からゆらりと立ち上がって、私を取り囲んだ。私はただただ目を丸くするばかりだ。


影法師(ドッペルゲンガー)です。貴方の忠実な手足となって働いてくれますよ」


 たしかに私が心の中で「右向け右」と念じれば、影は右を向くし、「手を挙げろ」と念じれば手を挙げる。黒い靄のように見えるが、実体として存在するようだった。


「窯の火は魔術で細かく調節できます。鬼人族(オーガ)のように魔法が不得意な者でもしっかり使えるよう、道具にはじめから術として組み込まれている親切設計です」


「そりゃどうも」


「食材はこちらです」


 厨房の奥はそのまま食糧庫にもなっていた。雑穀袋、油壺、野菜籠、香辛料の瓶が並ぶ棚、十分すぎるほど充実していた。


「肉はここにあるものを必ず使い切ってください」


 食糧庫の一角は石造りになっていて、そこだけかなり涼しかった。今までの流れから察するに、ここにも何かしらの魔術が組み込まれているのだろう。つまり、人工的な氷室だ。部屋の隅には霜がおりているのも見えた。

 そして氷室の中には油紙で包まれた大きな肉の塊がいくつも積み上げられていた。


「これで一日分? なかなか贅沢だね」


「いえ、これは一食分。つまり、今からの調理でこれを使い切ってください。明日の朝には、また新しい肉を持ってきますので」


「一食分!? いや、アンタこれ豚三頭分はあるよ」


 豚一頭なら、ちょうど百五十人分の一食が作れるだろう。ただし、これは贅沢などんぶり勘定だ。実際には、スープにしたり、ミンチにして野菜でかさ増ししたり、色々な創意工夫によって豚一頭で一日三食を賄うのが料理人の仕事だったりする――とマリアンヌを見てきた私は知っていた。

 侯爵家といえど、毎日大勢を食わせるのは大変なことだった。まして継母がやって来てからというもの、家の支出は増えるばかりだった。

 嫌な思い出を振り払うように私は首を横に振った。


「こんな贅沢して、財布は大丈夫かい?」


「ご心配なく。シャルーカ様は、決して私たちを飢えさせたりはしません」


「そりゃいい王様だ」


 ふと思い出す。父もかつては、領民が飢えないよう常に気を配り、収穫の少ない時は備蓄を放出したりと色々奔走していた。それでも自然はままならず、旱魃と豪雪で、麦粒一つ取れない年があった。そこに大豪商の実家を持つ継母が近づいてきたのだ。領民の腹を満たすために、父は継母と再婚した。後の地獄を思えば誤った判断だということもできるが、それ以外にあの時目の前で飢え死にしていく民たちを救える方法があっただろうか。

 結局、為政者として一番大切なのは、民を飢えさせないことだ――と私は思う。戦争に強いとか、財政に明るいというのも、そのための手段に過ぎない。

 その点、シャルーカは間違いなくいい王様なのだろう。目の前の肉の山を見て思う。そして、城下町の賑わいを思い出す。市場には常に新鮮な野菜や肉が並び、皆幸せそうだった。


「どうかしましたか?」


「いや、これは料理のしがいがあると思ってね。塊肉は仕込むのに時間がかかる。夕飯に遅れちゃなんないから、早速取り掛かるよ」


「ええ、お願いします」


「ところで、王様の分はどうすればいい? 大概のモンは作れるけど、王様用の凝ったご馳走となると……」


「心配には及びません。シャルーカ様の分は私が用意しますので。貴方は兵士と使用人の食事を用意してください」


「わかったよ。しかし、アンタも料理ができるなんてね」


 なら、王様の食事は、野菜を多くするか、総量を減らすかした方がいい――と喉元まで出かかって、さすがにそれはお節介が過ぎると口を噤んだ。

 あの顔色だと、食事量ではなく、そういう体質かもしれない。そもそも魔族にとっての健康体がどのようなものか、私には見当もつかなかった。

 アドラメレクは「では」と厨房を去った。


 残された私は厨房台の上に置いてあった前掛けを着け、頭には三角形に折りたたんだ布巾を巻いた。

 これもマリアンヌの真似だ。彼女はいつでもほっかむりをしていた。

 角の出し方にややてこずったものの、長い髪もシニヨンにして布巾の中にしまった。


「さあ、いっちょやりますか!」


 私は食材の仕込みに取り掛かった。


***


 大きな塊肉はやはりローストするに限る。私は香辛料をふんだんに肉にふりかけ揉み込んだ。香辛料の瓶にはいずれもラベルが貼ってあって、左目で見ると名前を知っているものも多かったが、知らないものもちらほら。ためしに臭いを嗅ぎつつ、使えそうならそのまま肉に振りかけてみた。このワクワク感がたまらない。

 『彩幻蝶の鱗粉』と書かれた虹色の粉は、鼻を近づけると月桂樹の葉のように爽やかな香りがした。

 入れすぎると苦くなりそうだが、少量ならちょうどいい肉の臭み消しになるだろう。えい、と一つまみ振りかけた。


(それにしても、なんの肉だろう?)


 肉を揉みつつ首をかしげる。肉質からして、鶏肉ではない。脂のつき方や身の色からして豚ではなく牛か。ただ、牛にしては独特の臭みがほとんどなかった。とすると、鹿や馬の可能性もあるが、ここまで大きな塊肉というのも珍しい。やはり、かなり上質な牛の赤身肉だろうか。


(私の知らない魔獣肉の可能性もあるかな)


 この島には、私の故郷にはいない狂暴な魔獣が生息していた。これも魔力の影響だ。そして、当地ではそれらの魔獣肉が普通に売られている。いずれもなかなかに美味だった。


 謎肉の仕込みを終え、温めておいた窯に入れる。あとは様子を見つつ、じっくり火を入れていくだけだ。

 私の影法師たちは厨房中をしゃかりき動いていた。野菜を切る者、小麦粉を練る者、鍋をかき混ぜる者、ゆで芋の皮をむく者……本当に便利だ。

 もくもくの湯気の中、黙々と素手で芋の皮をむく私の影を見て、つい感心してしまう。芋の皮をあらかじめ剥くのは結構な手間だし、かといって茹でたてを剥くのは熱さとの戦いだ。しかし、影には痛覚や温感がないらしく、大鍋の中は瞬く間に真っ白に剥かれた芋でいっぱいになった。


「おーい、順調か」


 振り向くと厨房の入り口にガルムがいた。


「仕事はもう終わりかい?」


「城の番として自主的に毒見役を買いに来てやったんだ」


「サボりかい」


「いいじゃねえか。久々にうまい飯にありつけると思ったら居ても立ってもいられなくてよ」


「久々ってどのくらい?」


「んー、一カ月ってとこか」


「じゃあ、料理人のいない間の食事は?」


「生肉に塩を振ってそのままだな。あとは生野菜とか生の果物とか」


「腹、壊さない?」


「そんなのへっちゃらだ。でも毎回同じ味付けだろ? さすがにみんな飽きちまってよ。あと、生肉は顎が疲れる。最近はみんな残す始末だ」


 これが先刻こぼしていた『生肉パーティ』の全貌らしい。たしかに料理人の確保は喫緊の課題だっただろう。


「じゃあ、美味しいディナーのためにアンタも一肌脱ぎな」


 私はそう言いながら、木べらをガルムに渡した。


「なんだこれ?」


「この芋を滑らかになるまですり潰すんだよ」


「ええ……なんで俺が?」


「その筋肉は何のためについてんのさ? それとも芋の一つも潰せないって?」


「……やってやろうじゃんか」


 ガルムは腕を大きく回して、木べら片手に芋の入った大鍋を掴んだ。

 今のはマリアンヌがよくやる小技だった。力自慢の兵士を焚きつけて、重い麦袋を運ばせたり、果汁を絞らせたり、ちょっとした労働を肩代わりしてもらうのだ。

 ガルムは「ウォオオ!」と獣のようなうなり声を上げながら激しく腕を動かした。鍋の底が抜けるんじゃないか、そんな不安が頭をよぎったが、黒鉄の大鍋は頑丈だった。しばらくすると、ガルムは自信ありげに「どうだ?」と鍋の中身を見せてきた。

 一見すると芋はすり潰されているようだったが、木べらで底をひっくり返すと、塊の芋がゴロゴロ出てきた。


「だめだめ、半殺しじゃ生ぬるいよ」


「……半殺し?」


「やるならもっと跡形もなくすり潰さないとね」


 形の残った芋も美味しいのだが、肉の付け合わせは滑らかであればあるほどいい。そういうものだ。ただ、芋の形が残ったのはガルムの腕力のせいではなく、器具のせいだろう。木べらでは大量の芋を潰すのに限界があった。


「なんかもっとこうグシャッとやれるモンはないかねえ」


「グシャッと? ……あ、ちょっと待ってろ」


 ガルムが厨房の外へと駆けた。そしてしばらくすると息せき切って戻ってきた。その片手には大きな棍棒が握られている。


「コレ、どうよ?」


 ガルムから棍棒を受け取る。かなりずっしりとしている。人間のノレアだったら両手でも持ち上がるかどうか。しかし、今の私なら片手でも余裕だった。


「たしかに、大きさといい重さといい、芋を潰すにはちょうど良さそうだけど……こんなもの、どこから?」


猪族(オーク)の仲間から借りてきた。あとで返すからあんま乱暴に扱うなよ」


 よく見ると棍棒のあちこちに刃で削られたような跡がある。妙な黒ずみも。

 私は悩んだ挙句、熱湯で棍棒を念入りに洗ったうえ、清潔な布巾で二重にくるんで、鍋の芋に降り下ろした。芋は跡形もなく粉砕され、私は鍋にバターと塩を加えながら練り上げた。


「旨そうだな……一口だけ、だめ?」


「ほら、作ったやつの特権さ」


 私は鍋から芋をひと匙すくって手渡した。ごつごつの芋は今やクリームのように滑らかだった。


「ンめえ!」


 スプーンを咥えたままガルムが叫んだ。


「そいつはよかった。これ、お友だちに返しといておくれ」


 再度熱湯で洗った棍棒をガルムに渡した。


「おう。じゃ、俺は行くわ」


 ガルムは棍棒を担いで厨房を出て行った。作るべき料理はまだ他にもある。私は私の影たちに指示を出しながら、食料庫へと向かった。


***


 夕食刻を告げる鐘が鳴り、食堂には続々と兵士たちが入ってきた。狼族(ライカン)猪族(オーク)蜘蛛族(アルケニー)蜥蜴族(リザード)牛族(タウロス)……本当にみなバラバラだ。しかし、食べ物が共通だというのはわかっている。猪族でも猪肉は食べるし、牛族も牛肉を食らう。魔族と魔獣は全くの別ものだ。


「うまそー、食っていいか?」


「馬鹿、この芋みたいにすり潰されるぞ」


 ガルムが猪族を小突いているのが見えた。テーブルの上にはすでに料理の皿が並べられていた。

 アドラメレクが私に耳打ちする。


「献立の紹介と号令を」


 私は料理を前に今にも手掴みで食らいつきそうな魔族たちを眺めながら深呼吸した。


「今日の夕食は、根菜のサワースープに、葱とチーズのキッシュ、塊肉の南方風ロースト、付け合わせのマッシュポテト……」


 そこで言葉を区切る。そして考える。号令とは、と。


 真っ先に浮かんだ言葉は「召し上がれ」。でも、その言葉は私にとっては、何よりも苦い言葉だ。思い出しただけで、口の中に鉄の味が広がる気がする。

 だってそれは生前の私の最期の言葉だったのだから。


***


 義妹――つまり、継母の連れ子の婚約が決まり、その祝宴が開かれると聞かされた時、私は上の空だった。婚約相手が、元々は私の婚約者だった宰相家の次男だと知っても、心は動かなかった。

 その時の私は、つい先日暇乞いをして、そのまま屋敷を去っていったマリアンヌのことで頭がいっぱいだった。既に長年勤めていた使用人の大半は、屋敷の空気の悪さに耐えかね辞めていた。きっとマリアンヌもそれにならったのだろう。というのも、なぜ辞めるのか、マリアンヌは何も語らずに去ってしまったのだ。

 私がいつものように厨房に赴くと、そこには一切れのパイと一枚の置手紙だけがあった。


『愛しのノレアへ 私は故郷へ帰ります。何も告げずに去ることを許してください。貴方の顔を見たら、私は私の決断に自信が持てなくなってしまうから。離れていても、心は貴方とともに M』


(何が、貴方とともにだ!)


 私はパイを手で掴むとそれを床に叩きつけようとした。けれど、できなかった。私は震える手でパイを口に突っ込んだ。甘くない、塩のきいたひき肉とゆで卵のパイだった。

 そんなわけで傷心していた私に、義妹の婚約報告など蚊ほど響いていなかった。

 しかし、祝宴の前日になって義妹が直々に私に頼み込んできた。

 祝宴でお義姉さまの作る木苺のタルトが食べたい、と。

 私は最初断った。義妹に含むところがあったからではない。盛大な祝宴、菓子なら職人が腕によりをかけて華やかなケーキやゼリー、飴細工を作るだろう。そこに素朴な焼き菓子は場違いにもほどがある、と。しかし妹は食い下がった。


「お父様が食べたがっているのですよ」


 継母が来てから、父は継母が勧める王都で流行りの嗅ぎ薬に耽溺し、気が付けば床に伏せがちになった。その濁った瞳にはもう、私や領民のことは映っていないように見えた。


「わかりました」


 私が妹の頼みにうなずいたのは、美味しいタルトを食べれば、その目も覚めるんじゃないか、そんな淡い希望を抱いてしまったからだった。


 祝宴当日、侯爵家の長女とは思えないほど地味なドレスで私は宴席の端っこに座っていた。宴の主役の二人は盛装に身を包み、楽し気に笑っていた。そして、食事も一通り供され、最後に菓子類が振舞われた。

 義妹たちの卓に私の作った真っ赤な果実のタルトが切り分けられる。父の卓にも。すると妹が急に立ち上がって私の方を向いた。


「皆さま、この美味しそうなタルトはお義姉さまが作ってくださったものなのですよ。お義姉さまは誰よりも私たちを祝福してくださいました。本当になんと感謝したらいいか。お義姉(ねえ)さまからも是非、一言」


 私は頭が真っ白になった。ただ、何か言わなくては――その一心で喉の奥から言葉を絞り出した。


「二人の門出を祝して、どうぞ召し上がれ」


 父はぼんやりとした目でタルトを見つめ、やがて手掴みでかじりついた。白いひげに生地の食べかすや赤い果汁がべったりとつくのも気にしていないように見えた。

 その様子に、空寒いものを感じてしまった。有名な神話をもとにした、我が子を食らう神様の絵にそっくりだったのだ。しかし、現実は絵画よりも凄惨なものとなった。


「あ、あがっ……がっ!」


 父が急に苦しみ出し、喉を抑えた。と思いきや、盛大に血を吐いた。それこそ、ぐずぐずに煮込んだ木苺よりも暗く赤い液体がひげや着物を染め上げた。一体、何が起きているのだろう。私がぼうっとしていると、甲高い叫びが上がった。


「そ、そんなお義姉さま! まさか!?」


 義妹が私を指さし、叫んでいたのだ。宴席のあちこちから悲鳴が上がった。食堂から逃げる人々と入れ違いで近衛の騎士たちが流れ込んでくる。今思えば、手際が良すぎた。まるで初めからここで事件が起こることを知っていたかのようだ。

 私は逃げようとしたが、すぐさま鎧の男に髪を捕まれ、卓の上に引き倒された。男が槍を構えながら嗤った。


「いつもお高くとまりやがって」


 男は近衛隊の隊長で、私が冷遇され始めてからずっと私に言い寄り続けていた。無視し続けて正解だったと改めて思う。私は男から目を背け、父たちのいる卓に目を向けた。

 父は卓に突っ伏し、その目はあらぬ方向を見ていた。その隣で継母が眉を吊り上げて叫ぶ。


「さあ、その謀反人を殺しなさい!」


 直後、喉が燃えるように熱くなった。口いっぱいに鉄の苦味が広がり、呼吸ができない。槍の穂先は私の喉を貫いていた。


(ああ、ちゃんと食べてもらえなかったな……)


 霞む視界。最期の時まで、私は父の口元に転がる食べかけのタルトを見ていた。

 それが、ノレア・クロイツベルのくだらない幕切れだった。


***


「おーい、料理冷えちまうぞ」


 ガルムの声で私は今この瞬間に意識を引き戻される。魔族たちは肉を目の前にお預けを食らって、恨みがましそうに私を見ていた。


 私はもう、惨めで無力な少女じゃない。私は腹に力を入れて大声を出す。


「一片の肉も、一粒の麦も、残した奴はテメエが明日の夕飯行きだ! 今日の恵みに感謝して、さあ、食らいな!」


 鬼婆の号令とともに、「うぉおお」と魔族たちが料理にがっつく。


「この肉、柔らけぇ! ほとんど噛まなくても食えるぜ」


「香りも味も、たまんねえな」


「肉もいいけど、キッシュもふんわりしててウマいぞ」


「芋、うめえ……芋は飲みもの……」


 魔族の食事は、私の知る食事よりはるかにうるさかった。が、その喧騒は嫌いじゃなかった。みな思い思いのことを言い合っては、料理にかぶりつく。


「申し分ない働きです」


 アドラメレクが言った。

 働き盛りの魔族の胃袋は人間のそれより容量が大きいのだろう。最初は本当に食べきれるだろうかと危ぶまれていた大量の肉も、見事にどの皿からも消えていた。他の料理も同じだ。

 食卓の上に並ぶ空の皿と、兵士たちの満足そうな顔を見ていたら、私は喉の奥が少し苦しくなってきた。

 厨房にいる影たちに、最後の一皿を出すよう指示すると、私はこっそり食堂を抜け出した。


***


「よかった……」


 私は温室の硝子越しにぼやけた星々を見上げながら呟いた。誰にも見られない場所――と思いついたのがこの場所だった。見知らぬ花々が鬱蒼と茂るこの場所なら、どんな顔をしていてもきっと許されるだろう。

 かつて、私の「召し上がれ」という言葉で父が死に、私も死んだ。たとえ、仕組んだのが継母だったとしても、私の料理があの惨劇の引き金になった。私の料理で笑顔にしたいと願ったはずなのに、全ては真逆の結果に終わった。

 だから、もし、また同じ悲劇が起こったら――そんな不安が一瞬、頭をよぎったのだ。


(でも、みんな笑顔で……私の料理を美味しいって……)


 兵士たちの笑顔を見た途端、私はやっと喉のつかえが取れたような気がした。

 私は鼻をすすりつつ、ポケットから手巾(ハンカチ)を取り出そうとした。鬼婆のこんな姿、絶対に誰にも見せるわけにはいかない。


「硝子玉でも涙は出るのだな」


 温室の暗闇から突如、青白い手が現れ、私に純白の手巾を差し出した。

 あまりのことに、私は一瞬言葉を失った。そして、恐る恐るその手巾を受け取った。


「……あ、ありがとうございます…………王様!???」


「やかましい」


 夜闇が凝固したかのように、私の目の前にはいつの間にかシャルーカが立って、私を見下ろしていた。夜空の下でも王の左目は熾火のように赤々と輝いて見えた。


「何故こんな所にいらっしゃるんです!?」


「何故はこっちの台詞だ。何故こんな場所に、そんな顔でいるのか。そもそも、その喋りはなんだ?」


 私はハッとした。想定外の不意打ちで、私はおばちゃんではなくただのノレアになってしまっていた。私は手巾で目元を拭いつつ、取り繕う。


「王様相手に敬語って奴を使ってみようと練習してたんだけど、やっぱ駄目だね。全然、しっくりこないよ。ああ、この顔かい? キッシュ用に葱を切りまくったら、もう涙が止まらなくてね」


「葱で泣くのか?」


「え、アンタ葱を切ったことないの?」


 シャルーカは押し黙った。だがよくよく考えれば、天下の大魔王が葱を切るはずもなければ、その葱に涙するわけもなかった。


「お前から葱の臭いはほとんどしないぞ。むしろこれは……」


 シャルーカが屈みこんで、私の首元に鼻を近づけた。


「甘いな」


「ああ、それはパイを焼いたからだね。焼きたてのパイから香る、卵とバターと小麦の匂い。それは、どんな食材よりも強く香るんだ」


 食料庫には青々とした小さな林檎がたくさんあった。ためしに一つそのまま齧ると、顔のパーツが全部中央に集まるほど酸っぱかったが、私は喜んだ。こういう林檎は加熱すると何より甘くなるのだ。私は料理を作るついでに、生地を折りたたみ、林檎を煮て、夕食の締め括り用にパイを作った。

 今頃、兵士たちは甘酸っぱいパイに舌鼓を打っていることだろう。


「そうだ、ちょっと待ってて!」


 私は首をかしげるシャルーカをそのままに全速力で厨房に駆け込み、再び温室に戻った。


「これはアタシの師匠直伝なんだ。見た目は地味だけど、王様でもきっと満足するはずだよ」


 息を整えながらシャルーカに林檎のパイの載った皿を差し出す。とっておきの一皿、どうせなら王様にも食べてほしかったのだ。


「これを……俺が?」


 シャルーカはパイと私の顔を交互に見た。明らかに戸惑っている様子だ。


(うっ、やっぱり王様はこういう田舎菓子は召し上がらないか……)


 私は時々、頭より先に体が動いてしまう。自分の浅はかさに肩を落としていると、シャルーカが皿を手に取った。そして、パイに鼻を近づけ、手掴みでパクリ。


 しばらく彼は無言だった。あまり長いこと咀嚼しているものだから、不味くて飲み込めないのではと私は焦りを覚えた。

 しかし、一度ゆっくりと飲み込むと、また一口、もう一口と、少しずつ勢いがついていき、とうとうパイは全てシャルーカの胃の中へと消えた。


 空の皿を私に返して彼は言う。


「本当に甘いんだな」


「それは……甘すぎると?」


「いや、俺はこれぐらいがちょうどいい」


 変わった言い回しだが、お気に召してくれたらしい。


「お前の腕が確かで安心した。その調子で城の者たちに料理を振舞え」


 そう言うと、風が吹き、木々が揺れ、シャルーカは跡形もなく消えた。目の前には静かな闇だけが広がった。まるで初めからそこには何もなかったかのようだ。

 けれど、私の手には空の皿と手巾が確かに残っていた。


 私は食堂に戻った。既に兵士たちは夕食を終え、そこには綺麗に空っぽになった皿だけが残っていた。本当に、肉の一片も何も残っていなかった。

 影たちに洗い物を命じつつ、私は自分用に取り分けておいた肉の切れ端や芋を蒸し鍋で温め直した。


「いただきます」


 口いっぱいに頬張った正体不明の肉のローストは、やはり牛とも豚とも違った。しかし、初めて食べた気はしない、どこか懐かしい味だった。柔らかくも程よい噛み応えに、肉自体にほんのり血を思わせる塩気があって、しみじみと美味しい。気が付けば、皿はあっという間に空になった。


「ごちそうさまでした」


 こうして魔王城の食堂の料理番としての初仕事が終わった。


***


◆3/6 魔王、看破す


 翌朝、厨房に向かうと私は真っ先に食料庫を確認した。魔法の氷室には、やはり新しい肉が置かれていた。量にして昨日の倍。これ全部で今日の分ということだろう。流石に朝食から昨晩の量をそのまま消費する必要はなさそうだ。


 用意されていた肉は、昨日のものと比べると脂身が多かった。相変わらず嫌な臭いは全くしない。確信は持てないが、同じ肉の違う部位ではないだろうか。

 私はカンテラをつけて影たちを呼び出し、早速、朝食の準備を始めた。朝食は品数こそ少なくていいが、パンを焼くという大仕事があった。


(……鬼人族(オーガ)の怪力さまさまだなあ)


 大量の小麦粉を練りながら、私は思う。本来であればかなりの重労働なのだが、今の私にはまさに朝飯前。しかもそんな私が十人も。厨房中にびったん、ばったんという音と振動が響き渡り、あっという間にもちっとした白い塊がたくさん出来上がった。

 生地を寝かせている間に、窯の火をおこしたり、他の料理の下ごしらえをしたり、常に忙しなくはあるのだけど、作業に没頭している間はむしろ心が落ち着いた。

 遠くでカラスの鳴く声が聞こえる。換気窓の外はまだ夜空の名残が色濃く、空気は澄んでいた。


***


 朝食は焼きたてのパンとチーズ、具沢山のスープ、それと黄金桃のコンポート。昼食はバラ肉のパン粉揚げと青菜のソテー、空豆のポタージュ。夕食は挽肉のステーキに、野菜のゼリーよせ、キノコとチーズのオーブン焼き――いずれも兵士や城の人々からの評判は上々だった。


「な、俺が言った通りだっただろ? あのババアは絶対にウマい料理を作ってくれるって」


 厨房で食後のケーキを切り分けていると廊下の方からガルムの声が響いてきた。


「たしかに悪くない働きぶりだとは思います。でも、それはあくまで結果論。本来、身元不明の鬼人族(オーガ)を勝手に城に上げ、あまつは料理番をさせるなど……」


 ガルムの話し相手はアドラメレクだった。自分の話をされているのだと気づき、私は耳をそばだてた。耳も目も鼻も、角が生えてから敏感になった気がする。


「お堅いねえ。というか、身元云々を元ヤンのお前が言うか」


(元ヤン?)


「……昔の話はすんじゃねえ。殺すぞ」


 ドスのきいた低い声。アドラメレクのものであるはずだが、普段とあまりに調子が違うので私は耳を疑った。


「お、峠の暴れ馬サマの本領発揮か? つか、走り屋の頭目(ヘッド)張ってたお前が兵士じゃなくて執事やってる方がずっとヘンだろ」


「だから昔の話はするんじゃねえ。それともそのデカい耳はお飾りか? このワンコロが」


「おうおう、やるかあ?」


 二匹が吠える。生前の館でもこういうことはあった。若い兵士二人が極めてどうでもいい口論から、殴り合いの乱闘に。ここに野次馬の兵士たちも加わると、もうひっちゃかめっちゃかなのだ。


「アンタら、いい加減にしな!」


 私は厨房の外に駆けだすと、今にも噛みつかんばかりに睨み合う二人の口に、焼けたばかりのケーキの端っこをぶち込んだ。生姜と香辛料、そしてバターをふんだんに使った煉瓦のようなケーキだ。


「……ん!?」


 二人とも目を白黒させて、この口の中の水分を全部持っていく小麦の塊を呑み込むのに必死になった。


「いきなり何しやがる、このバ……! ノレアさん!」


「うめえな、これ。生姜と蜂蜜か?」


 一通り咀嚼を終えて、思い思いに話し出す二人。


「ガキじゃないんだから、廊下で喧嘩なんかするんじゃないよ」


 私がため息交じりに言うと、アドラメレクはむすっとした顔になったが、その尻尾はせわしなく左右に揺れていた。

 乗馬を嗜んでいた経験からすると、馬がこういう態度を取る時は、不安か落ち込んでいる時だったりする。人馬族も同じかは知らないが。


「……私としたことが、お騒がせして申し訳ございません。以後気を付けますので、では」


 そう言うとアドラメレクはそそくさと立ち去った。


「やーい、怒られてやんの」


「アンタもだよ」


 私はガルムの鼻のあたりを指で軽く弾いた。


「イデッ……手加減しろよ鬼ババア」


 鬼人族(オーガ)というのは本当に怪力らしく、今の私は満杯の水甕だろうと煉瓦だろうと軽々運べる。魔族相手にこんな態度を取れるのも、この馬鹿力があるおかげだ。


「アンタには色々感謝してるけど、あんま人が嫌がることはするもんじゃないよ」


「へいへい……」


「ところで、『元ヤン』って?」


「ああ、元々ヤンチャって意味さ」


 ガルムは鼻をさすりながら、ニッと白い牙を見せた。


***


「植物が好きなのか?」


「菫と薔薇と食べられる植物なら好きだね。でも今日はそっちじゃない」


 私はそう言って、シャルーカに白い手巾を差し出した。昨日お借りしたものだ。きちんと洗濯して、プレスもした。彼は私の手から手巾を受け取った。


「くれてやったつもりだったんだがな」


 本当は日中にお返しするつもりだったのだが、城中を探してもシャルーカは見つからず、それなら昨晩と同じ場所にいるかもしれないと、私はこの温室で彼を待ち構えていた。


 仮にシャルーカが来なかったとしても、一日の終わりに、星空の元、花々を眺めるのは悪くない時間の使い方に思えた。


「相変わらず甘い匂いだな」


「蜂蜜とスパイスのケーキだよ。食べると血の巡りがよくなるんだ」


 私はケーキと茶器の入った編み籠を掲げてみせた。魔術仕掛けの銀のティーポットはどんなに時間が経ってもお湯が冷めない優れものだった。


「……俺の顔色が悪いとでも言いたいのか?」


「まあね。この花は炎症を止めるものだろう? こっちの葉っぱは痛み止め。あまり具合がいいとは思えないけど……ちゃんと食べてるのかい?」


 私は足元に咲き乱れる黄金色の小花に視線を落とした。昼間、調べものついでに、図書室から植物図鑑を持って照らし合わせてみたのだ。図鑑によると、この花は皮膚の炎症や化膿に効く植物だと書かれていた。その隣にある棘のある肉厚な植物も、搾り汁が痛み止めとして有効とあった。


 この温室にある植物はいずれも何かしらの薬効があるようで、つまりここは薬草園でもあった。


「要らぬ心配だな。ここにある薬草は兵士たちのためのものだし、俺は食事などしない」


「え……?」


「俺は大気中から魔力を取り込める。だから、食事で栄養を取る必要はない」


 私は絶句した。この世界に、本当に霞だけ食べて生きている存在がいるなんて。


「なんだ、その顔は……」


「いやだって、食事をしないなんて、そんな味気ない生活、私、全然想像できなくて……」


 人は生きるために食べるのではなく、食べるために生きている――と私は考える。つまり、食事こそ人生の醍醐味。その食事をしない生活なんて私にとっては死んでいるも同然だ。

 一体この王様は、何を楽しみに生きているのか――


「素が出てるぞ」


「あ……」


 私は思わずバスケットを取り落とす。

 しかし、地面に落ちる手前でバスケットは宙に浮いた。シャルーカが指先をくるりと動かすと、それはゆっくりと花壇の縁に着地した。


「危ないだろ」


「す、すみません……あ!」


 衝撃のあまり、私はまた()()のノレアとして喋ってしまった。これで二回目。いよいよ言い訳が苦しい。


鬼人族(オーガ)にしては奇妙な喋り方だが、俺は気にしない。役割や立場によって話し方を変えるやつなら、他にも知っている」


 言われてみれば。似たような人を私はついさっき見たばかりだ。


「……アドラメレクさんですね」


「別に敬語を強要したことなど一度もないのに、何故かあの喋り方だ。まあ、本人が望んでやっていることだから止めはしない。お前も、好きに喋ればいい」


「今さら、皆さんの前でこの喋り方はできません。ガルムさんにまた騒がれます」


「なら皆の前ではせいぜい鬼人族(オーガ)らしく振舞え」


「王様に対してはどうすれば?」


鬼人族(オーガ)らしく振舞ってくれても構わん。お前にその胆力があるならだが」


 演技と見破られたうえで、鬼婆として振舞うのは、かなり堪えるものがある。


「王様には、こちらで対応させてください」


「好きにしろ」


 私は深々と溜息をついた。演技はバレた。けれど、人間であるとは見破られていない。なら、良しとするべきか。


「……食事しないなら、ケーキも余計なお世話でしたよね。すみません、知らないばかりに」


「食事の必要がないだけで、食べられないとは言っていない」


 そう言うとシャルーカはバスケットからケーキを取り出し、かじりついた。


「……複雑な味だな。甘いのに少し痺れるような感じだ」


「生姜に胡椒、丁子、月桃……色々入れてあります」


 私はそう言いながら、ポットのお茶を注いでシャルーカに渡した。

 シャルーカはあっという間にケーキを平らげた。


「一つ訊くが、このケーキや昨日のパイ、お前は何か魔法をかけたか?」


「魔法? いえ、ごくごく普通に作った()()のケーキとパイです。もしや、お口に合わなかったか……まさか気分が悪くなった!?」


 食事に毒草や爬虫類の干物、血などを混ぜて他人を呪う――そういう黒魔術なら聞いたことがある。もちろん、私はそんな外法をかけた覚えはないのだけれど。何か誤解を生むような重大な失態が、私のケーキにあったのだろうか。


「いや、気分を害したわけじゃない。味も、むしろ美味だった。だから、何か特別なことをしているのかと思ってな」


 それはつまり、魔法のように美味しかったということだろうか。


「……何故、そんなニヤけた顔になっている」


「すみません! えっと、師匠直伝のおまじないみたいなのはあるんですが、魔法とは無縁で……それで、あの、またお作りしてもいいですか?」


「構わん。ただ、俺は毎晩ここに来るわけじゃない。今後、作ったものはアドラメレクに渡せ」


「わかりました。何かお嫌いな食材はありますか?」


「……肉」


 肉が苦手な人間は稀にいるが、肉が苦手な魔族というのは初めて見る。やはりシャルーカの恵体は体質だろうか。シャルーカの体は相変わらず大きく、丸々としている。普段、空気を吸っているだけとは思えない。実は針でつついたら、しゅーっとしぼんだりするのだろうか。


「お前、くだらないこと考えていないか?」


 赤い目がギョロっと私の方を向いた。


「い、いえ全然!」


「まあいい。馳走になったな」


 王様はそう言うとまた風になって消えた。

 肉が苦手で甘党の魔王――私の口からふふっと声が漏れた。


***


◆4/6 謎肉、変幻す


 三日目、朝食は麦粥、ヨーグルト、花梨のコンポート、昼食は薄切り謎肉とアスパラガスの香草炒め、キノコと芋のクリーム煮、夕食は謎肉の塩釜焼、赤い野菜の田舎煮、チーズオムレツ、食後のカラメルプディング。

 四日目、朝食はパン、チーズ、野菜と細切れ肉のスープ、干し葡萄、昼食は謎挽肉たっぷりの芋グラタン、目玉焼き、炒葱の琥珀スープ、夕食は謎肉と根菜の香辛料煮込み、薄焼きパン、青菜とチーズのホットサラダ、食後の木苺のグラニテ。

 五日目、朝食は麦粥、ヨーグルト、椿桃のコンポート、昼食は厚切りの謎肉のソテーに、付け合わせの温野菜と蜂蜜と辛子の甘辛ソース添え、白蕪のポタージュ、夕食は謎肉の串焼き、ひよこ豆のペースト、無花果とチーズのサラダ、食後の木の実のタルト。

 六日目、朝食はパン、チーズ、野菜と細切れ肉のスープ、干し杏子、昼食は謎挽肉のラザニア、揚げ芋、サクランボのスープ、夕食は謎肉のシチュー、焼きパプリカのマリネ、キノコのキッシュ、食後の柑橘の糖衣がけケーキ。

 七日目、朝食は麦粥、ヨーグルト、李のコンポート、昼食は塊の謎肉と香草の酒蒸し、ふかした芋と人参、キャベツの酢漬け、夕食は揚げた謎肉の甘酢和え、青菜と大蒜の炒め物、野菜とふんわり卵のスープ、食後は芥子の実餡の揚げ菓子。


 焼いた謎肉、蒸した謎肉、揚げた謎肉、謎挽肉のオムレツ、謎塊肉の煮込み、謎肉の串焼き、謎肉の包み焼、謎肉の燻製、謎肉の腸詰、謎肉の煮凝り、謎肉のソテー、謎肉の饅頭、謎肉、謎肉、謎肉謎肉謎肉肉肉……


(……また肉!)


 いつものように氷室に鎮座している新鮮な肉を見て、軽い眩暈を覚えた。この城に来て早一カ月。料理人の仕事は順調だが、一つだけ悩みがあった。

 それがこの肉。

 日によって、脂身や赤身、すね(?)肉など、部位の違いはあれど、どれも等しく肉だ。

 いちおう私は肉料理だけで云十種類は作れるし、付け合わせとの組み合わせも含めれば、同じ料理を短い期間で被らせることはまずない。

 しかし、調理の仕方をいくら変えたところで、肉は肉。そろそろみんな別のものを食べたくは、ならないだろうか?

 今のところ、兵士たちから全く不満は上がっていなかったし、料理が残ることも決してなかったが、私は思い切ってガルムに訊いてみることにした。


***


「飽きる? いや全然」


「でも前は生肉パーティで飽き飽きしたって」


「そりゃ毎回同じ味付けで、しかも硬くて食べにくかったからな。でもお前が来てからは、毎日違う味付けで、しかもウマいと来た。特に不満はねえな」


「嬉しいこと言ってくれるねえ。けど、鶏肉とか魚が食いたくなったりはしないのかい?」


「あー、言われてみれば、最近食ってないな。そりゃ、たまに食えたら嬉しいけど、無理にとは言わないな」


 魔族は食に対して謙虚なのかもしれない。私は生前なら、昼食と夕食で出される食材は違うのが当然だと思っていた。昼が鱒なら、夜は牛肉。昼が鶉肉なら夜は羊肉といった具合に。それが贅沢なことで、決して普通ではないと父はたびたび私に説いた。


 しかし、これだけ食材が豊富な城で、肉だけが一種類というのは奇妙だった。それに青果や卵、牛乳など他の食材は商人らしき魔族が納入しに来ているのを何度か目撃しているが、肉に関しては一度もない。食材の仕入れもアドラメレクが管理しているから、肉も彼の管轄なのだろうが。


***


 シャルーカの夕食を取りに来たアドラメレクに私は肉の件を切り出した。


「魚か別の肉を仕入れてほしい、と」


「もしできれば、ね。別に今の肉で十分なんだけど、たまには趣向を変えた方がいいかなって」


「なるほど、善処しましょう」


 私の申し出にアドラメレクはすんなりと頷いて、私の用意した皿を給仕台に乗せた。

 すっかり慣れたものである。はじめの頃は(本当にこれを王に食べさせるのか)とまるで毒物を見るような目を私と料理に向けていた。

 今私は食後の菓子だけでなく、肉を使わない料理も取り分けて渡していた。甘いものだけというのは、やはり体に良くない。とはいえ、無理強いする気もなかったので、はじめは「要らなきゃ残してくれ」と(ことづ)けもした。結果、皿は空になって返ってきた。

 最近はアドラメレクも、そこそこ私のことは認めてくれているらしく、素直に皿を運んでくれる。


 今日の菓子は、檸檬とラベンダーのメレンゲタルトだ。


「いい香りですね」


「だろ? アンタも仕事が終わったら、食べるといいよ」


 アドラメレクはタルトの皿を台にのせて厨房を出て行った。


***


 翌朝、氷室には見たこともない肉が置かれていた。


「魚肉かな」


 薄桃色の繊維質な肉は、明らかに今までの肉とは違っていた。しかし、一般的な魚の肉に比べるとかなりしっかりしている。


「……臭いがない?」


 私はその魚肉に鼻を近づけたが、魚独特の生臭さというものが一切なかった。川魚では決してないだろう。しかし、海の魚だってもう少し臭いそうなものだが。

 もう一つ気になるのは大きさだ。いつもの塊肉のように大きな切り身が油紙に包まれ、どんと置かれている。その身には、皮も骨も血合いも、まるで見当たらない。生前の魚の姿が全く偲ばれないのだ。想像できることと言えば、元は相当な大型魚だろうということぐらい。


「メカジキ……いや、サメ?」


 薄桃色の瑞々しい身は脂っけが少なく、見るからに淡泊な味わいである気がした。頭の中でおのずと献立が組み上がっていく。


 朝食はいつも通りの麦粥で、昼食には謎魚肉を野菜や香草とともに酒蒸しにして振舞った。評判は上々。謎魚肉は加熱すると身がふわっとして、優しい味だった。身から出た出汁をパンに浸すと、これもまた美味しい。肉ばかり食してきた体には殊更沁みた。

 夕食はぶつ切りにした謎魚肉にパン粉をつけてカリっと揚げた。卵黄とビネガーをかき混ぜたクリーミーなソースも添える。アクセントとして入れた刻みピクルスとパセリがまた食欲をそそる。兵士たちは山盛りの揚げ魚をぺろりと平らげた。


***


 夕食の片づけも終え、温室の長椅子に腰かけて一人お茶を飲んでいると、いつの間にか横にシャルーカが腰かけていた。しかし、私は驚かない。夜に温室を訪れると、三回に一度は彼と出くわすからだ。


「今日は災難だったな」


「ええ、全くですよ。三人揃って、同じ酒場の歌姫に恋してたらしくて、誰が本命かでもう殴る蹴るの大喧嘩」


「で、お前が喧嘩全成敗と」


「そんなつもりはなかったのですが、ついうっかり手が出てしまいまして」


 夕食後の食堂は、兵士たちの談話室でもある。カードゲームに興じたり、それこそ恋の話に花を咲かせたり、なかなか微笑ましい。私も厨房から耳をそばだてて、たまに茶々を入れつつ、お茶や菓子の差し入れをしたりする。


 ただ、今日は熱が入り過ぎた卓があった。彼らは皆、城下町の酒場の歌手に高い貢物をしていて、自分が恋人だと言って譲らなかった。多少、騒がしいぐらいなら無視するのだが、差し入れのタルトの皿に、相手の顔をめり込ませる狼藉を働いた蜥蜴族(リザード)がいて、私は厨房から飛び出して彼を背負い投げした。蜥蜴族の兵士は一瞬何が起こったのかわからず、床に仰向けになって目を白黒させた。

 私も、自分がそんな大胆な行動に出たことに自分で驚いて、とりあえず、他の喧嘩していた兵士たちも同じように掴んで床に放り投げた。一人だけ投げるのは、何だか不公平な気がしたのだ。

 一部始終を見ていたガルムは爆笑していた。


「やはり、鬼人族(オーガ)は剛力だな。これなら兵士として雇った方がよかったか」


「勘弁してください……」


 こんなところまでマリアンヌの真似をしなくても、と私は自嘲した。マリアンヌもたまに舐めた口を利く新米兵士に拳骨を食らわしていた。彼女の拳骨を食らった者は、二度と同じような態度はとらなくなっていた。


「その左目も、ひょっとして荒事で失ったのか?」


「えっと、これは……猪にどつかれて」


 思いがけない質問に、思わずトンチンカンな言葉が口をつく。シャルーカも眉間にしわを寄せた。何故、よりによって猪――と自問して、全くのデタラメでもないことに気づいた。


 実際、マリアンヌは猪にどつかれて目を怪我したのだ。母が亡くなる少し前、精がつくように兎を捕りに行った帰りの事故だったそう。目を負傷してまで作った兎肉のスープだが、母はスープ皿をひっくり返してしまった。そのぐらいに衰弱していたのだ。何度も謝る母を、マリアンヌがなだめていたのを覚えている。マリアンヌはそれからずっと片目を閉じて生活していた。ただ普段からほっかむりをしていたからか、片目を閉じていることはさほど目立ちはしていなかった。


「魔猪か……あれは凶暴だからな。この国でも毎年何人も死んでいる。やはり魔獣駆除にもっと人員をさくべきか……」


 シャルーカは大真面目にぶつぶつと呟いていた。

 その横顔を私はまじまじと見る。シャルーカは出会った頃とはほとんど別人のようだった。

 瞼はすっきりと、頬肉のたるみもすっかり消え、顔つきは精悍そのもの。そして、顔のみならず、その体の横幅は今や出会った当初の半分程度だった。

 数日ごとに会うたび、徐々に細くなっていくから、はじめは目の錯覚だと思ったが、一月も経つとその変化は劇的で、痩せたことは疑いようがなかった。

 それにブラウスから覗いていた包帯もほぼ取れている。ただ一か所、右目の包帯だけは相変わらずだが。


「もしかして、王様の右目も猪に……?」


 私の言葉に、シャルーカが煩わしそうに左目を向ける。


「俺が猪如きに遅れを取ると?」


「すみません!」


「……冗談だ。それより、これが気になるか?」


 シャルーカはそう言って、右目に手を添えた。不意に鳥肌が立つ。温室の空気が、氷室のように急激に下がったのだ。シャルーカが意図しているかはわからない。けれど、その目は触れてはならないもののようだ。


「い、いえ……あの私、図書室に寄りたいので、今日はもう戻りますね!」


 私は逃げるように温室を去った。


***


 翌日、氷室には今度、新鮮な鳥肉が置かれていた。多分、鴨や鳩ではなく、鶏の肉だと思うのだが断定は難しかった。しかし、他の肉同様、一切の臭みはなく、肉質は上等。であれば、問題はないのだ。

 こうして、魔王城の食卓には、謎獣肉、謎魚肉、謎鳥肉が日替わりで並ぶことになった。兵士も使用人も王様も、みんな私の料理に満足して、笑顔になってくれる。

 ああ、なんて素敵な日々だろう。

 なのに、私は時々、悲鳴とともに飛び起きて朝を迎える。どんな夢を見ていたのかは、一切覚えていない。ただそういう時、決まって左目からは涙があふれていた。


***


「図書室通いはやめたのか? 少し前までは足しげく通っていたようだが」


「ええ、ここにある料理や食材の本は粗方読みつくしましたので」


 温室でぼんやりと白い花を眺めていた私にシャルーカが声をかけた。


「少し顔色が悪いように見える」


 シャルーカの手が私の顔に伸び、私の左目を拭った。


「最近すこし寝付きが悪いもので……疲れるとこっちの目だけ涙が出るんです」


 子供じゃあるまいし、涙を見られるというのはやはり気恥ずかしい。私は左目をこすって、明るい声音を作った。


「それより王様こそ、お体は大丈夫でしょうか? 今の王様はその……想像以上に痩せられたので。蕪が大根になるぶんにはいいのですが、このままじゃゴボウになってしまうんじゃないかと……」


 シャルーカの横幅は今や元の半分以下。細身とまでは言わないが、元が長身なので手足の長さが際立って見えていた。王都の舞台俳優さながらに見映えのする姿だが、このまま三分の一、四分の一と擦り減ったらさすがにまずいだろう。

 何故こんなに痩せてしまったのか。やはり、肉や魚を口にしないからか。しかし、それ以外のものはしっかり召し上がってくださる。であれば、栄養不足とは思えない。そもそも、シャルーカは食事をする必要がないという話だったが。


「俺を野菜扱いか」


「い、いえ! 今のは言葉のあやで!」


「別に怒ってなどいない。それに、今の俺は大根のように生白くも、ゴボウのように土気ばんだ顔でもあるまい」


 たしかに。

 王様はうんと痩せたが、顔色はぐっと良くなっていた。ただ、右目の包帯だけはまだ取れていなかった。


「見ての通り、お前の料理で俺はだいぶ救われた。お前はさしずめ命の恩人だ。望みがあるなら言ってみろ。叶えてやる」


「め、滅相もございません! 過分なお言葉、それが聞けただけで十分ですので」


 私は驚いた。王様がそんなことを言い出すなんて。それに、私の料理だけでここまで健康になったり痩せたりするとは思い難かった。たまたま出会った頃に患っていた病が、徐々に快癒したに違いない。

 慌てふためく私を見て、王様は笑った。


「謙虚な鬼人族(オーガ)なぞ、この国中探してもお前ぐらいだろうな。本当に何も思いつかないのか?」


「はあ……あ、では一つだけ。一日だけ、いえ半日だけでもお暇をいただくことはできませんか?」


 シャルーカが眉を顰める。いつかと同じように空気がきゅっと冷えるのを感じた。そこで私も気づく。私が休むと、一体誰がこの城で食事を作るというのか。カンテラで生み出す影たちは、私の指示なくしては動かない。この城にはアドラメレクはじめ使用人は数多いれども、料理が出来るのは私だけだった。


「あ、いえ……やっぱり大丈夫です」


「いや、俺こそすまない。自分から言い出したことなのに……その、急な話だったから、少し時間が欲しい」


 王様にしては珍しく歯切れの悪い物言いだった。


「やはり働き詰めだと、そろそろ休みがほしいか?」


「そういうわけではなく。ただ、お世話になった方々に会いたくて」


 私はそう言ってポケットにしまっていた手紙を取り出した。

 差出人は、ヤン爺とエヴァ婆だ。二人にはお世話になったお礼として、お給金のいくらかを伝書鴉に頼んで送ったのだが、そのお金は手つかずのまま帰ってきてしまった。返事の手紙には、『気持ちだけで十分。それは大切にとっておきなさい。それよりも元気そうで安心した。もしよかったらまた顔を見せに戻っておいで ヤンとエヴァより』とあった。


「お前が、ヤン先生の家に厄介になっていたとは」


 私の手紙をのぞき込んで、シャルーカ王が言った。


「ご存じなのですか?」


「先代、いや先々代から我が城に仕えてくれた方たちだ。城の魔術道具の大半はあの方がこさえてくれた。お前も、窯の火や影法師のカンテラにはお世話になっているだろう」


「そんなすごい方だったんですね」


「知らなかったのか? 俺も子供の頃、家庭教師としてついてもらって色々と教わったものだ」


 そう語るシャルーカの瞳には、いつになく澄んだ柔らかな光が宿っていた。人間からは魔王とあだ名されても、実際には冷酷でも暴虐でもない王だが、普段は不愛想というか淡々としているので、こんな表情もできるのかと少し意外な気がした。


「ヤン先生とはどこで知り合った?」


「旅の途中で道に迷っていたところを良くしてもらって、しばらくお宅にご厄介になっていたんです」


 記憶喪失で行き倒れていたところを拾われた――というのは、さすがに胡乱すぎるだろう。私は大嘘にはならない程度に言葉を選んだ。


「もしかして、その左目も先生に作ってもらったのか?」


「ええ。そういえば、王様はすぐに気づいていましたね。この目が偽物だと」


「魔術で巧妙に動いているが、さすがに本物の方が美しい」


 柘榴色の瞳が私をのぞき込む。真正面にそんなことを言われるのは、何だかむず痒い。私はごまかすように笑顔で言った。


「そういうものなのですね。自分ではよくわからなくて」


「気にするな。見抜けるのは俺ぐらいだ。俺は他より少し目がいい。ともかく、先生のためにも、いずれは休みを取れるよう取り図ろう」


 その口ぶりからして、本当に他意はないのだろう。ホッと胸を撫でおろしつつ、何だかドキドキしてしまった自分を恥じる。


「ありがとうございます。じゃあ、私はこれで」


 収まりの悪さを感じて、私は踵を返そうとした。すると、私の手は強い力で掴まれた。


「あの……」


「お前はこの城での生活をずっと続けたいと思うか?」


「ずっと?」


 想像する。この城で、兵士や王様に食堂のおばちゃんとして料理を振舞い続ける。毎日毎日、ほとんど同じことの繰り返し。代わり映えはしない。変わるのは料理の献立くらい。私が料理を作り、皆が食べて、満足そうにお腹をさする。そんな平和な日々の繰り返しを、私はずっと願っていた。

 できることなら、そこに父と母と、そしてマリアンヌもいてくれたら――

 とは、思わなくもないが、叶わない夢を見ようとすると、また左目がくたびれて濡れてしまう気がした。

 だから、今日のような日々が続くだけで、これ以上は望むべくもない。


「私は……」


「いや、変なことを訊いたな。今のは忘れてくれ」


 そう言うとシャルーカはすぐそばに咲く白い花を摘んだ。


「眠れないなら、この花の蜜を舐めるといい。眠りへ誘ってくれる。稀に悪夢を見ることもあるらしいが」


 喇叭のような形の白い花を受け取ると、風が吹き、シャルーカは消えた。


***


◆5/6 鬼と竜、相食みす


 あらぬ方向を見つめる濁った眼、血と泡で汚れた口元、食べかけの真っ赤なタルト――


 暗闇の中、私は飛び起きた。口の中はカラカラで、鉄のような苦い味が広がっている。

 よりによって、自分の最期を夢見るとは。

 枕元には白い花が転がっている。シャルーカに手渡された花を、私は寝る前に口にしたのだ。喇叭の花弁の吹き口にあたる部分は口に含むと、舌の上にほんのりと甘くも、ほろ苦い蜜の味が広がった。そして、そのまま私は気絶するように眠りについた。

 だが、効きがよすぎたらしい。深い眠りはそのまま悪夢に繋がってしまったというわけだ。


 私は毛布をかき抱き、強く目をつぶった。しかし、心臓がどっどとうるさくていっかな寝付けやしない。

 「仕方ない」と自分に言い聞かせるように声に出して、私は寝台から起き上がった。窓の外はまだ月が高く、夜明けはまだ遠そうだった。


 部屋を出ると、廊下は魔法の灯火でほの青く照らされていた。その色は初めてこの城に来た時に見た罪人を焼く業火と同じ色だったが、あの火と違って熱は感じなかった。

 灯火をたよりに目指すは下の階の厨房。嫌な夢を見たとか、寝付けない夜は蜂蜜をたっぷりと溶かしたホットミルクを飲むに限る。それを最初に教えてくれたのは、マリアンヌだったか、それともまだ元気だった頃の母だったか。どちらとも、甘く温かい真珠色の思い出がある気がした。


(あれ?)


 階段を降りようとして、私は階下から響く硬質な音に足を止めた。階段の手すりから身を乗り出して下を見ると、その特徴的な下半身のシルエットは間違えなくアドラメレクだった。音は彼の蹄だ。アドラメレクは私と同じ方向に、つまり厨房や食堂に通じる廊下の方に向かっているらしかった。

 声をかけるのは何となく躊躇われて、アドラメレクが先に行ったのを見計らって階段を下りた。廊下の方を見ると、彼は廊下の最奥へ、決して入ってはいけないという古い扉の向こうへと消えた。

 一体、何の部屋だろう。そう思いながら、私も廊下を渡る。やはり、最奥の禁じられた扉は開け放たれていて、扉の奥に広がる暗闇はまるで私を誘うかのように見えた。しかし、私は誘惑を断ち切ってその手前の厨房に入った。

 そして、牛乳を入れた鍋に火をかけた。


***


(遅いなあ……)


 マグカップいっぱいに注いだホットミルクはもうほとんどなくなっていた。カップはとっくに温度を失っている。その間、アドラメレクが奥の部屋から戻ってくる気配は全くなかった。彼はあの部屋で一夜を過ごすのだろうか。

 そう思っていたその時だ。

 蹄の音が近づいてきているのが聞こえた。耳をそばだてていると、徐々にこの厨房に近づいているのがわかった。私は、思わず調理台の下に身を隠す。

 後々で考えれば、料理番である私が夜中に厨房の様子を見に来ていたとしても、咎められることなどないはずなのに、何故か私はやましいことをしているような気がしたのだ。それは相手がアドラメレクだからか、それとも、子供の頃、勝手に厨房に入ってマリアンヌに殴られた記憶のせいか。

 そんなことを思っていると蹄の音は私の潜んでいる調理台のすぐそばを通って、そのまま奥の食糧庫へと向かっていった。そして、しばらくすると蹄は来た道を戻り、厨房から出て行った。


 蹄の音が全く聞こえなくなってから、私は調理台の下から立ち上がり、アドラメレクが出てきた食料庫の方へと向かった。

 食料庫は薄暗く、仔細は確認しようもなかったが、大きく何かが変わった様子はなかった。

 では、アドラメレクは何をしにここへ?

 たとえば、お腹が減って林檎の一つでも失敬しに来たのだろうか。


(でも、盗み食いする性格じゃないよね)


 ふと、氷室の方に視線を向ける。思わず、「あ」と声が漏れた。

 そこには油紙に包まれた肉が積まれていた。

 少なくとも、私が夕食の片づけをした時点では空になっていたはずだ。とすると、アドラメレクは今さっき、この肉をここに運び込んだのだろうか。


(じゃあ、この肉の出所は……)


 私は厨房を出て、廊下の最奥の扉の前に立った。木でできた古い扉だ。しかし鉄の取っ手は錆びついておらず、きちんと磨かれているようで、暗闇の中でも艶やかに光っていた。

 なんとはなしに、取っ手に手をかける。それは予想に反して、呆気なく開いた。

 黒々とした闇が私の前に広がる。その闇の中を覗きこむと、下の方にかすかに光が見える。扉の奥は地下への階段になっていた。


 開けてはならぬ――

 進んではならぬ――


 そういった禁忌を破った末に痛い目を見る者たちの童話や神話は珍しくない。子供心に、そんな簡単な言いつけを破る物語の主人公たちを愚かだと思ったものだ。だから、今こうして暗闇の中に足を踏み入れようとしている私のことも、きっと子供の私は軽蔑するだろう。暗闇が呼吸をするように、地下から生ぬるい風が吹いて、私の髪を撫でた。

 私は大きく息を吸い込むと、扉の中へ。暗い階段を一段一段おりていった。


***


 階段は長く、一向に終わりが見えなかった。螺旋状の階段だから、具体的に何階分を下りていたのかはわからないが、下り続けた時間を考えると、とっくにこの城の地上部分以上の高さを下っているように思えた。

 しかし、永遠に続くかと思われた階段もとうとう終点を迎えた。突然途切れた階段に、私の足はもつれ、間一髪、平らな地面で踏ん張る。地面は土だろうか、泥を跳ね上げたような水っぽい音と柔らかさがあった。


 周囲を見渡す。

 そこは、私の寝室よりは広く、厨房よりは狭い空間だった。ここにも魔法の青い火が灯る燭台は置かれていたが、広い空間を照らすには不十分だった。青い光で照らされた壁は、てらてらと濡れているように光っていて、白っぽい部分と色の濃い部分が何層にも分かれているのが見えた。


(大理石?)


 私はその壁に手を触れた。

 温かく、湿って、柔らかい――

 冷たく硬質な鉱物とは正反対の手触りに、私は思わず手を引っ込めた。触れた右手には湿り気だけが残る。今のは錯覚だろうか。

 恐る恐る、もう一度壁に手を触れてみる。

 その壁は、生温かく、柔らかで、強く押すと手の中でびくりと跳ねた。


 私は目を見開き、薄暗い空間を眺めた。

 天井も、床も、今、私の右手が触れている壁と全く同じもので出来ている。この感触を私はよく知っている。

 肉だ。

 肉の壁、肉の天井、肉の床――ここは一面、肉で覆われた部屋だった。


 その時、私の手の中で肉の壁が脈を打った。壁だけではない、床も、天井も、部屋全体が脈動したかのように、少し震えた。

 直後、ぬちゃっと生肉を棒で叩いた時のような音がした。音のした方を見る。部屋の隅で、壁が歪つに膨れ上がっていた。つまり、肉がひとりでに増え、やがて自重で垂れ下がっていく。

 おぞましい光景のはずなのに、私は目が離せない。肉の増殖はその壁の一角でしばらく置き続けていた。

 この肉が何かはわからない。けれど、きっとこの肉こそが、私たちが毎日、毎食、口にしているあの肉に違いない。だって、私は毎日、毎食、この肉に触れているのだ。間違えようはずがない。

 私は、今さっき生まれて垂れ下がった肉塊に手を伸ばし、しかし、その手を止めた。


「恐ろしいか?」


 背後から低く囁かれる声。心臓に氷の針を穿たれたように全身がこわばる。声の主は振り向かなくてもわかっていた。


「シャルーカ様……」


 振り返れば、案の定、そこには城の主が立っていた。


「この城は俺の体のようなものだ。そして俺はお前の血を知っている。この城にいる限り、お前がどこにいようと俺にはわかる」


 ここで雇われることになったとき、シャルーカに指を噛まれたことを思い出す。あれは単に儀礼的なものではなかったらしい。

 赤い目を瞬かせて、彼は私に訊ねる。


「見るにおぞましく、触れるに厭わしいか?」


「いえ……食材に素手で触れるのは好ましくないと思いまして。特に私は体温が高いので」


 ハハハハハ――まるでこの部屋そのものが笑っているかのように、空気が震え、声が響き渡る。


「謝罪の言葉もなく、それか。つくづく変なやつだ」


 そう言われて私はようやく気付く。私は言いつけを破ったのだ。


「申し訳ございません! でも、あの、この肉は何なのでしょう? きっと、私たちが毎日口にしている肉だと思うのですが……」


「俺の肉だ」


 その言葉の意味がわからず、目をしばたかせる私に対し、シャルーカは勢いよく腕を伸ばした。思わず身構えたが、その手は、私の顔のすぐ横を通り過ぎ、肉壁に向かった。そして、その肉を抉る。

 見ればシャルーカの手は鱗に覆われ、その指には刃物のごとく鋭い鉤爪が備わっている。まるで爬虫類のようだが、彼の氏族を考えればそれこそが本来の姿なのかもしれない。竜の手は容易く、壁から一塊の肉を削ぎ取っていた。


「見るがいい」


 シャルーカは肉塊を床に放ると、その手でブラウスの裾をまくり上げた。


「あ……」


 あらわになった彼の腹部は、脇腹のあたりが抉られたように、肉の一部が欠損していた。壁と同じ色の赤い断面が、てらてらと光って見える。しかし、不思議なことに血は一滴も流れていなかった。

 呆然とする私にシャルーカが語る。


「これでわかったか? この部屋の肉は、俺の一部であり、俺そのものだ」


 肉とは皮膚の下、体の内側にしまわれているもので、体の外側に部屋として存在するとはどういうことか――私にはさっぱりだった。

 が、千切れたような肉の断面を見て、私は真っ先に思った。


「手当を! 早く手当しないと!」


「その必要はない」


 シャルーカは指で肉の壁を指さした。ついさっき抉られてできた裂け目が、まるで呼吸する唇のように、ひとりでに伸縮を繰り返し、見る見るうちに欠損は塞がった。肉が増殖したのだ。

 シャルーカの方を見ると、その脇腹の欠損も、断面の肉がじわじわと膨れていき、あっという間に塞がって、元通り。滑らかな白い肌には傷一つ見えなかった。


「俺の肉はほっとけば無尽蔵に増え続ける。だから、むしろ食べてもらわねば困るのだ」


 ここに来たばかりの頃、アドラメレクが、執拗に氷室の肉を使い切るように言っていたことを思い出す。肉が増え続ければどうなるのだろう? まさか、この部屋から溢れ出すのだろうか。

 まるで私の心を読むようにシャルーカは言う。


「ああ、この部屋から溢れるほど肉が増えれば、この体の肉も増える。肥え太るぐらいなら可愛いものだが、腕から別の腕が生えてきたり、こんな風になったりもする」


 そう言いながらシャルーカは右目の包帯を外して見せた。閉じた瞼が開く。


「瞳が、二つ……?」


 黄身が二つある双子の卵のように、その目の中には、二つの眼球がごろごろと動いていた。


「たった一月、肉が余るだけで、このざまだ」


 私がここに雇われるまでの料理人が不在だった期間がちょうど一月。つまり、この部屋の肉が増え続けた結果、その双子の目のような異常が彼の体に起こったらしい。


「でも、料理人がいない間もこの城の人々は肉を食べていたと聞きますが」


「ああ。だがそれまでと違い、だいぶ食べ残しが増えた。食われなかった肉は俺に返ってくる。そういう魔法でな」


「魔法?」


「かれこれ千年以上昔の話だ。この島は未曾有の飢饉に見舞われた。川は干上がり、大地はひび割れ、穀物一粒も取れず、同族同士で食い合うほどの酷い有り様。それを憂いた俺のご先祖は、自らの血肉に魔法をかけた。この島の者が飢えないよう、絶えず増えよ、と。

 当時の先祖は、この城よりも大きな竜体で、扱える魔力も俺なんかの比ではなかったらしい。山のように尽きぬ肉を得て、この島の魔族たちは何とか生き永らえた。そして、その魔法は子々孫々に引き継がれることになった。しかし、時代が下るにつれ、魔法の力も弱まり、今では、増える肉はせいぜいこの一部屋分だ。そもそも、豊かな飽食の時代、こんな魔法はもう無用だろうに」


 私は口をポカンと開けて話を聞くばかりだった。国中を飢えさせないための肉の魔法だなんて。しかし、民を飢えさせないことこそ、王たるものの使命。シャルーカのご先祖様は、まさに王の鑑だろう。

 とはいえ、だ。


「自らの肉を裂いて与えるなんて、痛くはないのですか?」


「無痛とは言わんが、取るに足らんものだ。むしろ、肉を裂かず、増えすぎた時のほうが、厄介だな……んっ」


 シャルーカが右目を抑えた。


「王様!?」


 シャルーカはしばらく目を抑え続けたが、やがてその手を離した。

 濡れた赤い瞳が私を見つめる。右目に二つあった眼球は、一つになっていた。


「ようやく、元通りだ。今回のは長かったな」


 薄い笑みを浮かべながらシャルーカは私に、掌中を見せた。そこには光を失った眼球があった。


「……出会ったばかりのお姿はそういうことでしたか」


 初めてシャルーカと出会った時のことを思い出す。彼は今よりはるかに(しし)が肥え、顔色は悪く、体のあちこちに包帯が巻かれていた。それは、増えすぎた肉による弊害とそれを隠すための措置だったのだろう。

 どういう原理かはわからないけれど、この部屋の肉が増えすぎれば、シャルーカ自身の体にもその増えた肉が歪な形で現れるらしい。


「なら、肉以外の魚や鳥を頼むのはよろしくなかったですね」


「いや、あの肉も全部、俺の肉だ。俺は巨大魚にだって、翼のある鳥にだってなれる。肉質を変えるなんて造作もないことだ」


「なんとまあ」


 魔王ともなれば何でもありのようだ。


「それでも、手が勝手に生えてきたり、目が増えるのは止められないと?」


「ああ、全く忌々しいことにな」


 シャルーカは掌の中の眼球を弄びながら言う。


「どうしたものかと思っていた所にお前が現れた。それから、こうして回復するまではあっという間だった。お前の手で俺の肉は美食に生まれ変わる。誰も食べ残しはしない。惜しい逸材だ。お前ほどの腕の持ち主を探そうと思ったら、次は何カ月かかるか。その頃には目も四肢も一つ二つ増えるのでは済まないかもな」


 無数の目、無数の手足、歪に増え続ける肉という肉。最早それは包帯を巻くだけでは隠し切れないような姿で、想像するだけでも痛々しい。けれど、そんなことより私はシャルーカの口ぶりに引っかかった。これではまるで私が辞める前提のようだ。


「……私、解雇ですか!? たしかに勝手にお部屋を覗いたのは申し訳なく思いますが、入られて困る部屋なら鍵ぐらいかけておいてくださいよ! あんな意味深に念押しされたら、むしろ覗きたくなるのが人情ってものでしょう!?」


「この状況で、俺の方が叱責されるとは思わなんだ」


 シャルーカは眉根を寄せて私を見た。


「お前、この部屋を見て、まだここで料理番をする気か?」


「え?」


「この部屋を見たものはたいがい気味悪がって、二度とこの城に近づこうと思わなくなる。そうじゃなくても、『王の玉体を食べていたなんて』と震えあがるか。前の料理人は後者だ。先祖の魔法が現役だった頃は、魔族の共喰いなど珍しくなかったのだがな」


 言われてみれば、今日も、昨日も、この城に来てからずっと、私は目の前の王様を食べていたということになる。

 それはたしかに、人によってはおぞましいと思うことなのだろう。

 でも、そういった嫌悪感が私にはほとんどわかなかった。


「この部屋の仕組みには驚きましたが、最初に魔法をかけたご先祖様も、シャルーカ様も、民や臣下を思えばこそ肉を与えているのでしょう? であれば、忌避する理由はないかと」


「……随分と肝の据わった考えだ。食堂にいるお前ならともかく、今のお前からそんな言葉が出るとは」


「己が身を裂き、他者に与える……それは何ものにも勝る愛で、きっとどんな料理人が出す一皿よりも尊いものです」


「愛か」


 シャルーカはまるで食べ慣れないものを口にしたような渋面になった。


「随分知ったような口を利く。その愛がどんな味か、お前は本当に知っているか? 俺は知っているぞ。なんせ俺は母上の心臓を食わされたからな」


「心臓?」


「魔法の継承に必要なことだ。母は竜人族としてはまだ若かったが、先の戦争でだいぶ力を使ってしまった。そこで周囲が、早いうちに代替わりすべきと考えたらしい。母自身も、それが王の責務として正しいと考えた。何とも押し付けがましい愛だ。俺はそんなこと望んじゃいないのに」


 ぐちゃっと、シャルーカの手の中で眼球が潰れた。指の間から、どろりと中身が溢れ出す。


「俺は差し出された心臓を全部食べたふりをして、少し吐いた。勝手に食わされたことへの抗議だ。その結果、魔法の継承が不十分で、俺の体はやたらとこの部屋に左右されることになった」


「……後悔されているのですか」


「どうだろうな。だが、因果応報だとは思う。愛でも肉でも、受け取られない分は腐るだけ。そして、母の肉を無駄に腐らせた俺は、こうして食われねば腐っていく体となった」


 シャルーカの視線は掌の中の潰れた眼球に注がれていた。縦に裂けた人ならざる赤い双眸が、静かに瞬く。それは、まるで迷子の子供のような途方に暮れた眼差しだった。


「……大丈夫ですよ。貴方の肉は私が余さず料理しますから。みんな残さず、食べ尽くしますから」


 私は、シャルーカの掌から潰れた眼球をそっと摘まみ上げ、そして口に含んだ。何故、そんなことをしたのか、自分でも言葉にするのは難しい。けれど、そうした方がいい気がしたのだ。食べ残されるのは、悲しい。

 私の瞼の裏には、最期に見た、食べかけの真っ赤なタルトがまだ焼き付いたままだ。

 口に含んだ眼球は、つるんとして、弾力があり、そしてほんのり塩気があった。


 ああ、やっぱり。私はこの味を知っている。


「とんだ悪食だな、人間というのは」


 そう言われても、不思議と驚きはなかった。とうとうこの時が来たか、という思いの方が強い。否定の言葉を口にする気はまるで起きなかった。


「……いつからお気づきだったのですか?」


「初めから違和感はあった。けれど、はっきりと見えたのは今。目が戻ったおかげだ。お前の魂と肉体は不自然にだぶって見えている。魔族の体に、人の魂を宿している状態なのだろう。さしずめ、降霊術の一種か。お前は……生前、魔族の体を食べたな?」


 私は首を縦にも横にも振らなかった。決して、確信のある話ではないのだ。


***


 きっかけは、図書室で見つけた一冊の本だった。故郷では見られない食材や香辛料について、調べものをしていた時に、その黒革の本が目に飛び込んできた。

 金字で刻まれた題は『高等料理魔術の教理』――

 ページをめくると、そこには料理にまつわる魔術や呪いの類がいくつも記されていた。魔術仕掛けの左目があるとはいえ、かび臭い古書の内容を正確に把握するまでには少し時間を要した。古語辞典を横に置きながら何日もかけて読み進めていくと、やがて『死者を転生させる料理魔術』という記述にあたった。


 その術に必要なものと、その手順は極めて単純だった。

 死者は転生先の生者の肉を食らう。それだけ。

 ただし、この魔術にはいくつか注意点がある。

 一つは、死んでいる者はもう食事などできない。だから、この方法は、これから死ぬ予定のある者に、転生先の生者の肉をあらかじめ食べさせておくという、極めて限定的な状況でしか成立しえないということ。

 そしてもう一つの注意点。食べさせる肉には、魔力が多く含まれているのが望ましいということ。つまり、人間やただの獣では成立せず、魔族の、特に魔力の豊富な脳、舌、目、心臓などが望ましいということ。


 生者の肉をあらかじめ食して死んだ者は、食した肉を媒介に、その魂が生者の肉体に宿る。死者は蘇るが、生者の魂は消える。

 死者と生者の払う対価が全く非対称の、こんな術のどこに需要が?――とはじめは読んで疑いもしたが、王族など命を狙われる立場の者たちには重宝されてきたのだと、その項の末尾は締めくくられていた。


 そこまで読んで、私はふと思った。

 死んで、生前と違う魔族の体になっていた私と、ここに書かれている魔術の結果は似ているのではないかと。

 とはいえ、この本に書かれていることは『食べた相手を惚れさせる料理』だの『憎い相手に歯ぎしりの呪いをかける料理』だのいずれも真偽が疑わしかった。大昔の迷信集かもしれない。たかだか料理、たかだか肉にそんな奇跡めいた力があるとは思い難い。


 それでも、もしやという思いが私の頭の片隅に残り続け、眠れない夜が続いた。

 もし本の記述が正しいのだとして、問題は、私は誰の肉体に転生したのか。つまり、私は誰の肉を食べたのか。

 思い浮かぶのはただ一人だ。

 そして今、この奇妙な部屋で目の当たりにした魔族の肉の持つ力と、口に含んだ眼球の味と舌触りは、いずれも私の予感を肯定していた。


***


「ああ、マリアンヌ……」


 ため息とともにその名前がこぼれる。


「大切な者だったのか?」


「私の料理の師であり、母代わりのような人です。そして私が殺される数日前に、忽然と私の前から姿を消しました。一切れのパイを残して……」


 この城に来て初めて口にした謎の肉は、正体もわからないのに、どこか懐かしい味がした。それは、思い返せばあのパイの肉の味に似ていた。そして、ひき肉と一緒に入っていた半熟の卵は、さっき口の中に入れた眼球と瓜二つだった。


「でも、彼女が本当に鬼人族(オーガ)だったかは何とも。鬼婆とは言われてましたが」


「人の大陸で暮らす魔族もいないことはない。特に、先の大戦で大陸に渡って、そのまま帰る術を失った者の話は聞く。鬼人族(オーガ)なら、角を折れば人に交じることも難しくはないだろう」


 厨房でなくとも、いつも頭にほっかむりをしていたマリアンヌの姿を思い出す。あれは、折った角の痕を隠すためのものだったのではないだろうか。


 しかし、マリアンヌが鬼人族(オーガ)で、私が彼女の体で蘇ったとして、まだ疑問が残るのだ。


「でも、私の容姿……つまり肉体はどちらかと言うと私のまま。たしかに鬼人族(オーガ)の角や怪力は備わっているけれど、生前の私に近いままなんです」


「肉体が魂に合わせて変容するのはよくあることだ。肉体と魂は、入れ物と中身というほど、すっぱり割り切れるものでもない。肉体は魂によって変容しうる。その逆もしかり。肉体に引っ張られて魂が変質することもよくある。たとえば、鬼人族(オーガ)の体を手に入れたことで、生前に比べて、気の大きなことを言ってしまったり、そういう性格になったりだ。身に覚えはないか?」


 そう言われてみると、はじめこそガルムたち魔族の前で気張ってマリアンヌのような強い食堂のおばちゃんを演じていたはずが、いつの間にか、演技を演技とも思わず、食堂のおばちゃんになりきっていた気がする。

 そもそも、全部はじめからマリアンヌの肉体に引っ張られていたというのは、しっくりくる。


「……つまり、私を生かすために、マリアンヌは死んだ」


 血の繋がらない主家の娘のために、普通はそこまではしない。けれど、マリアンヌにはそうする理由がある。

 すべてはきっと母のため。

 そもそもマリアンヌが本当に蘇らせたかった相手は、母だったはずだ。


 子供の私は、母がひっくり返したスープ皿の中から転がる()()()()()()()を見ている。それをマリアンヌが素早く拾い上げ、手巾にくるむところも。

 生前の母とマリアンヌは親密な仲だった。マリアンヌと一緒にいる時、母はいつも笑顔で、マリアンヌも、穏やかな顔だった。きっと彼女は母に生きていてほしかったに違いない。

 けれど、私の母は、スープの皿をひっくり返した。あの時のマリアンヌの傷ついたような顔を私はよく覚えている。

 母の忘れ形見である私には、今度こそ生きていてほしい。マリアンヌはそう思って、自らの血肉と眼球を私に食べさせたのではないか――


 私はきっとマリアンヌの愛で蘇り、こうして生きている。たとえその愛が、代償の愛だとしても。

 でも、こうも思う。


(一緒に、生きて、連れ出してほしかったな……)


 ともにあの家を抜け出して、二人でどこか遠くに行けたら、それが一番幸せだったはず。と思って、すぐにそれは難しいことなのだと気づく。

 侯爵令嬢ノレア・クロイツベルが生きている限り、それを疎ましく思う者がいて、きっと命をつけ狙われていただろう。何せ、あんな周到な謀殺を企てていた継母君だ。草の根を分けてでも追ってきただろう。

 どうしたって一度、ノレア・クロイツベルは死ななくてはならなかったのだ。そして、私を知る者のいない地で、人ではない魔族として目覚めるしかなかった。


 私は口の中で噛み潰したものの残滓を確かめながら言う。


「……私も知ってます。愛って、少ししょっぱくて、苦みがあって、ドロリと生臭くて、ほんのりと甘い……適量ならいいですけど、重すぎると吐きたくなる、そういうものですよね」


 あれがマリアンヌの肉だと知っていたら、そしてその意図を知っていたら、私はあのパイを完食していただろうか。その重すぎる愛を受け止められただろうか。


「吐くか?」


 泣く子をあやすような手つきでシャルーカは私の背中をさすった。それは竜ではなく柔らかな人の手だった。私は首を横に振った。


「まさか。自分から進んで口にしたものを吐き出すなんて、料理人失格です。……いえ、ここの料理番はさすがに解雇ですかね。なんせ私、人間ですし」


「俺自身は人間を特別どう思ったことはない。百年前の一時矛を交えただけだ。魔族同士の方がよっぽどいがみ合い、殺し合っている」


「でも、私はクロイツベル家の娘です。百年前の戦いで多くの魔族を屠り、もしかしたら、貴方のお母さまを傷つけた――」


 言わなくてもいいことまで言ってしまったのは、やはり全部吐き出して楽になってしまいたかったからだろうか。


「お前は、この城の料理番ノレア・ノクターン。俺にはそれで十分だ」


 声音には反論を許さない厳しさがあったが、私の背をさする手は相変わらず優しかった。

 私は私の狡さを自覚している。私はこの優しい王様が全部受け止めてくれることをわかって吐き出したのだ。


「……母の心臓を吐いてから、ずっと飲まず食わずだった。必要がないからじゃない。気持ち悪くなったんだ。舌が、喉が、頭が、勝手に拒絶する。何を食べても、あの生臭い肉の味がよみがえる。でも、お前があの晩、持ってきたパイは別だった」


「マリアンヌの受け売りなんです。『料理を作る時は愛を込めて』って。あのパイもそう。食べた人が笑顔になりますように。そして、どうかその笑顔を私に向けて、と。私の料理は、きっとあなたが言う『押し付けがましい愛』に満ちているんです」


 母はマリアンヌを愛し、父は領民を愛し、子供の頃から私は少し孤独だった。でも、初めてパイを焼いた時、母は私に笑顔を向けてくれた。私が料理に固執し始めたのは、きっとその時からだ。

 美味しい料理を作ると、相手は笑顔を私に向けてくれる。私を見てくれる。

満たされる気がした。


「そうか。ならなおさら、俺はもうお前のいない味気のない日々には戻れまい」


 見上げたシャルーカの目には、いつもの熾火のような強さはなく、蝋燭の火のような揺らめきがあった。きっと今、私も同じような目をしているのだろう。


「似ているのかもしれませんね、私たちは」


「そうかもな」


 どちらからともなく、唇が重なる。

 私たちはともに愛情の血にも似た苦みを知り、孤独の胃液にも似た辛酸を知っている。

 だから、こうして苦みにえづく背中をさすりあい、残されないよう血肉をすすり合える誰かを求めていたのだろう。シャルーカは私の背中に腕を回しながら、そっと床に押し倒した。 

 背中じゅうで生温かな肉の感触をじかに感じる。

 肉の壁に囲まれ、肉の床に転がり、肉の天井を見ながら、私たちは抱き合う。私たちも一塊の肉になっているようなものだ。そもそもこの肉は、目の前の彼のものなのだけど。


 どうぞ、美味しく召し上がれ――


 私は祈る。竜の末裔の餐食はやはり荒々しかった。


***


◆6/6 鬼妃、復讐す


 その日は約一世紀ぶりの歴史的記念日として後世に語り継がれている。

 パンデモニアが人間たちと国交を回復するべく、かの国の要人たちを領地へ招き入れたのだから。

 いつの時代、どこの国でも友好の証は同じ食卓を囲むこと。この会合も、魔族の城の大広間で人間たちをもてなすべく贅を尽くした饗宴が昼と夜と催されたと記録が残っている。


「遠路はるばるよくお越しくださいました」


 魔族の王が言った。


「帆船でたった二日ですのよ。でも、ここに来るまでにあと百十年かかっております。つまり百十年と二日分の航海だったと思うと感慨深いものがありますわ」


 人間を代表して招かれた、侯爵家の夫人がそう言った。


「実はその百余年の距離を小舟を漕いでたった三日で渡り切った鬼人族(オーガ)がいるんですよ」


「まあ、さすが鬼人族(オーガ)は体が壮健であられますこと。ねえ」


 侯爵夫人は、自分の娘と娘婿に同意を求めるように笑いかけた。彼らも夫人にならって楽しげに笑ってみせたが、よくよく見ればその頬は引きつっている。

 ここは、魔族の島の魔王の城。いつ取って食われるんじゃないか、内心気が気でなかった。それでもここで魔族と再び国交を結ぶという快挙を成せば、侯爵家の落ちた名声も一気に取り戻せるというもの。まだ年若い二人は、大人しく母である夫人に従うしかなかった。


「長い話はさておき、まずは食事を用意させましょう」


 王が手元の玻璃の鈴を鳴らすと、使用人たちが皿を運んできた。

 番紅花と魚介のスープ、焼きたてふかふかの白パン、氷皿に盛られた生牡蠣や雲丹、魚卵と竜髭菜の冷菜、孵化しかけの家鴨の卵の蒸し物、薔薇と柘榴の氷菓、羊の脳みそのペースト、深海魚のパイ包み焼き、水晶の杯に注がれた葡萄酒……

 目にも鮮やかで、何よりも鼻をくすぐる出来立ての料理の香りに、緊張していた人間たちも表情をやわらげた。


「昼食は軽いものを、とも思いましたが、料理番がつい力を入れてしまいましてね。我が城の料理番は人間の料理にも精通していますから、どうか安心してお召し上がりください」


 王はにこやかに言った。それでも、はじめに手を付けるのは勇気が要る。娘夫婦がもたついているのを横目に、侯爵夫人はまずスープに口をつけた。恐る恐る一口。もう一口。気が付けば、皿はあっという間に空っぽになった。


「驚きましたわ。こんなに味わい深いスープ、都の宮殿でも出ないでしょう」


「それはそれは……おかわりもありますから遠慮せずお申し付けください」


 母の反応を見て、娘も恐る恐るパンに口をつける。すると、こちらもあっという間に平らげてしまった。いずれの料理も客人たちの舌を驚かし、満足させるに足る美食だった。


「ではそろそろ主菜を持ってこさせましょう」


 王が鐘を鳴らすと、三人の前にまた新たな皿が供された。薔薇色の肉に、血のように濃いソースがたっぷりとかかっている。


「さあ、召し上がれ」


 皿を持ってきた使用人がそう言った。もう待ちきれないと言わんばかりに、侯爵夫人は肉を頬張った。

 口いっぱいに広がる濃厚な血と肉の味に、彼女はうっとりと目を細めた。

 ああ、なんと甘美な味わい。そして舌先でとろけるような触感だろう。


「お母さま!? お母さま!」


 娘は絶叫した。母である侯爵夫人はうっとりとした顔のまま、顔中の穴という穴から――つまり口や鼻、そして目からも――血を垂れ流し、そして、白いクロスの引かれた卓の上に、がっくりと倒れ込んだのだ。

 肉を口に頬張りかけていた娘婿は急いで吐き出した。そして叫んだ。


「何を食べさせた!?」


「ご心配なく、お二人が召し上がったのはただの羊肉ですよ」


 侯爵夫人に皿を供した使用人が、悲鳴を上げる若夫婦にそう言った。


「でもお継母(かあ)さまの皿は特別です。これは、この国で最も尊い方の肉。知りませんか? 竜の血肉は、人間が食せば舌がとろけるほど美味なのだとか」


「舌どころか、全身がとろけるなんて話も聞くな」


 使用人の言葉に王が相槌を打った。そして彼は指をパチンと弾いた。


「お、お義姉(ねえ)さま……」


 使用人の顔が一瞬にして見知ったものに変わったのを見て、若夫婦は椅子から転げ落ちた。


「う、嘘でしょ……お義姉さまは、十年前にたしかに死んだ。それに、その角は?」


「おやおや、まさか侯爵家のご令嬢が、我が伴侶と知り合いだったとは。これは何ともめでたい再会だな、ノレア」


「ええ、お元気そうで何よりです」


 白髪で角こそ生えているが、嫣然とほほ笑む彼女は、十年前に自分たちが謀殺した義姉の顔そのもの。それどころか、十年の時を経たにもかかわらず、彼女の顔は当時とさほど変わりなかった。若夫婦は揃って幽霊でも見るような目でノレアを見上げていた。


「今日の料理は全部、妻のお手製なんですよ。彼女は元々、この城の料理番でして」


「今もですよ」


 そう言うとノレアは床にへたりこむ義妹に近づいた。


「せっかく、貴方がたのために作ったのだから、最後まで食べてほしいわ。旧交を温めるのに、美味しい料理はうってつけでしょう?」


「復讐のつもり? 私たちも殺すの?」


「勘違いしないでほしい」


 シャルーカが言った。


「私たち魔族は人間とまたよしみを結びたいだけだ。若い君たちとなら、仲良くできると思ってね。ただそのためには何かと悪評絶えぬ古狸には退場してもらわねば困る。ここは慣れぬ船旅ゆえの不幸な病死ということでいかがだろう?」


 シャルーカが訊ねても若夫婦は虚脱したままだった。そこで使用人たちが彼らを床から起こしてまた椅子に座らせた。彼らは最早、木偶人形同然に生気が抜けていた。


「肉はお嫌い? なら先にデザートを持ってこさせましょう。木苺のタルト、貴方好きだったものね?」


 ノレアはそう言って、テーブルに突っ伏している継母をまるでゴミを払うように床に転がした。

 そして継母が座っていた椅子に座ると、皿の上に残る食べかけの肉をつまんで口に放り込んだ。


「ああ、こんなに美味しいのに。私、食材を無駄にするにする人だけは許せないの。でも安心して。お継母さまのことは決して無駄にはしない。贅肉がたっぷりついているもの。料理のし甲斐があるわ。腹に詰め物をして、丸焼きにしましょう。内臓は厩舎の獣たちへの贈り物。ああ、今から晩餐会が楽しみ。娘たちの糧になるのだから、親としては最高の末路じゃなくて?」


 魔王の妃は、赤く濡れた唇で笑った。


【了】


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