ゆらぎの果てで、ただいまを
風が止んだ瞬間、世界がゆっくりとずれていった。
それに気づいたのは、白いカーテンが左ではなく右へ流れているのを見たときだった。
少女――柚希は、ある朝目覚めた時から、少しずつ世界が”ここではないどこか”になっていることに気づいていた。
人の声がひと拍遅れて聞こえる。
日差しが、ほんのすこし青い。
時間が、秒ではなく呼吸で進んでいく。
けれど誰もそれに気づいていない。柚希ひとりが、別の次元に迷い込んでしまったのだ。
最初は怖かった。でも、次第にその「ずれ」に、慣れていってしまった。
学校のチャイムが風鈴の音になっても、
友達の顔がすこしだけ知らない人になっても、
お母さんが毎朝「おかえり」と言っても――
心の中に残っていた“本来の世界”の輪郭が、少しずつ溶けていくのが分かった。
ある日、柚希は、廃校になった旧図書館に立ち寄った。
そこは、次元がずれ始める前に、好きだった場所。
ひんやりした空気と、誰もいない静けさが、昔の自分を思い出させた。
埃をかぶった窓際の椅子に腰を下ろし、柚希はつぶやく。
「……私、帰りたいな。あの日々に、あの空気に、あの笑い声に」
その瞬間、どこかで”カチリ”と、見えない錠が外れる音がした。
図書室の奥、本棚と本棚の間に、知らない扉が現れた。
重たく開けると、夕焼けの匂いがした。
そこにあったのは、懐かしい自分の部屋。
左に流れるカーテン。
「おはよう」と言ってくれる、ちゃんと“お母さんの声”をしたお母さん。
いつも通りの制服、いつも通りのランドセル。
柚希は、深く息を吸って、思わず涙がこぼれた。
「ただいま」
そう言った声が、世界とちゃんと重なった。
ああ、私はちゃんと、ここにいる。