5 サーキュラー
星空の下、魔王は瓦礫の中に立った。石壁は破れ、天井は抜けている。セラフィムのいたベッドだけは無事だったが、ほかはすべて吹き飛んでいた。彼は持参した金属製の蜀台に火を灯し、呼び戻しの呪文を唱えた。ろうそくの火が大きく揺らめき、やがて中から小さなサラマンダーが現れる。魔王はそのサラマンダーを手のひらに受け、自分の魔力を注いだ。ほどなくしてサラマンダーは大きくなり、手のひらから飛び出て小柄な、長いローブをまとった人の姿に変わった。
「戻ったか、ファイ」
「……はい」
ファイは答えると火焔杖を取り出し、壊れた石壁をコンコン、と叩いた。その隙間から竹定規が出てくる。ファイはそれを拾い、少し歩いて室外へ出た。壁は吹き飛ばされてしまったので敷地内の土が入り込んでしまっている。彼女は地面があるところまでいくと、その竹定規を突き刺した。見る間にジャージを着た女性の姿が復元されて行く。グランデだった。
「申し訳ありません、魔王様」
彼女がそう言うと魔王はよい、と言った。
「他の二人も呼び戻せ」
「はい」
グランデは床に落ちている、焼け焦げた髪飾りを拾い上げた。魔王から蜀台を借り受けて床に置き、それを立てかけるようにしてとなりに置く。そして竹定規でバン、と叩くと火花が飛び散り、サンダーが現れた。
「焦げちゃった。お気に入りだったのに」
ぶつくさ言ったあとに魔王がいることに気づき、慌てて申し訳ありませんと言った。
「サーキュラーに買ってもらえ」
「そうします」
彼女の髪飾りは依代だ。彼女自身が飛び散っても、この髪飾りさえあれば何度でも復活できる。ただし使い捨てだ。戦闘のたびに彼女は髪飾りを買い替え、その請求書をサーキュラーのところに持っていくのである。
「ファイ、火を出して」
サンダーが言うと、黙ってファイが空中に炎を呼び出す。サンダーは雷雲を呼び、その炎の真上に置いた。稲妻が一閃して雨が降り出す。その中から薄手のセクシーな衣装をつけた美女が現れた。ワンダだ。
「やられちゃったわね」
ワンダは他の皆の顔を見てそういうと、そこにいた魔王にひざまずいた。
「申し訳ありません、魔王様」
全員がそれに倣い、その場にひざまずく。よい、と魔王は言い、将軍達を立ち上がらせた。
「後を頼まれていたからな。それに、お前たちのせいではない」
グランデが思い切ったように言った。
「あの、司令は無事なんですか」
視線が彼女に集まる。グランデが差し出した竹定規には、細い蜘蛛の糸が一本からみついていた。
「飛んだんだ……不利になるのに」
サンダーがそれを見て言った。ファイが口を開く。
「……目覚めてから探したけど、どこにも見つからなかった。ずっと探しているんだけれど……」
ワンダは遠話が途切れていることに気がついた。この世界のどこにもサーキュラーの気配がない。四大将軍達はまさか、と思った。
「お前達はここに残れ」
魔王が言った。
「私が行く。姫を頼む」
マントがひるがえり、瓦礫の中から魔王は姿を消した。四大将軍達は泣き出しそうな顔で、その姿を見送った。
風を操り、サーキュラーはどんどんと空を昇っていった。なるべく魔王城からセラフィムを引き離すためである。セラフィムが彼に集中している間は、魔王城への攻撃はない。今の状態のセラフィムは、かつての主君やフーシャ姫を認識することなど不可能だった。サーキュラーでさえ敵扱いなのだ。
「こっちだぞ、天軍長」
おどけるように動き回り、セラフィムを翻弄する。だいぶ離れてきたがまだ近かった。暴走したセラフィムのエネルギーが青い光を撒き散らし、彼の周囲を駆け巡る。
(またかよ)
糸を切られ、サーキュラーは新しい糸を繰り出した。直接の攻撃はしてこないが、さっきからぷつぷつと飛行糸を切られている。彼を地面に叩き落す気なのだ。そして彼の糸は有限である。糸のストックがなくなるまでセラフィムは彼を宙に飛ばし続け、なくなったら雷撃を加えるつもりなのだった。
「やべえな、ジリ貧だぞ」
サーキュラーは下界を見下ろし、降りられそうな場所を探した。できれば明るい、陽の入るような森がいい。草原でもよかった。探しているうちにまた糸が切られる。彼は仕方なく細長い外骨格の肢を出現させてそれを使い、両手をあけて飛行糸にぶらさがった。木立と廃屋、それに遠くに見える魔王城の尖塔まで糸を飛ばし、瞬時に巨大な網を張りめぐらせる。そしてその網の中心に降り立った。
「相打ちは勘弁な」
帯電したセラフィムがまっすぐに突っ込んできた。サーキュラーは人の姿でいられず、巨大な金色の蜘蛛に変わった。対するセラフィムは人のままであり、六枚の翼が災いして網に引っかかり身動きが取れなくなった。しかしそのまま変身したサーキュラーに雷撃を食らわせる。サーキュラーはその雷撃に耐えたが耐えるだけで精一杯だった。
強靭さを誇るはずの蜘蛛の網が破れ、その破片がセラフィムにまとわりついた。セラフィムの攻撃が鈍ったと見るや、サーキュラーは彼に噛みつきその体をぐるぐる巻きに縛り上げた。二噛み、三噛みと攻撃を続け、セラフィムが本性に戻る前に動きを封じた。
(なんとかなったか)
だが八本の肢のうち三本は取れ、二本は使い物にならなくなった。腹部の側面には火傷のあとが大量についていて、内臓まで焼かれているのが自分でも分かった。このままではおそらく死ぬ。援軍が来る気配もない。
一方のセラフィムも胴体に巨大な噛み傷をつけられ、動けなくなっていた。姿を変えようにも縛められていて光輪も出せず翼も動かない。天軍長という役職も、過去の栄光も幻だったのかと思うほどだ。そして忌々しいことに、この蜘蛛の化身である魔族は彼を捕縛しただけでその命を奪おうとはしないのだった。
「ここまでだな、セラ」
思考の固まってしまっているセラフィムに、こんな言葉が届いた。その言葉はさっき死闘を繰り広げた巨大な金蜘蛛から発せられており、セラフィムは自分の耳を疑った。どうみても親しい友人からの言葉にしか聞こえず、彼は天界にいる間中ずっと、友人と呼べるような存在はなかったからだった。
「セラ……?」
自分の名前はゼラフである。ずっとそう思っていた。いや、と彼は何か思い出した気がした。セラフィムという名前だった時がある。それはいつだっただろうか。遠い過去のようにも、つい最近のことのようにも思えた。
「強えな、お前」
金蜘蛛が笑った気がした。こんなものは知らない。自分の名前はゼラフで、天界を統一した唯一神のもと、反逆者をすべて焼き払ってきたはずだった。それは絶対の正義のはずなのだ。なのになぜこの虫けらごときにこんなに動揺するのだろう。
「いや……」
違う、と彼は思った。何かが違っている。そもそもこの魔族と戦う必要があったのだろうか。自分はなぜこんなことをしたのだろう。
「よく戻った、ゼラフ」
聞き覚えのある声がした。転がされたまま身をよじり、彼は声のしたほうを向いた。幼児の姿をした御使いを引き連れ、慈父の顔をした唯一神が遥か高みから現れる。御使いは高らかにラッパを吹き、その存在を讃えた。
「堕天の罪は問うまい。そなたは我々の素晴らしい天に戻ってきたのだ」
御使いが彼と、そこにいる大きな金色をした蜘蛛を引き上げた。あっという間にさっきまでいた魔界を過ぎ、彼は転がされたまま、見覚えのある明るいひらけた場所へと連れて行かれた。床は明るく光り、空からは神々しい光が降り注いでいる。そうだ、と彼は思った。この場所は唯一神が裁きを行うところだ。何度も彼はこの場所で罪人とされた存在に鉄槌を下してきた。
「そなたを歓迎する」
しかしそう言う御使いの目は死んでいる。その目は見たことがあった。御使いは大きなナイフを取り出し、彼を縛めている蜘蛛の糸を切り払った。
「戻ってきた証としてそいつを潰せ」
唯一神が命じる。セラフィムはふらふらと立ち上がり、こうたずねた。
「そいつ、とは」
いらいらしたように唯一神が言う。先ほどの慈父の表情はどこにもなかった。
「目の前のその醜いものを消し去れと言っている。そんなことも分からないのか」
セラフィムは瀕死の巨大な金蜘蛛を見た。この魔族はさっき彼に何か言っていなかっただろうか。
「醜い、ですか」
彼は言った。意を得たりと唯一神は答える。
「そうだ。こんなものはこの世界に存在してはならない。醜悪なものに存在する価値はない」
改めて彼はそこにいる巨大な蜘蛛をじっくりと見た。細い肢は何本も取れ、でっぷりとした横腹には雷撃で焼けた痕がいくつもある。そこからは臭いにおいが立ち上っており、八つの眼は光を反射しつつ彼のことをじっと見ているのが分かった。
確かに自分達とは相容れない存在ではある。しかしその強さとメカニカルな造型、それに全身にまとうまばゆい金属光沢は、今の彼には美しいとさえ感じられた。何もないように見えてその目には表情があり、彼にはこの蜘蛛が醜いとはとうてい思えなかったのだ。
「理由はそれだけですか」
まだるっこしい会話に唯一神の怒りが爆発した。
「さっさとやらぬか、ゼラフ。何をしている」
怒声が響く。御使いらは縮こまり、周囲を逃げ惑った。セラフィムはそこにただぼうっと突っ立っていた。衣服こそはあの白い天衣だったが、白い六枚翼もなく光輪も出ていなかった。
「早くしろ!」
この服は、と彼は自分の衣服を見て思い返した。かつてはこんな格好をしていた。とても不便だった。見た目はよかったがまったく実用性がなかった。脱ぐと怒られた。唯一神は彼らを縛るためにこの衣装を考え出したのだった。それ以前の彼らはもっと自由だった。
セラフィムは唯一神を見上げたまま、後ろで息も絶え絶えになっている大きな蜘蛛を思った。このままにしておけば彼が手を下さなくてもやがて死ぬ。
「放っておいてもこの者はやがて息絶えます。わたくしが手を下す必要は……」
足元に火球が放たれた。それはねずみ花火のように走り回って、はだしにサンダル履きの彼の足を焼いた。
「やれと言っている」
火傷の痛みが彼に何かを思い出させた。彼が何か言うと、この唯一神と名乗る者はすぐこうやって痛めつけにくる。その恐怖に彼もその仲間達もいいなりになっていた。やがて無理し続けた彼らはいなくなり、いつの間にか半数が消滅していた。
「どうしてですか」
火球の数が倍になった。なぜこの存在はいつでも怒っているのだろう、そんな疑念が胸をかすめる。同時にこの世界が嫌で嫌で仕方なかったことも思い出した。彼は賞賛を集める一方で蔑まれてもいて、かつての仲間達は彼を毛嫌いし、やがて消えていった。
(そうだった)
あれほどいた仲間達がすべていなくなり、彼自身も軋みを感じるようになった頃に、どうしてこうなったのかと彼は何度も自問した。いいように使われて反論も許されず、プライドなどもうどこにもなかった。あるのは強制された思考を受け入れ、それ以外を捨ててからっぽになった自分だった。
全てを捨ててしまった自分は残ったが、反抗し自らを守ろうとした者はことごとく消滅した。しかし中身のない自分に何の意味があろう。彼は考え抜き、疲弊し麻痺した頭である答えにたどり着いた。
全部こいつのせいだった。
「早くしろ、ゼラフ!」
ばちん、と音を立てて何かが飛び散ったような気がした。ゼラフというのは本当の自分の名前ではない。この存在が彼を自在に扱うためにつけた名前だ。彼らは名前と神性を剥奪され、この者の手下に成り下がった。
「……違いますよ」
自分の名はセラフィムという。セラ、と自分を呼ぶ甘い可愛らしい声の持ち主を思い出す。自分が主君と決めた、紺色の髪をした若者の姿が浮かび上がる。そして、後ろにいる巨大な蜘蛛はその腹心だ。自分は彼にひどいことをしてしまった。
「わたくしは……ゼラフではありません」
天から彼めがけて巨大な火球が降ってきた。セラフィムは人の姿のまま、それを受け止めて消滅させた。以前の彼なら素直に仕置きを受けていただろう。それが当然だと思っていたからだ。
「生意気な」
天からは罵詈雑言が降り注いでくる。しかしそれ以上のことはなかった。ふと彼はあることに気づき、はったりをかましてみることにした。なぜそうしようとしなかったのだろう。過去の自分は途方もなく愚かだと思った。
「わたくしが怖いのですね、唯一神を名乗るお方のはずなのに」
だから自分は汚れ仕事をやらされていたのだ。思考がはっきりしてくるにつれ、彼は唯一神が本当は彼のことを怖れていたのだと思い当たった。
「火球を一つ落とすだけで精一杯なんて、他の神々に馬鹿にされますよ。いいんですか」
御使い達は呆然とその有様を眺めていた。まさかの反逆だった。
「わたくしはゼラフではないし、あなたは唯一神でもなんでもない。ただの暴君です」
そうしてセラフィムは唯一神を睨みつけた。青白い光球が彼の周囲に瞬く。唯一神がひるんだのが分かった。戦闘を重ね、彼は自分が唯一神よりもはるかに強くなっていることに気づいた。元々の素質の上に、圧倒的な量の技術的な積み重ねがある。ついでにたくさんの恨み言もだ。
「思い出しました」
知らないふりと見ないふりでずっと押し隠していた。あの日、紺色の髪をした魔界の少年に拾われなければ、彼は消滅するその日まで永遠に狂ったままだっただろう。絶望すら知らずにだ。
「何も知らないわたくしをあなたは操り、破壊者に仕立て上げた。わたくしはあなたの言うままに魔界に侵攻し、人界の町をいくつも破壊しました。いくつだったのか、思い出すこともできません。そしてとうとうあなたはあの、古い砂漠の都市に手を出した」
その都市は発展し、賑わっていた。住人達によって様々な神々が信仰され、様々な祭事が行われていた。それを誰もお互いにとがめなかった。信仰されている神々も特に気にすることはなくそれぞれの信者を加護し、場合によっては助け合った。信者達がもめごとを起こすときもあったが、たいていはうまくいっていた。
「あなたはそれが気に入らなかった。なぜなら、その神々の中にあなたは入っていなかったからです」
彼の周りで火花が飛び、ショートする音が聞こえる。瞬いている青白い光球は数倍に増えていた。帯電したきな臭い空気が漂う。
「魔物に侵略された都市だとあなたは言った。わたくしはそれを真に受けて、数万もの人々を殺しました」
セラフィムの姿が変わり、空中に、六枚の翼とぶら下がる二つの車輪、それに四つの顔がある巨大な異形の生物が現れた。翼の色は白ではなく真紅だ。二つの車輪は回転をしつつ持ち上がり、前面で楯に変わる。それぞれの顔は喜怒哀楽をあらわしつつ、最後にすべて怒りに変わった。
「俺は……俺は偉いんだぞ。お前なんかよりずっと偉いんだ。俺に何かしてただで済むと思っているのか!」
唯一神が吠えた。が、額には脂汗がにじみ、全身はがくがくと震えている。腰が抜けてしまい、その場から動くこともできないようだった。
「俺は……俺は……お前なんかよりずっと……」
世界が暗雲に包まれ、一瞬だけ雷光が瞬いた。
「黙りなさい」
稲妻が一閃する。小さな悲鳴が聞こえて世界は暗くなった。