2 魔王城にて
魔王は羽織った上着のポケットに両手を突っ込み、ぼけっと魔王城の正門前に立っていた。あやしまれないように一応行商人のなりをし、大きなからっぽの行李を肩にかついでいた。
城門の両脇には衛兵がいる。しかしそれだけであった。中も見通してみたが衛兵詰所と中庭に数人いるだけで、ほかにはろくに人影がない。それ以外というと炊事場に一名、洗濯場に一名見えるだけだった。
彼はしばらく考えていたが、そのまま城門を通って中に入ることにした。見た限り、城の内部にいるのはほんの少数の人間だけである。たいしたことなく城を取り戻せそうであった。今朝ちゃんと食事をしたから体調も万全である。
「おい、止まれ」
横柄に見張りの衛兵が声をかけてきた。ちらっと彼はそちらを見る。槍を振り回しているのを無視し、彼は城門に手をかけた。
「止まれと言っているだろう」
反対側の兵士が声を荒げる。いやいや、と最初に声をかけてきた兵士が言った。
「なんか忘れてないかい、にいちゃん。入りたいならほら、あれだよ、少し出せよ。なら開けてやってもいいぞ。この門は一人で開けるのは無理だ」
そうだな、ともう一人が言った。
「この門は本当に重たくてなあ。魔王の呪いがかかってるからなかなか開かないんだよ。俺達二人が協力してやるから、少し出しなよ」
「そんなことは知っている」
行商人の格好なのでかなり見下されたようであった。魔王はそう言うと二人の目の前で短く呪文を唱え、門扉についている取っ手を引っ張った。きいい、と軽い音がして何事もなく門扉が動く。開錠の呪文である。兵士らの話通り、この門扉にまじないをかけたのは彼であるので、それを解除するのも簡単なことだった。
兵士二人は彼を止めるのも忘れ、呆然としてその様子を見ていた。彼らが知っているこの門扉は本当に重く、人間が片手で引っ張ったくらいでは開かない。城の兵士たちは数人がかりで毎朝毎晩、やっとの思いでこれを開け閉めをしているのだ。
「お、おい」
我に返り、右側に立っていた兵士が声をかけてきた。左側の兵士はつばを飲み込み、目の前にいる若い男を凝視していた。
「ちょっと待て……」
そこまで言ったところで、右側の兵士は行商人の正体に気づいた。その頭にさっきまでなかった大きな角が見えたからである。左側の兵士は腰を抜かした。
「まさか……」
すっかり元の姿に戻った魔王は彼らに言った。
「人間ども、留守番ご苦労だった。もう帰っていい」
悲鳴を上げて後ずさっていく彼らを見送ろうとして、魔王は二人に用事を頼まねばならないことに気がついた。逃げ出そうとしている兵士らの襟首を掴み、彼はこう言った。
「ジークと父王に、姫は私が預かっていると伝えよ」
二つの頭ががくがくと上下に揺すられる。泣き出しそうな顔をしている兵士二人に、魔王はさらにこう言った。
「姫は無事だ。所用があるゆえ、いずれこちらから姫の父王の元に出向く。それも伝えてくれぬか」
「は、はい」
生きた心地もせず、転がるように兵士らは魔王の前から逃げ出した。それを見送り、魔王は悠々と城に入った。城内がどうなっているのか気がかりであった。
下見のはずだったのが魔王城を取り返してしまったと聞いて、セラフィムは急いで城内に戻る用意をしていた。無論、フーシャとサーキュラーも一緒である。それまでの間、がらがらの城内を魔王はゆっくりと歩いて見て回った。数ヶ月空けただけなのにすっかりさびれていて、やたらとゴミが落ちていた。
「おい、お前たち」
詰所を覗き、中にいた兵士たちに声をかける。ああ、とかなり柄の悪い返事がかえってきた。
「何をしている。仕事はどうした」
「なんだあ? 偉そうに」
中には数人の兵士がいたが、皆カードを持っていたり酒瓶が置いてあったりしてどうしようもない空気が漂っていた。酔っ払って寝ている者もいる。魔王はあきれ返り、詰所の中に入った。どのくらいだらけているのか見てやろうと思ったのである。
「本当に軍隊なのか、お前たちは。だらしがない」
だらけきっていた兵士たちは入ってくる彼の姿を見て、しばらく硬直した後にだんだんと寄り集まってぶるぶると震えだした。殺される、と本気で思ったようであった。
「まさか……」
「魔王だ」
「助けて」
パニックになりかける彼らを魔王は叱責した。さっきの門番といい、とんでもないダメ軍隊であった。おそらくジークが金で寄せ集めたのだろう。サーキュラーが見たら全員規律違反で逆さづりである。ああ見えても魔王軍統括総司令の名は伊達ではない。その前になんとかしなくてはならなかった。
「城にいるなら掃除くらいせんか。何をやっている」
悲鳴をあげ、掃除用具を持って彼らは詰所を飛び出した。魔王は彼らが掃除を始めるまでを見届け、中庭に移動した。
中庭は中庭で荒れ放題だった。ジークが来る前に庭師のゴーレムを帰してしまったからである。城を離れる前は、働き者のゴーレムが丹精込めて育てた花々は毎日フーシャ姫に届けられ、彼女の寝室を飾っていた。その名残で少しだけバラや牡丹が咲いていたが、あとは草ぼうぼうになってしまっていた。
それだけではない。魔王は中庭のど真ん中にけっこうな広さの豆畑が作られているのを見つけてしまった。今を盛りと花をつけているが、収穫はまだ先になりそうであった。
「これは?」
思わず魔王はそう言った。それを聞いて豆畑の隙間から若者が一人出てくる。朴訥そうな、純朴そうな若者であった。
「どなたですか」
「この城の主だ」
若者はそれを聞き、じっと彼の顔を見つめた。その視線が頭に生えた二本角に移る。それからマントに包まれた全身に目がいき、最後に長い紺色の髪を見て、ゆっくりと視線を上げた。
「あの……人間、じゃないですよね。もしかして、魔王様、ですか」
「そうだ」
若者は目を見開き、ついで納得した表情を浮かべた。
「あの、封印されたって聞いたんですが。勇者に切り殺されて封じられたって」
「されておらん」
彼がバカンスを楽しんでいる間に、人界では勝手な噂が一人歩きしているようだった。ああそうでしたか、と若者は言った。
「あの、じゃあ戻ってこられたんですよね? また人間界を攻めるんですか?」
「そんな暇はない」
思わず魔王はそう言ってしまった。フーシャ姫のことと、放置してしまった魔界と魔王城を立て直すだけで充分忙しい。それ以外のことをやる気などかけらもなかった。え、と若者が言う。
「なんでですか?」
「質問の多いやつだな」
なんとなく呆れながら魔王は言った。それに彼を見てもまったく動じない。勇者というならこの若者のほうが相応しいであろう。ジークのような勢いはないが、彼を質問攻めにするクソ度胸はなかなかのものであった。
「そもそも人界などどうでもよい。前回は必要があったからやっただけだ。ところでこの豆畑は何だ」
あ、と若者は言った。
「城の食料が足りなくて、その、送っては来るんですが、全然間に合わないんです。市場だと高いし……それでここに僕が畑を作ったんです。他のみんなはこういうのできないし」
「食料が足りないのか」
「はい。最初は倉庫にけっこうあったんですけど、ジーク様達が持って帰ってしまって……。干し肉とか瓶詰めとか、そういうのもあったんですけどそれも全部持って帰っちゃったんです」
魔王は頭痛がしそうな気分になった。若者が言った保存食は魔王城の備蓄である。人間がいると聞いてそれなりになくなっているだろうとは思ったものの、持って帰られてしまったとは魔王はまったく思っていなかった。
そこへちょうどセラフィムが現れ、音もなく魔王のそばに立った。
「失礼つかまつります。魔王様、遅くなりました」
鷹揚に魔王はうなずいた。セラフィムはそこにいた若者に気づき、けげんな顔で魔王を見た。
「この者はなんでございますか」
当の若者はさっきよりももっと大きな目を見開いてセラフィムを見ていた。魔王はため息をつくとセラフィムに言った。
「人間どもの食料が足りないそうだ。この者の話を聞いてやって手配してやれ。それに城の備蓄も全部ないらしい」
「は? どういうことで?」
魔王は空を仰いだ。しっちゃかめっちゃかであった。
魔王は残っていた兵士たちをこき使い、城中を掃除させた。セラフィムはセラフィムで帳簿と食料受け取り担当を問い質し、彼らがいない間どうやっていたか確認をした。そのかいあって夕食時には、全員がきれいに磨かれたダイニングに座ることができたのだった。
「姫様は本当におきれいだねえ」
厨房にいたのは年配のおばちゃん料理人であった。なんでも人界で食堂をやっていたが連れ合いが亡くなって店が続かなくなり、入植者として移住してきたらしい。フーシャの前にいそいそと料理を運び、嬉しそうにしていた。
「おいしいからたくさん食べて下さいね」
そう言ってからちらっと魔王やサーキュラーらを見た。彼女はフーシャ姫の分しか作らなくていいと言われ、がっかりしたのである。その代わりといっては何なのか、フーシャの料理は大量にあった。
「こんなに食べきれませんわ」
料理を見たフーシャは困ったように言った。まーなんて姫様なんだい、とおばちゃんは感激したようだった。
「贅沢が当然みたいな方ばかりなのに……姫様のためにこれから毎日おいしいものを作りますよ」
魔王とサーキュラー、それにセラフィムの前には飲み物だけが置いてあった。そこから少しさがって出口には衛兵が二名、立っている。ジークが置いていった兵士たちのうちの二名であった。
「あれは何だ?」
サーキュラーがそっちを見てたずねた。魔王とセラフィムは知らずに渋い顔になる。
「掃除が終わったら帰っていいと言ったのだが……」
城にいた人間で魔王が残したのはフーシャのための料理人と洗濯番、それに豆畑の面倒をみていた若者だけであった。豆畑はほかに世話のできる者がいないからである。魔王がそう言うとセラフィムが引き継いだ。
「帰りたくないと散々ごねられました。魔王様のほうがジークよりいいそうです」
「はあ? 魔王だぞ。あいつら食われたいのか?」
このセリフはサーキュラーである。困ったようにセラフィムは言った。
「そのことも言ったのですが、どうもジークは彼らに給料を一銭も払ってないようなのですよ」
びっくりするような話であった。セラフィムは飲み物を口に含み、続けた。
「届くはずの食料も遅配、欠配が続いていて、このままだと餓死するしかなかったようです。魔王様が食料を手配されたので、全員がこちらにつくと言ってきました」
「そうなのか」
はい、とセラフィムは答えた。
「魔王軍で雇ってもらえないかと、そうも言ってきています。人界には戻れないし、金もありません。いっそもう魔王軍に編入してもらえないかと」
今度頭痛がしそうな顔になったのはサーキュラーだった。
「人間なんかいらねえよ。四大将軍だってまだ戻ってねえし、中途半端なやつらじゃ無理だ」
サーキュラーは散り散りになった四大将軍を呼び集めるために、これから奔走せねばならなかった。魔王の側近でもあり近衛隊長でもあるセラフィムがいるとはいえ、今のこの城の警備は手薄すぎる。魔王に何かあるとは思えなかったが、用心に越したことはなかった。
「仕方ありません。わたくしが使いましょう」
近衛兵として使えるとは思わなかったが、セラフィムはそう言った。どう考えても自分しか引き取り先がなかったからであった。
魔王城に組織された近衛隊という名前の雑用係は、毎日毎日セラフィムに用事をいいつけられて走り回っていた。豆畑にいた若者は、呼び戻された庭師のゴーレムとともに魔王城の庭の手入れをいいつかった。
「失礼します」
朴訥そうな若者が、フーシャ姫の部屋に切花の束を抱えて入ってきた。テーブル横でドレスを選んでいたフーシャは、その顔を見て「誰ですの」と質問した。
「あの、僕、今度庭師見習いになりましたハンスといいます。よろしくお願いします」
「そうですの」
フーシャと同じ人間だった。年は少し上くらいだ。彼女は疑問に思い、それを質問した。
「なぜここに人間がいるんですの」
花を活けながらハンスが答える。
「あの、ジークさんの募集でこの城に兵士として来たんですが、魔王様が庭と畑の当番として残ってていいと言うので、ここにいます」
「魔王様が?」
フーシャが不思議そうな顔をすると、なんとなくハンスは照れたような、うろたえたような表情になった。しかし気を取り直し、作業を続ける。
「はい。あの、庭師が忙しいので手伝いをするようにと」
「そうですの」
花を活け終えてハンスは一礼をして下がった。フーシャはまたドレス選びに戻った。