55 サディアス・カルドネア
(エルネスト様……!)
心臓が悲鳴を上げる。
いますぐ駆け寄りたい衝動を必死で抑える。
ヴィオレッタを後ろから止めているオスカーの身体も震えていた。
エルネストは、何も言わなかった。
顔も上げることなく、ぴくりとも動かない。
「――お前たちは外で待っていろ。相手は死に損ないの犬だ」
サディアスは護衛の二人にそう告げる。護衛たちは躊躇っていたが。
「その耳は役立たずか? 聞こえないのなら不要だろう。すっきりとさせてやろうか」
声には本気の色が含まれている。
護衛たちが部屋の外に出ていく。
「――エルネスト。貴様に打ったアンブロシアは純度を高めた特別製だというのに、まだ堕ちないとはな。誇り高いことだ」
サディアスがエルネストの方へ近づいていく。
喉の奥で楽しそうに笑いながら。
手にしていたランタンを地面に置き、手にしていた杖をエルネストの肩に当てる。
「これの素晴らしいところはな、効果が切れたときだ。それこそ、人が変わる。潔癖な貴様がどう変わるか見ものだよ」
「…………」
「聞こえているか、エルネスト。頼むからまだ死なないでくれたまえよ。これくらいで死んでもらっては困る。貴様にはまだまだ至上の幸福と苦しみを味わってもらわなければな」
ヴィオレッタは震える身体を何とか抑え込む。
(どうして――)
どうしてサディアスはここまでエルネストを憎んでいるのか。
殺しもせず、痛めつけて、薬で人格を破壊しようとしている。
苦しめて苦しめて、壊そうとしている。
「……貴様ら父子によって中央を追われた父は、この香りに溺れながら死んだ。最期まで幸せそうな、見苦しい最期だったよ」
サディアスの声には深い憎悪が込められていた。
――これは復讐なのだ。
「貴様らさえいなければ――父が王となったというのに……気高く勇敢だった父は、誇り高かった母は、酒と薬に溺れて見る影もなく堕落した……ああ、見苦しい……おぞましい……うぐっ」
嫌悪感を露わにしながら、胃の中のものを吐瀉する。
アンブロシアパウダーの匂いが濃くなる。
――サディアスもまた、悪魔の粉に溺れているようだった。
サディアスはぐっと口元を拭うと、瓶を上着から取り出して中身を一気にあおる。
中身が何か、推測するまでもない。
それを摂取したサディアスは幸福そうな病的な笑みを浮かべ、空になった瓶を床に投げ捨てた。
「そう! あの女こそが簒奪者だ! 悪魔だ! 悪魔は滅ぼされねばならない!!」
地下倉庫の天井を見上げながら、高揚しきった声で高らかに叫ぶ。
「私の犬になれエルネスト! そうすればいくらでも褒美をやるぞ!!」
エルネストは動かない。
「どうしたぁ? まるで本当に壊れてしまったか? 哀れな犬だ。あの女に使い潰されて。まったく、奥方も可哀そうに」
「…………ッ」
「無知蒙昧の愚かな女。噂通りの女ならまだ楽しめただろうに。どうしてあんな女に執心なのか――理解できん」
サディアスが肩を竦めたその瞬間――エルネストが動いた。獣のような速さで鉄枷の鎖を引きちぎり、激しい金属音の残響の中、サディアスの顔を蹴り飛ばす。
「――私の妻を愚弄するな」
エルネストは低く唸り、地面に伏すサディアスに怒りに燃えた眼差しを向けた。
その両手首からは錆びついた鎖がぶら下がり、血が滴っている。
「化け、物……」
「化け物は貴様だ。己の欲望のために国を腐らせ、国を売り渡し、傀儡の王になるつもりか――売国奴」
「私ほどの愛国者はいない……! この国をこれ以上、あんな女に汚されてたまるか!」
サディアスが再び立ち上がり、杖から鞘を抜いて刃を出した。
――仕込み杖だ。
むき出しになった刃をエルネストに振りかざした刹那――
「貴様のそれはただの執着だ!」
エルネストは仕込み杖を持つ手を蹴り飛ばし、バランスの崩れたサディアスの腹部にエルネストの拳が入る。
「ぐうう……」
サディアスは身体を折り曲げて倒れながら、口からアンブロシアパウダーを吐き出す。
「サディアス・カルドネア――貴様のしたことは、国家に対する重大な叛逆だ」
その時、上が騒がしくなった。
地下の騒動に気づいたのだろう。護衛たちが駆け下りてくる気配がする。
「――クロ、大暴れして!!」
ヴィオレッタは大声で叫んだ。
その直後、倉庫全体が大きく揺れる。遠くで何かが破壊されていく音と、慌てたような悲鳴が断続的に響く。
クロとブラックサンダーが天井を破っているのだ。
ディーンとオスカーが目の前の壁に体当たりをして、脆くなっていたレンガを崩す。
開いた穴から地下倉庫内に入ったヴィオレッタは、真っ直ぐにエルネストに向かって駆けた。
「――ヴィオレッタ!?」
「エルネスト様!」
エルネストは、満身創痍だった。
服は薄汚れあちこちに血が滲んでいる。
鉄枷を無理やり引きちぎったことで手首からも出血している。
それでも、その目の光は変わっていない。
ヴィオレッタが愛したままの、強い意志を宿す澄んだ色。
そのことに心から安堵する。
早く手当てをしないと。鉄枷を壊して、傷の治療をして清潔にして、栄養を摂ってもらって、ゆっくりと休んでほしい。
――クロの鳴き声が聞こえる。
上からは傭兵たちが逃げるように下りてくる。そして侵入者たちの姿を見て武器を手にした。
「殺せ!」
サディアスの声が響く。
襲ってくる傭兵たちを、オスカーとディーンが剣技で食い止める。オスカーは荒事は苦手だが、騎士の剣を仕込まれている。傭兵相手に後れを取ることはない。
ディーンも手慣れたものだった。
「山賊相手よりは楽ですね」
軽く笑いながら、無力化していく。
圧倒的な実力差だった。
騒乱の陰で逃げようとしたサディアスの足に、鞭が絡みつく。
「傭兵崩れたちはともかく、あなたは逃がしませんわよ」
シエラは冷酷に微笑みながら、サディアスに向かってもう一本の鞭を振り上げる。
「うふふ。あたくしたちがいることにも気づかないなんて、おバカさん。いたぶるのが楽しすぎて、周りが疎かになっちゃっていました? わかります!! 楽しいですもの!!」
鞭が空を切り、バシーンと音を立ててサディアスの背を叩いた。
「ぐああ……っ!」
サディアスは痛みに顔を歪め、悶える声が響く。
いつの間にか下りてくる傭兵崩れたちもいなくなって、サディアスただ一人になる。
「貴き血を引く御方。潔く諦めて、陛下の前で存分に弁明してくださいな!」
「近づくな!」
サディアスの目にはまだ強い意志が宿っていた。
「私は王になる人間だ! 私の国をどうしようが私の自由だ!」
目を血走らせながら、上着の中から何かを取り出した。
――短銃の銃口が、ヴィオレッタに向けられる。
(銃――?)
銃声が鳴り響くその直前、エルネストが自らの身体を盾にするようにヴィオレッタに覆いかぶさった。
放たれた弾丸はエルネストの肩に突き刺さり、血が飛び散る。
「エルネスト様!」






