52 神々の嗜好品
居間に移動し、ヴィオレッタとオスカー、そしてシエラの三人だけとなる。
シエラはオスカーの持っている瓶を見つめ、真剣な表情で言った。
「こちらは、アンブロシアパウダーです」
「アンブロシア?」
ヴィオレッタは同じ言葉を繰り返す。
「ええ。神々の食べ物の名――アンブロシアを冠する嗜好品です」
「随分と大仰な名前がついているのですね」
シエラがミエル・ヴィオレで同じ言葉を言いながらスイーツに感動していたことを思い出す。
シエラは美しい顔に、困ったような、呆れるような、煤けた笑みを浮かべた。
「吸うと天国にいるかのような幸福感をもたらしてくれるそうです」
「……それって、まずいものなのでは?」
美味しいものを食べたときは、夢見心地になるものだが。
粉を吸い込んだだけでそれほど幸せな気持ちになれる品物が、良いものだとは思えない。
「なるほど。こいつがそれか。名前だけは聞いたことがある」
瓶を見つめながらオスカーが言う。
「お兄様、どこでそんなものを知るんですか」
「お前の入れないような社交クラブとかだよ。貴族の男しか入れないような場所だ」
ヴィオレッタは驚きで目を見開く。
「お兄様がそんなところに……」
「変なところじゃないからな? 酒を飲んで情報交換するぐらいだからな? 男しかいないし」
慌てたように弁解する。
貴族の夫人や令嬢たちがお茶会をして親睦を深めるように、男性たちはそういうクラブで親睦を深めているのだろうが。
(大人の紳士たちの社交場……)
いったいどんな話をしているのやら。近づきたいとは思えない場所だ。
「そういえば、サディアス様も行きつけのクラブがあると言って、エルネスト様を誘っていました……」
そしてその時も、このアンブロシアパウダーの香りを煙草の香りの下に纏っていた。
シエラが頭を抱える。
「はあ……蔓延してそうですねぇ……頭痛い……」
「僕は噂を聞いただけだからな」
シエラは疲労の滲んだ表情で、オスカーの持つ瓶の中の薄紫色の粉を指差す。
「――アンブロシアパウダーの一番の問題点は、ひどい中毒性があることです」
「中毒性……?」
「ええ。魅入られてしまった人間は、これを手に入れるためならどんなことでもします。人格すら失わせる悪魔の粉と呼ばれています」
「…………」
「外の国からの輸入品で、昔から一部の貴族の間で愛用されていました。数年前に違法薬物に認定され、いまは所持だけで大罪です。ですのに――近頃それが裏ルートで広まっているのです。もちろん、密輸も流通も超大罪です」
オスカーは無言で瓶をテーブルの上に置く。
「――僕はアンバーの咥えていた瓶を拾っただけだ。何も知らない」
「わかってますよぅ。これは回収しまぁす」
シエラは瓶を手に取り、そっと上着の中に押し込んだ。
「閣下は、そのルートを追っていました。拠点や取引現場をいくつも潰しましたが、捕まえられたのは小者ばかりで」
ヴィオレッタは王都に来てからのエルネストの様子を思い出す。
ほとんど帰ってこず、疲労が滲んでいて、怪我までしていて。
そこまで危険なことをしていたなんて、考えてもいなかった。
「閣下の消息が絶えたということは、おそらくは――……どこかに潜入しているのか……」
シエラは口を閉ざし、首を横に振る。
そして明るく笑った。
「でも、閣下は割としぶといですから。そのうちひょっこり帰ってくると思いますよー」
「…………」
「閣下の犬がこれを持っていたってことは、かなり真相まで食い込んでいるということでしょうし、あとはあたくしたちに任せてお過ごしください。それが閣下の一番の望みですから」
――シエラの言うとおりなのだろう。
ヴィオレッタができることなど何もない。
何かしようとしても、エルネストやシエラたちの邪魔になるだけだ。
わかっている。
それでも。
「――それでは、わたくしは自由にさせていただきます」
ヴィオレッタは決意を込めて顔を上げた。
信じて待つのが妻の務めかもしれない。
だが、夫を助けることこそが妻の務めだ。
「あの、侯爵夫人? どうするおつもりですか?」
「散歩に行ってきます。お兄様、シエラさん、付き合っていただけますよね?」
――とても危険な散歩だけれど、と言外に込めて二人に微笑みかける。
ヴィオレッタの意図を察したオスカーが不敵に笑う。
「当たり前だ」
力強い言葉に、ヴィオレッタの心が軽くなる。
だが、シエラは不安そうな顔をしていた。
「……確かにあたくしは侯爵夫人の護衛を仰せつかっていますけれどぉ……いいんですか、レイブンズ卿」
「ヴィオは言っても止まらない。こうと決めたら走り続けるだけだ」
「はい、そのとおりです」
オスカーの言葉に、ヴィオレッタは満面の笑みで応えた。
危ないことをしようとしている自覚はある。
それでも、エルネストを助けにいきたい。
「……あーん、閣下に怒られるぅ……」
「ふふっ、わたくしは怒られたいです。一緒に怒られましょう」
「それはそれで見ものだな。あいつがどういう顔をするか楽しみだ。さて、どうするんだヴィオ?」
問われ、ヴィオレッタは考えた。
「犬は嗅覚が鋭いそうですから、エルネスト様のところに案内してくれないかしら」
この家には飼い犬と番犬が大勢いる。
頼めば主人であるエルネストのところまで、匂いを辿って案内してくれないだろうか。
「無理だと思いますよぉ。こちらの犬たちは高度な命令にも従いますが、それをさせられるのは侯爵閣下だけです。たぶん、ヴォルフズ家の異能ってやつですね」
「試してみないとわかりません。わたくしはエルネスト様の妻。つまりナンバー2」
ヴィオレッタは居間を出て、廊下にいた犬たちの前に立つ。
「誰か、わたくしをエルネスト様のところに案内しなさい」
――誰も、動こうとしない。
不思議そうな目でヴィオレッタを見ているだけだ。
「――奥様。非常に申し訳ないのですが、複雑な命令を出せるのは旦那様だけでございます」
いつの間にか後ろに控えていた執事のセオドアが、申し訳なさそうに言う。
シエラの言っていた通りらしい。
「おそらく、閣下が呼んでくれれば犬たちも動くでしょうけれど――……呼べない状況にあるか、犬たちでも匂いが辿れない状況にあるかでしょうねぇ……」
シエラの推測を聞きながら、ヴィオレッタは再び考えた。
「――となるとやはり、蛇の道は蛇ですね。セオドア、ミエル・ヴィオレとマグノリア商会に行くから、馬車を用意してちょうだい」
「畏まりました、奥様」






