51 失踪
最初に王都を出発してから、五日後。途中雨で足止めされつつも、ヴィオレッタたちは無事王都に帰還した。
(予定よりも時間がかかったけれど、大成功だったわね)
誰も怪我をすることなく、温泉というとても大きな資源を発見し、黄金糖を無事持ち帰ることができた。
大成功の旅だったと言えるだろう。
黒鋼鴉でヴォルフズ侯爵邸の庭に降り、黄金糖を下ろしてもらってからオスカーとルシアと別れる。
二人が家に帰っていくのを見送ったヴィオレッタは、ほっと一息ついてからすぐに食事をして入浴し、着替えをした。
ミエル・ヴィオレに向かう準備をしていた時に、マルセルが侯爵邸にやってきたという報告を聞いて、ヴィオレッタは急いで玄関に向かった。
玄関ホールでそわそわと立っている逞しい影を見て、ヴィオレッタは喜びの声を上げた。
「マルセル!」
「ああ……! ヴィオレッタ様、ご無事で何よりです……!」
「ええ、わたくしもお兄様もルシアも、例のものも無事よ。いまから運ぼうとしたところなの。マルセルはどうしたの?」
「理想的な配合が完成し、いてもたってもいられないところに黒鋼鴉が見えたので、ついこちらまで……」
「まあ! 完成したのね!」
「はい! ヴィオレッタ様、こちらを食べてみてください!」
勢いよく保冷容器が取り出される。
蓋が開くと、中には黄金が詰まっていた。
黄金糖のカスタードクリームが。
艶に、輝き。シルクのヴェールを纏ったような美しい姿。そして漂う甘い香り。
一瞬で心奪われる。
すぐに味見をしたヴィオレッタは、目を閉じ、深く深く味わった。
天を、地を、星を、世界を包み込む味だった。
「――おいしい……これよ。これだわ! 最高の配合よ! 最高の黄金糖クリームよ! マルセル、あなたは本当に素晴らしいパティシエだわ!」
「勿体ないお言葉です」
マルセルは謙遜しながらも嬉しそうに微笑んだ。
「あとは当日まで突き進むだけね!」
――何もかもうまくいっている。
(早くエルネスト様にも報告したいわ)
特別なスイーツのことも、領地のことも、温泉のことも。
これからもっともっとあの地は豊かになる――……
会いたい。早く会いたい。
(いっそ会いに行ってしまおうかしら)
その考えは、まるで天啓のようにヴィオレッタの頭で輝いた。
(そうよ。どうしてこんな簡単なことに気づかなかったのかしら)
恋焦がれているだけではなくて、自分から会いにいけばいい。それだけのことだ。
「――セオドア、エルネスト様にお会いしたいのだけれど、どうすればいいかしら」
傍に控えている執事に問うと、困った顔をする。
不穏な気配に、胸がざわめく。
「前はいつ帰ってこられたの?」
「……五日ほどお戻りになられていません。三日前からはまったく連絡も取れず……」
「それは、よくあることなの?」
「稀なことではございますが、まったくないというわけでもございませぬ」
ヴィオレッタは困惑した。
そして、自分がエルネストの仕事について何も知らないことを思い知らされる。
(エルネスト様の身に何かあったのかしら……)
必要があるから姿を消しているだけかもしれない。
だが、もしかしたら自分の意思では動けない状況に陥っているのかもしれない。
そしてヴィオレッタは、この状況でも何もできることがない。
(シエラさんなら何か知っているかしら)
シエラはエルネストに信頼されている部下だ。仕事仲間なのだから、お互いの状況を把握しているはずだ。
執事にシエラを呼んでもらおうと思ったその時、新たな来客がやってくる。
「ヴィオ!」
「お兄様?」
オスカーが、金色の毛並みの大きな犬――アンバーを抱えて、焦った顔で中に入ってくる。
「アンバー? どうしてこんな……」
抱えられているアンバーは、ぐったりとしていて目を閉じていた。
「セオドア、すぐに手当てをしてあげて」
「畏まりました」
使用人たちに抱えられて、アンバーが治療に連れていかれる。
他の犬たちも心配そうにアンバーの様子を見ていた。
「お兄様、アンバーを連れてきてくれてありがとうございます……」
「ああ。偶然、外をひとりで歩いているアンバーを見かけたんだ。かなり弱っていたから連れてきた。エルネストはどうしてるんだ?」
「……わたくしにもわからないのです……」
アンバーは、ほとんどいつもエルネストといる。
なのにアンバーだけが、あんな弱った状態で外にいたなんて。
――エルネストの身に何かあったとしか思えない。
泣きそうになるヴィオレッタの頭を、優しい手がぽんぽんと叩いた。
「大丈夫だ、ヴィオ。どうせすぐに帰ってくる」
「……はい」
ヴィオレッタは目許を拭い、マルセルの方を見た。
「……マルセル、慌ただしくてごめんなさい。例のものはすぐにミエル・ヴィオレに運ばせるから、お店に戻っていて」
マルセルは少し逡巡した後、頷いた。
「……はい。私は私の務めを果たします。私にできることがありましたら、何でも言ってください」
「ええ、ありがとう。マルセル、あなたのスイーツは、とても美味しいわ。次はエルネスト様と一緒に行くわね」
「お待ちしております」
マルセルは恭しく頭を下げてから、侯爵邸を出ていく。
それと入れ替わりのように、今度はシエラがやってきた。
とても、焦った顔で。
嫌な予感に心臓が締め付けられる。
「侯爵夫人! 閣下――侯爵様は、お帰りではないですか?」
「…………!」
ヴィオレッタは強いショックを受け、息を呑む。
言葉が出ないヴィオレッタの姿を見て、シエラが深いため息をつく。
「もう二日、姿をくらませているのです」
「そんな……」
――家に帰ってこないだけなら、仕事が忙しいのだとわかる。
だが仕事にも姿を見せず、部下すら居場所を知らないなんて。
無事すらわからないなんて。
どこに行ったのか。
いまどうなっているのか。
誰も行方を知らず、アンバーはあんなに弱っていて。
(エルネスト様……)
胸が苦しい。
息がうまくできない。
「ま、まあ、数日消えるくらいならよくあることですし。侯爵様なら心配ないと思います。お騒がせしました」
くるりと踵を返したシエラの腕を、オスカーががっちりとつかんだ。
「な、なんですかレイブンズ卿。情熱的ですのね」
「何があった」
「えっとぉ……」
「あいつはいま、何を追っている」
シエラはひくっと口元を引きつらせる。
「困らせないでくださいな。部外者に話すわけにはいけないのは、卿にもわかるでしょう」
「誰が部外者だ。僕はあいつの義兄だ!」
「部外者! 部外者! 部外者ー!!」
シエラは叫びながらオスカーの腕を振り払おうとするが、オスカーは離さない。
そして、オスカーが上着のポケットから何かを取り出す。
「これが原因じゃないのか?」
それは小さなガラス瓶だった。
中に薄紫色の透明な粉が入っているのが見える。
瓶から、かすかに甘い香りがした。
シエラの顔に驚きと嫌悪感が広がる。
「どうしてこちらを?! あなたまさか――」
「アンバー――あいつの犬が咥えていた。ふらふらの状態でも、こいつを離さずにこの場所を目指していた。いったいこれは何なんだ?」
「…………」
シエラはバツが悪そうな顔をして目を逸らす。
その間もヴィオレッタの意識はその瓶に釘付けになっていた。
唯一の手掛かりともいえる小瓶。
そしてそこから漂ってくる、どこかで嗅いだことのあるような気がする香り。
――そう。
煙草の匂いに紛れて――……
「……サディアス・カルドネア様?」
ぽつりと、その名前を零す。
瓶から漂ってきている香りは、彼が煙草の香りの下に纏っていた香りと似ていた。
ヴィオレッタは特段嗅覚が良いわけではないが、この香りだけは何故か最初から気になっていた。
最初に会った時も、二度目に会った時も。
「……いま、なんと?」
シエラは目を見開いてヴィオレッタを見つめる。声はわずかに震えていた。
「あの次期公爵がどうしたって?」
オスカーに鋭く問われ、ヴィオレッタは息を呑む。
「い、いえ……ただ、なんとなく、あの方が纏っていた香りに似ていると思っただけで……」
シエラはぐっと息を呑み、軽く天を仰ぎ、そして大きくため息をついた。
「……人払いをお願いできますか?」






