49 北の地への帰還
そして、太陽が西に傾いてきたころ――ついに見えてくる。
ヴィオレッタの愛する大地が。
どこまでも広がる畑には、無事に育っている作物たちの姿があった。緑の小麦が、クローバーが、風に揺れて光っている。
ある畑ではジャガイモの花が咲き誇っていて、甘カブの緑もよく見えた。
長旅の疲れが一瞬で吹き飛んでいく。
ヴィオレッタは深く息を吸い込み、懐かしい空気と風を胸いっぱいに感じ取った。
(帰ってきたわ……)
心の中で呟き、ヴィオレッタは微笑んだ。
ヴィオレッタにとっては、ヴォルフズ領が新たな故郷となっていた。
――ここが。
この大地こそが、自分の帰る場所なのだと、改めて実感した。
領主館の周囲をぐるりと回って状況を確認し、庭に下りる。
そこには既に執事のセバスチャンが控えていた。
「お帰りなさいませ、奥様」
ヴィオレッタはクロから降りて、セバスチャンに声をかける。
「ただいま、セバスチャン。でも明日には出発するの。今回は黄金糖を取りに来ただけなのよ。王都でアピールしてくるためにたくさん必要になったの。大至急集めてくれる?」
「は、はあ……承知しました……」
「一緒に来たのはオスカーお兄様と妹のルシアよ。それで、急で悪いのだけれど、食事を作ってもらえるかしら。ありあわせでいいから。泊まる部屋の準備もお願い。ルシアはわたくしの部屋で一緒に寝るわ。お兄様には前と同じ客室を使っていただきましょう」
「承知しました」
セバスチャンはそう言って、すぐに他の使用人たちに指示を出していく。
ヴィオレッタはその間にオスカーとルシアを連れて居間に行き、ゆったりとくつろいで長旅の疲れを癒した。
オスカーは屋敷内の犬たち相手に戯れ始め、ルシアも戸惑いながらも犬たちと交流しようとしていた。
「――奥様、少しよろしいでしょうか?」
セバスチャンにそう声をかけられ、ヴィオレッタだけ居間から別の部屋へ移る。
「どうかしたの? 不在の間に問題でもあった?」
「いえ、平和なものです」
「そう。それはいいことだわ。まだしっかりと見られていないけれど、農作物も順調みたいね。実りの季節が本当に楽しみだわ」
ヴィオレッタはこの地に四輪作の概念と、海藻肥料という新しい肥料を持ち込んだ。
それらが無事に効果を発揮できているのは、いままでこの地に住んできた人々と、この地で積み重ねられてきた農業技術のおかげだろう。
「ええ、誠に。ところで……旦那様はお元気でしたでしょうか?」
真剣な表情で聞いてくる。
「……たぶん?」
「たぶん、ですと?」
「あまりお会いできてないもの。とてもお忙しいみたい」
――ミエル・ヴィオレに迎えにきてくれたあの日からますます忙しくなったようで、ほとんど帰ってくることがない。時折帰ってきているようなのだが、すれ違いばかりだ。
「旦那様……おいたわしや」
セバスチャンは目許をそっとハンカチーフで拭う。
「たぶん元気よ? 悪い話は聞かないもの。安心して」
「……私が心配しているのは、旦那様の体調だけではございません」
「他に何かあるかしら。新しい借金とかもないはずだけれど」
首を傾げるヴィオレッタを、セバスチャンはまっすぐに見つめてきた。
「旦那様と奥様が一緒にいらっしゃった時は、それはもう穏やかなものでした。冬のさなかというのに毎日が春のような……いまの旦那様の心の中には重い雪が積み重なり、厳しい嵐が吹き荒れていることでしょう」
「ロマンチストね、セバスチャン」
「冗談で言っているのではございませぬ」
まさかの本気だった。
「そうは言われても、お会いできないのだから仕方ないじゃない。わたくしだって、エルネスト様ともっと……」
言いかけて、恥ずかしくなって言葉が途切れる。
「いまなんと?」
「――もっと一緒にいたいわよ。でも、お仕事の邪魔をするわけにはいかないじゃない」
ヴィオレッタが言うと、セバスチャンは深く呼吸した。
そして、静かにヴィオレッタを見つめる。
「――奥様。一生のお願いでございます。そのお気持ちを素直に旦那様にぶつけて差し上げてください」
「一生のお願いって――大げさすぎるわよ。それに、言えるわけがないわ。困らせるだけだもの」
「そんなことはございません。旦那様をご幼少のみぎりからお世話させてきていただいた私が保証いたします。命を懸けて」
「だから、大げさすぎないっ?」
一生のお願いだの、命を懸けるだの。
――だが、執事が夫婦仲に関心が高いのは当然だとは思う。
跡継ぎ問題に密接にかかわるのだから。
セバスチャンの表情は真剣そのものだ。鬼気迫るものがある。
とはいえ、こちらにも都合やら感情がある。
(本音をぶつけることは大切だってわかっているけれど……)
――きっと困らせてしまう。
エルネストが忙しいのも、帰ってこないのも、彼のせいではない。
――だが、会いたいという気持ちは本物だ。
顔が見たい。声が聴きたい。触れ合いたい。一緒に過ごしたい。
あなたのことが必要だと、伝えたい。
「わかったわ。言うだけ言ってみるわ」
ヴィオレッタが言うと、セバスチャンは満面の笑みを浮かべた。
「わたくしからも頼みがあるの。この地図の場所を調査してほしいのよ」
ヴィオレッタは温泉の位置を書き込んだ地図をセバスチャンに見せる。
「この場所でね、温泉――とても温かいお湯が湧き出しているの」
「はあ……それがいかがなさいましたか」
「ふふふ……そのお湯を使って、大きな浴場をつくるの。そしていずれは、観光名所にしたいと思っているのよ! 道も整備して、交通の便もよくしたいわね。宿もたくさんつくりたいわ」
「地面から湧き出る湯を利用して大衆浴場と宿をつくり観光名所に……でございますか?」
セバスチャンはすごく訝しげな顔をする。
「そのとおりよ。いいから、お願いね。わたくし、いくらでも投資するから」
「はあ……奥様は次から次へと色んなことをお考えですな……承知いたしました」
「じゃあ、任せたわよ」
◆◆◆
――夕食は簡単なものをリクエストしたはずが、手の込んだ豪華な料理が出てきてヴィオレッタを驚かせ、オスカーとルシアを大変喜ばせた。
「おいしい……っ」
ルシアが感動の声を上げるのを、ヴィオレッタは嬉しくなりながら聞いていた。
(さすがテオね)
侯爵家の料理人は、今日も超一流だった。
食事の後は身体と髪を洗う。その後は寝間着に着替えてそれぞれの部屋で休んだ。
もちろん、ルシアはヴィオレッタと同じ部屋で。
「こうして一緒に寝るのは初めてね」
ベッドに横たわるルシアに声をかけると、ルシアは照れくさそうに微笑んだ。
「なんだか、ドキドキします」
明かりを消して、就寝の準備をする。
今日も疲れたからすぐに眠くなるだろうと思ったが、ルシアの目は爛々と輝いていた。
「ねえねえ、お姉様。お姉様は、侯爵様のどこが好きなの?」
――まさかの恋愛トーク。
ヴィオレッタは驚きながらも、真剣に考えてみた。
「そうね……可愛らしいところかしら」
「ええっ? 格好いいじゃなくて可愛いなの?」
何故かすごく驚いている。
「格好いい……そうねぇ……狩りで弓を射るところを見た時は格好いいと思ったわ。ものすごく強い弓を使うのだもの」
「……お顔は?」
「そうね。よく整っていらっしゃると思うわ」
ルシアが不可解そうな顔をしているのが、暗がりの中でも見える。
ヴィオレッタは苦笑した。
――エルネストのことは、とても美しいと思う。
学生時代から彼は女子生徒の憧れの的だった。
だが、ヴィオレッタがエルネストに興味を持った切っ掛けは少し違う。
――校庭の片隅で、疲れ切って寝ていた姿、そこに子犬がじゃれついている姿、そしてヴィオレッタの差し出した昼食を食べてくれた姿を見たからだ。
「最初はね……美味しいものをたくさん食べさせてあげたいって思ったの」
ヴィオレッタのライスバーガーを食べてくれた姿を見て。
「次は……素直で優しくて、誠実な方だと思ったわ」
何度も謝ってくれた姿を見て。
大切にしてくれようとしている姿を見て。
「いまは、エルネスト様のすべてが好きよ」
心から、そう思う。
結婚したのが彼でよかったと。
「もう少しわがままになってくださっても良いと思うけれど」
エルネストは自分から望みを言うことはほとんどない。
生来の性格か、育ち方か、それとも貴族としての責任の重さ故か。
領主としては正しい姿かもしれないが。
せめてヴィオレッタに対しては、もっとわがままを言ってほしい。
気負いせず自分の気持ちを言ってほしい。
もっと心を開いてほしい。
それが、ヴィオレッタの望みの一つだ。
「……やっぱり、お姉様には敵わないな」
ルシアが、寂しそうにぽつりと言葉を零す。
「ルシア……?」
「わたしね、ヴォルフズ侯爵様のことが好きだったの」
「…………」
「わたしが、お姉様の代わりに結婚したかったって、ずっと、ずっと思ってた……」
ルシアの声は震えていた。
「でも、よくわかったの。あの方が、お姉様をどれぐらい愛しているのか……二人がどれくらいお似合いなのか」
「…………」
「わたしじゃ、無理なんだ……」
「ルシア……」
大きな瞳から、ぽろぽろと涙が零れていく。
(……やっぱり、そうだったのね……)
エルネストの前では挙動不審だった姿や、旅の途中の態度から見て、もしかしたらそうかもしれないと思っていた。
だがまさか本当に、エルネストに恋をしていただなんて。
ヴィオレッタは何も言えなった。
誰に何と言われても。
それが大切な妹だとしても。
ヴィオレッタはエルネストの隣を、誰に譲るつもりもない。
だから、ルシアの零す涙をただ見つめ続ける。
「……お姉様、遅くなってしまってごめんなさい……結婚、おめでとうございます」
ルシアは泣きながら気丈な笑顔を見せた。
ヴィオレッタはルシアを抱きしめる。
「ありがとう、ルシア」
「……うん。安心して、お姉様。わたしもきっと、自分の幸せを見つけるから」
そうして、ルシアは泣きつかれたように眠りについた。
ヴィオレッタはその寝顔を見つめながら、そっと濡れた頬をぬぐった。






