46 出発
――早朝、ヴィオレッタは空が薄明かりに照らされる中、クロに乗ってヴォルフズ侯爵邸から飛び立った。
朝霧に濡れながら、レイブンズ伯爵邸の庭に降り立つ。
そこには、準備万端のオスカーとブラックサンダー、そしてルシアとオニキスが待っていた。
レイブンズ家の三兄妹と、三羽の黒鋼鴉が集う。
「――よし、全員揃ったな。ヴィオ、ちゃんとどこに行くか言ってきてるだろうな」
「ええ、もちろん。エルネスト様はお帰りにならなかったので、執事に言伝てを頼んでいます」
秋冬に長期休暇を取ったことで、忙しさに拍車がかかっているらしい。
「あいつも難儀だな」
オスカーは同情するように呟き、ヴィオレッタを見た。
「それじゃあヴィオ、先頭は任せる。お前が一番慣れてるからな」
「はい」
「ルシアはその次。僕が後ろからフォローするから、リラックスしていけ」
先頭がヴィオレッタ、不慣れなルシアは真ん中で、オスカーが最後尾となる格好になる。
「ヴィオ、あんまり飛ばすなよ。初心者だったころを思い出せ」
「はい、もちろんです」
ヴィオレッタはクロを走らせる。順調に速度が上がり、力強く地面を蹴り出す。
地面との繋がりが断たれて空に浮き、羽ばたきとともに高度が上がっていく。
ルシアが続き、オスカーも続く。
ヴィオレッタは北の地――ヴォルフズ領にクロの嘴の先を向けさせる。
空に昇ると、朝日が地平線から顔を出してくるのがよく見えた。
金色の光が霧を照らす。耳に聞こえるのは風の音と黒鋼鴉だけ。
この状態では、お互いの声はかき消される。
安全のために近づきすぎてはならないので、意思疎通は手信号で行う。
ヴィオレッタはルシアの様子に気を配りながら、注意深く速度を調節した。
ルシアはまだ飛行に慣れていない。遅れていないか確認しながら、いつもよりゆっくりと進む。
クロが物足りなさを覚えるかと思ったが、こちらもルシアとオニキスのことを気にしているようで、何度も後ろの様子を確認していた。
ブラックサンダーは年長者だけあって、悠然としたものだった。
(こうやって皆で空を飛ぶ日が来るなんて――)
喜びと、感動を覚える。
空は快晴で、風もそう強くない。ほとんど羽ばたかなくても風に乗って進んでいける。
日程にはかなり余裕を持たせているが、この分なら思ったよりも早く到着するかもしれない。
――しばらく飛んでいるうちに、ルシアのオニキスが少しずつ遅れ始める。
(スピードが落ちてきているわ……そろそろ休憩にしましょうか)
ヴィオレッタは考え、地上に適した場所を探し始める。
水場の近くで、できるだけ開けた場所がいい。
そうしてヴィオレッタはちょうどいい場所を発見する。柔らかな緑の草が広がり、川も近く、休憩にはぴったりな場所だ。
後方へ手信号を送り、返事を確認してから滑空体勢に入る。
地面に下りる寸前に速度が緩まり、ふわりと風が舞い上がる。
そして、優雅に着地。
クロを中心に円形に草をなびかせる。
無事着地すると、ルシアとオスカーも下りてくる。ルシアはやや慌ただしく、オスカーは軽やかに。
ルシアはオニキスから降りると、ふらふらと座り込んでそのまま地面に寝転んだ。
ヴィオレッタはルシアの隣に座り、顔を覗き込む。
「ルシア、大丈夫?」
「大丈夫。でもちょっと……空の移動は、まだ慣れないかも……」
「無理はしない方がいいわ。黒鋼鴉たちに水を飲ませてあげて、わたくしたちもしばらく休憩しましょう」
ヴィオレッタは水差しの水を飲んでから、リュックから焼き菓子を取り出した。旅の途中で食べるためにマルセルが用意してくれた特製ビスケットだ。
「はい、どうぞ。お兄様も」
「へえ、うまそうだな」
ルシアとオスカーにビスケットを渡す。
黒鋼鴉はその間に自分たちで川の水を飲みに行っている。
ついでに川の魚や川岸の虫を食べていた。
水のせせらぎが響く中、のんびりと休憩の時間を過ごす。
「ルシアもなかなかうまいもんだな。黒鋼鴉に乗れるようになったばかりだなんて、誰も思わないだろうな」
オスカーがルシアを賞賛すると、ルシアは恥ずかしそうに頬を赤らめた。
「そ、そうかなぁ」
「ええ。ルシアはすごく頑張っていたものね」
――ルシアは毎日欠かさず練習していた。
その努力はレイブンズ家の誰もが知っている。
ルシアは嬉しそうにはにかむ。どこか誇らしそうだった。
◆◆◆
しっかり休んだ後、再び飛び立つ。
二時間ほど経ってから再び地上――今度は森の近くに降りて、昼食用に持ってきたハンバーガーを食べる。
黒鋼鴉たちは森の中に入り、楽しそうに遊び回っている。
「もうひと頑張りして、宿のある街まで行きましょう。今日はそこで休んで、明日ヴォルフズ領を目指しましょうね」
「わたしたちが街にいる間、オニキスたちはどうするの?」
「もちろん、外で待っていてもらうわ」
馬を預けられる宿もあるが、ほとんどの馬は黒鋼鴉を怖がる。
なので入れさせてもらえない。
ヴィオレッタが言うと、ルシアが悲しそうな顔をした。
「……オニキス、きっと寂しがるわ」
「まあ。なら、野宿しましょうか」
「えっ? の、野宿?」
「黒鋼鴉の翼に包まれて眠るのよ。どうですか、お兄様」
オスカーに聞くと、戻ってきたブラックサンダーの背中を撫でながら答える。ブラックサンダーの嘴にはスパイスベリーの果汁がついていた。
「僕は慣れてるから構わないけどな。お前らさえいいなら」
「わたくしも慣れているので大丈夫です。どう? ルシア」
「だ、大丈夫なんですか?」
不安がるルシアに、ヴィオレッタは微笑みかける。
「大丈夫よ。黒鋼鴉を襲うような人も獣も魔物もいないわ。わたくしたちが保障します」
「わ、わかりました……」
「そうと決まれば、街で食事と買い出しをしましょう。楽しみですね」
ハンバーガーを食べ終わり、しばらく食休みをする。
再び出発しようとしようとしたとき、オスカーがヴィオレッタに声をかけてきた。
「――ヴィオ、次は僕が先頭を行くから、お前は最後尾にいてくれ」
「はい、わかりました」
オスカーはにやりと笑いながらヴィオレッタの頭を撫でる。
「風にうまく乗れよ」
オスカーとルシアが飛び立つのを確認してから、ヴィオレッタもクロを飛び立たせる。
ブラックサンダーの飛ぶ斜め後方を飛ぶオニキスの斜め後方に、クロが自然と収まっていく。
(あら?)
ヴィオレッタはすぐにいつもと違うことに気づいた。
(なにこれ――すごく楽だわ!)
まるで身体が浮いているかのように、いつもより楽に風に乗れている。
クロもゆとりをもってゆったりと飛んでいた。
二時間ほど連続で飛んで、街が見えてきたところでオスカーが着地指示を出した。
下りていくブラックサンダーとオニキスに続けて、クロを地面に下ろす。
無事着地したヴィオレッタは、すぐさまオスカーに駆け寄った。
「お兄様、どういうことでしょう。すごく楽でした!」
「だろう?」
オスカーは得意げに笑みを浮かべる。
ルシアがオニキスを労わりながら振り返る。
「どういうことですか?」
「前を飛ぶ黒鋼鴉が起こす風に乗れるから、後ろは楽なんだ。だから、複数人で飛べるときは、途中で先頭を交替したほうがいい」
初めて聞く話に、ヴィオレッタは衝撃を受けた。
「さすがです、お兄様。そんなことまでご存じだったなんて」
「いや、家にあった記録で見たんだけどな。実践してみてよくわかった」
オスカーはすごく嬉しそうだった。
得た知識を実践で確認する楽しさは、ヴィオレッタもよく知っている。
新しい世界が開ける感覚は、いつだって興奮をもたらす。
「はい、わたくしも実感しました」
「わたしも、一人で飛ぶときより、ずっと長く飛べています……そういうことだったんですね」
ルシアも感激していた。
ヴィオレッタは深く頷く。
「力を合わせると、ひとりでよりずっとたくさんのことができるのですね。素敵です」
「まあ、そういうことだな。それじゃあ、買い出しにいくか」
言って、街の方に視線を向ける。
規模の大きな――そしてどこかのどかな街だった。
「ブラックサンダー、そいつらをちゃんと見ておいてくれな」
オスカーが声をかけると、ブラックサンダーが「任せておけ」と言わんばかりに短く鳴いた。






