44 試作開始
それからすぐにアイリーゼに手紙を書いて話す機会を作った。スミレとバラの黄金糖漬けを手土産にして、黄金糖を使用する旨と、スイーツのコンセプトを説明し、快諾してもらった。
(よし、あとは突き進むだけね!)
――それからは大忙しだった。
ヴィオレッタはすぐさまケーキのデッサンを描き、ミエル・ヴィオレに行ってマルセルに相談した。ヴィオレッタの話に、マルセルはすごく乗り気になってくれた。
それからは、とにかく試作だった。
ミエル・ヴィオレの夕方――営業時間が終わり、従業員も帰ってから厨房で試作を重ね、完成度を高めていく。
(あともう少しで理想の配合に辿り着けそうね。きっと、素晴らしいものができあがるわ)
ヴィオレッタはマルセルの腕を全面的に信頼している。
何もかも順調だ。
王都に来てから素敵なことばかり起きている。
きっと、これからも。
「――それじゃあ、わたくしはそろそろ帰るわ。マルセル、あまり無理はしないでね」
夜になって馬車が店の前で止まる気配がして、ヴィオレッタは立ち上がった。
このくらいの時間になると、いつもシエラが迎えにきてくれて行き帰りの護衛をしてくれる。
タイミングが合えばついでに試食もしていってくれる。そしていつも美味しい美味しいと喜んでくれる。
従業員用のドアがノックされ、マルセルが対応に出る。
「……ええと、失礼ですがどちらさまでしょうか」
ドアを開けたマルセルの戸惑いの声が聞こえてくる。
「――妻を迎えにきた」
聞き慣れた声に、ヴィオレッタは急いで厨房から飛び出した。
「エルネスト様? エルネスト様がきてくださったんですか?」
ドアの外側にエルネストの姿が見えて、ヴィオレッタは驚きと喜びに胸を沸かせながら駆け寄った。
そのまま抱き着くと、エルネストは少し驚きながらも優しく抱き留めてくれた。
その感触と存在感に、心から安堵する。
「まあ、アンバーも来てくれたの?」
エルネストの足元ではアンバーが尻尾を振りながら座っていた。
ヴィオレッタが軽くしゃがみ込んでその頭を撫でると、ますます嬉しそうに目を輝かせる。
そしてヴィオレッタは、エルネストとマルセルが初対面であろうことを思い出した。
「エルネスト様、彼が昔からわたくしが信頼しているパティシエのマルセルです」
エルネストは静かにマルセルを見つめ、短く頷いた。
「妻がいつも君のことを褒めている。とても腕がいいのだと」
「勿体ないお言葉です」
マルセルは緊張で身を硬くしながら、恥ずかしそうに微笑んだ。
「それじゃあマルセル、お疲れ様」
「ええ、お気をつけて」
外に出ると、ひんやりとした風が触れる。初夏といってもまだまだ夜は寒いほどだ。
「エルネスト様が来て下さるなんて、何かあったのですか?」
「いや、ただ一秒でも早く、君の顔が見たかった」
その一言に心臓が跳ね、頬が熱くなる。
(エルネスト様って、こういうことをさらりと言ってしまわれるのよね)
少しずつ慣れてきたが、不意打ちで言われるとびっくりしてしまう。
気を取り直そうとしていると、隣を歩くエルネストが軽く左腕を庇っていることに気づく。
「エルネスト様、もしかして怪我をしています?」
「ああいや……これは……かすり傷だ。大したことはない」
安心させるような声で言われると、それ以上聞くのは憚られた。
(……お仕事で怪我をされたのかしら。だとしたら、深く聞かない方がいいわよね。困らせてしまうだろうし)
エルネストの仕事は女王から任ぜられているものだ。
その内容を漏らすことはできないだろう。
「痛くありませんか?」
「大丈夫だ。ちゃんと手当もしてある」
「無理はなさらないでくださいね」
言いながらヴィオレッタは自分の無力さを感じた。
結局自分はエルネストの仕事の領域に入ることはできない。力になることができない。
それ以上何も言えないまま、通りに停まっている侯爵家の馬車に乗り込もうとしたところ、エルネストが即座にヴィオレッタを庇うように前に出る。
アンバーも警戒するように身を低くする。
「――やあ、ヴォルフズ侯爵に夫人。こんなところで出会えるなんて幸運だ」
朗らかながらもどこか冷たい声が、王都の夜道に響く。
前方から近づいてきたのは、護衛を連れたサディアス・カルドネア次期公爵だった。
「サディアス様……どうしてこちらに?」
ヴィオレッタは困惑しながら問いかけた。
ミエル・ヴィオレはとっくに閉まっている。周囲の店も同様だ。
「近くに行きつけのクラブがあってね」
そう笑う彼からは、煙草の匂いが漂っていた。
「今度君もどうだい? 君なら皆歓迎するだろう」
エルネストは無言のまま、警戒心のこもった鋭い眼差しでサディアスを見つめ続けている。
サディアスはその視線を受け流すように、余裕の笑みを浮かべた。
「ははっ、随分と仲睦まじいようで羨ましいよ」
「…………」
「君が結婚したのも驚いたが、それほどお相手を大切にしているとは思わなかった。ぜひ二人の馴れ初めを聞かせてもらいたいな。これからどうだい?」
「…………」
「私たちは手を取り合っていくべきだ。わかるだろう?」
「失礼する」
エルネストは話を無理やり切り上げると、馬車にヴィオレッタを乗せた。
サディアスは最後まで感情の読めない笑みを浮かべたまま、ずっとこちらを見つめていた。
ヴィオレッタが奥に座り、隣にエルネストが座る。飛び乗ってきたアンバーがエルネストの足元に座り込み、馬車が出発する。
(おふたりは仲が悪いのかしら)
サディアスの姿が見えなくなっても、馬車の中はピリピリとした空気が満ちていた。
(サディアス様はエルネスト様と仲良くしたいとおっしゃっていたけれど……)
サディアスのエルネストに対する態度を見ると、とても仲良くしたがっていたようには思えない。むしろ挑発するような雰囲気だった。
そしてエルネストも、警戒心をあらわにしていた。
「あの、エルネスト様……サディアス様とはどのようなご関係で?」
エルネストは一瞬の沈黙の後、重い口を開いた。
「……あまりこういうことは言いたくないのだが、正直関わりたくない相手だ」
何があってその気持ちを口にしたか、ヴィオレッタにはわからない。だが、これまでに積み重なった複雑な感情が込められているのは伝わってくる。
ヴィオレッタは深くは聞かず、エルネストに寄り添った。
「エルネスト様、わたくしはずっとエルネスト様の味方ですからね」
過去に何があっても。
これから先、どんなことがあっても。
エルネストはその言葉に微笑み、ヴィオレッタを抱き寄せた。
「ヴィオレッタ……すまない」
「こういう時は、謝らないでください。ありがとうと言ってくださった方が嬉しいです」
「そうだな」
エルネストはそう言って、小さく喉を鳴らす。
「……ありがとう」
「ええ、どういたしまして」
ヴィオレッタはエルネストの瞳を見つめ、そっと目を閉じた。
ほどなく重なった唇から、深い愛情と信頼が伝わってきた。






