43 懐かしい風景
「……お、お姉様……――!?」
ルシアの引きつった声が耳に響く。
顔を向けると、黒鋼鴉を連れて厩舎から出てきたルシアと目が合った。
「ルシア――」
――ルシアは、この短時間でかなり引き締まっていた。相当汗をかいていた。
そして、ヴィオレッタたちの方を見て顔が強張っていた。
エルネストからの抱擁はまだ解けていない。
(こ、これは――ルシアに見せていい姿ではないわ)
ヴィオレッタは慌ててエルネストを押し返す。
「お、お疲れのようですねエルネスト様。しばらく木陰で休んでいてください」
エルネストを木陰に押し込んで、ヴィオレッタはルシアの前に立ち胸を張った。
「――よく頑張ったわね、ルシア。それでは始めましょうか」
「…………」
――気まずい。
ルシアの表情は暗く、目が淀んでいる。ヴィオレッタと視線を合わせようとしない。
「ところでルシア、あなたの黒鋼鴉の名前の由来を教えてくれる?」
「……目が、オニキスみたいだったから」
オニキスは漆黒の宝石の名前だ。
魔除けの力があるという、力強い石だ。
黒鋼鴉の名前としてもぴったりだと思ったものだ。
「素敵な名前ね」
ヴィオレッタが言うと、ルシアは少しだけ嬉しそうに頬を染めた。視線は逸らしたままだったが。
「ではまずは乗ってみましょうか」
黒鋼鴉に乗るように言ってみると、ルシアは身体を震わせて後ろに下がった。
「む、無理です……許してお姉様……」
「ダメです。こればかりはちゃんとやり遂げてもらいます。大丈夫、馬に乗るのと一緒です」
「わたし、馬に乗れません」
――そう言えばそうだった。
ルシアは馬車に乗るばかりで、乗馬することもなかった。
「なら、今日が記念すべき初めての騎乗ですね」
「……わたしが乗って、本当に大丈夫でしょうか……」
自信なさげに呟く。
昔はあんなに自信満々だったのに。
「大丈夫よ。オニキスも、ずっとこの時を待っていたはずだから」
「…………」
「あなたと一緒に空を冒険する日を、ずっと待っていたはずよ。ほら、声をかけてあげて」
「オニキス……」
ルシアがオニキスと目を合わせる。
オニキスはやれやれと言った顔でぷいっと顔を逸らした。
少なくとも嫌がっている様子はない。もしそうだったとしたら、厩舎からここまで来ることもなかっただろう。
調教師の手も借りて鞍を取り付け、ヴィオレッタとオスカーも手を貸して、三人がかりでなんとかルシアを鞍に乗せる。
「うわあ……」
鞍の上から見える光景に、ルシアは心を奪われていた。
「……黒鋼鴉は妹たちには甘いんだよな……」
オスカーの呟きが聞こえる。
――その時、オニキスが指示を出されてもいないのにゆっくりと歩き出す。
「きゃあっ?」
「ルシア、手綱を離してはダメよ。力を抜いてオニキスに身体を預けて、一体化するの」
ルシアはがちがちになりながらも、言われた通りにしっかりと手綱を握っていた。
オニキスは悠々と楽しそうに歩いていたが、突然小走りになって走り出した。
「――と、とまって、とまってええええ!!」
ルシアの命令など聞かず、嬉しそうに庭を走り回る。
自分の上に乗っている人間のことなど、完全に忘れ去っているかのようだった。
(ああ、懐かしい……)
初めてクロに乗った時の光景を見ているかのようだ。何もかもが懐かしい。
「大丈夫よ、ルシア。オニキスは遊んでいるだけだから」
安心させるために声をかけるが、ルシアの耳に届いているかはわからない。
そんな光景を微笑ましく見ていると、木陰で休んでいたエルネストがヴィオレッタの方へやってくる。オニキスとルシアを横目で見ながら。
「――ヴィオレッタ。本当に、これで構わないのか?」
――これで許すのか、と確認したいのだろう。
ヴィオレッタは頷いた。
「ルシアには、立ち直る機会を与えてあげたいのです。でも、なかなかうまくいかないと思いますよ」
ヴィオレッタの隣にいるオスカーも頷く。
「……黒鋼鴉は小さいうちから慣れていないと大変だからな……何せ、落ちると痛い」
お互いに幼い頃から慣らしていった方が、お互いに慣れていく。
遊び相手として絆を育んでいける。
「それでも、ルシアが心を開いたらオニキスもきっと応えてくれるはずです。オニキスも、ずっとこの日を待っていたはずなんですから――」
オニキスの速度が緩まり、ルシアが安心したように身体の力を緩めるのが見える。
――その直後、オニキスが身震いをしてルシアが鞍から落ちた。
手綱を離していないので、ぶら下がる格好になって足から落ちる。
「……いまは拗ねていじわるしていますけれど」
「僕もよくやられた。ひとしきり遊べば落ち着くだろ」
「ふふっ、秋が来るまでに乗れるように、猛特訓ですね」
――ヴィオレッタがヴォルフズ領に帰るまでに乗れるように。
この試練を乗り越えたら、ルシアはもっと強くなれるはず。
地面に突っ伏したままのルシアのところに行って、手を差し伸べる。
「お姉様……」
「初めてにしては上出来よ、ルシア。これからは、学園がお休みの日はできるだけクロに乗って来ますから。頑張りましょうね」
「お姉様ああぁぁ……」
大量の涙をこぼしながらうなだれる。
(泣くほど嬉しいのね。わたくしも頑張らなくちゃ!)
ルシアの肩を撫でながら、ヴィオレッタはますますやる気を出した。
◆◆◆
――レイブンズ家で半日過ごし、昼過ぎに外に出る。
泊まっていくことも勧められたが、エルネストが外せない用事があるとのことだったので帰ることにした。
侯爵邸へ向かう馬車の中でも、エルネストは軽く眠っていた。
ヴィオレッタはエルネストに寄り添い、その体温と存在を感じていた。
(わたくし、本当に幸せだわ……)
幸福感に包まれながら窓の外を見ると、遠くにヴィオレッタが結婚式を挙げた教会が見えた。
ヴィオレッタは自分の結婚式を思い出す。王都での結婚式は、簡素なものだった。
参列者もほとんどおらず、誓約書にサインをしただけで、式の間は――それ以前から――夫になる相手の顔もまともに見ていなかった。
その後は別々の馬車で北のヴォルフズ領まで向かった。
――正直、あの旅路は大変なものだった。
うまくやっていけるか不安だった。
(結婚一周年のパーティと、エルダーツリーでの誓いの言葉の方が、よっぽど結婚式のようだったわ)
――日々を重ねるごとに新しい思い出が増えていっていることに、喜びを感じる。
そして、冬の狩りのときに見かけた大木の姿と、そこでのやり取りを思い出す。
ヴォルフズ家の始祖がその地にやってきたときからの守り神――エルダーツリー。
高くそびえ立つ、生命力と神秘性に溢れた存在。
その木の前で永遠の愛を誓ったことを、一生忘れないだろう――……
そこまで考えて、ヴィオレッタは短く息を呑んだ。
(――スイーツであの木を再現できないかしら?)
そのアイデアは、前世知識と絡み合ってヴィオレッタの中で繋がっていく。
(――確か、ゴツゴツした木をイメージしたスイーツがあったはず……)
必死で前世の記憶を手繰る。思い出すのはそれこそ針葉樹のような円錐のシルエット。
(――そうよ。これよ、これだわ! これしかないわ!!)
――ミエル・ヴィオレのクリームをふんだんに使って。
――そして、特別な物語を添えれば。
これ以上ない特別なスイーツになるのではないだろうか。
全身の血がふつふつと沸き上がる。
いますぐにでもミエル・ヴィオレに駆け込みたい気持ちになっていると、エルネストがふと目を覚ました。
「ヴィオレッタ……?」
「エルネスト様、大好きです!」
ヴィオレッタはエルネストに思い切り抱き着いて、その頬にキスをした。






