42 猛特訓の始まり
口元を引きつらせるルシアを、ヴィオレッタは微笑みながら見つめる。
「わたくしからの要望は、既にお兄様から聞いているでしょう?」
「そ、それは……」
――黒鋼鴉に乗れるようになるように。それまでは絶対に許さないと。
ヴィオレッタはオスカーの方を見てみる。オスカーは無言で頷いた。
やはり、ちゃんと伝えてくれている。
そしてルシア宛の手紙にもそう書いた。
聞いていないとは言わせない。
「……わたしには黒鋼鴉に乗るなんて無理!」
「無理じゃありません!」
「ひぃっ?」
ヴィオレッタははっきりと言った。黒鋼鴉の鳴き声のように高らかに。
「ルシア、あなたもレイブンズ家の一員。自由の翼を持つ人間です! 無理なことなどひとつもありません!」
「で、でもぉ……」
ルシアは半べそになりながら、ちらりと父と母を見る。
「ヴィオ、ルシアに無理をさせるのは――」
「無理ではありません」
ヴィオレッタは父親に対してもきっぱりと言い切った。
こればかりは父の言うことでも聞けない。
世の中には通すべき筋がある。
それを、やる前から諦めるなど言語道断だ。
「ルシア、あなたの黒鋼鴉の名前は何だったかしら?」
「……オニキス」
「素敵な名前よね。ではいまからオニキスに会いに行きましょう。さあ、いますぐ動きやすい服に着替えてくるのよ。そしてまずは、バケツ一杯に土虫を集めるの!」
「いーやーー!」
ルシアの悲鳴が屋敷の中にこだました。
「もう無理、もうむりぃぃぃぃ!! いやー! 死んじゃうーー! 誰かーーーー!」
遠くから悲鳴が聞こえる。生き生きとしたいい悲鳴だ。
ヴィオレッタはそれを、庭の方で聞いていた。昔、黒鋼鴉に乗る練習をした庭で。
「久しぶりに賑やかだなぁ」
騎乗服に着替え済みのオスカーが、同じく騎乗服に着替え済みのヴィオレッタの隣で苦笑していた。
「土虫相手に死にはしません。お兄様、手伝ってあげてもよろしいのですよ? こう、摘まんで、ポイって――」
「いやー、ははは……」
乾いた笑い声を零す。
しばらくの間、悲鳴を聞きながら懐かしい庭を見て回る。
黒鋼鴉の痕跡があちこちに残っているが、隅々までしっかり手入れがされている。
「調教師も一緒ですし。オニキスも、名付け相手を齧ったりしないでしょう」
「だといいけどな」
ヴィオレッタはエルネストの方をくるりと振り返る。
「エルネスト様、長くなるかもしれないので、先にお帰りいただいていて結構ですよ」
「――エルネスト、帰っていいんだとよ」
オスカーが揶揄するように言う。
「……私が帰る場所は、ヴィオレッタのいる場所だ」
「エルネスト様ったら……」
思わず顔が熱くなる。
オスカーはため息をついて、自分の髪をくしゃくしゃと乱した。
「それにしても――お前、会話が下手すぎるだろ。ルシアに話しかけた時、本当に尋問かと思ったぞ」
「回りくどいやり取りは好きではない」
オスカーは大きくため息をついて、ヴィオレッタに耳打ちするように言った。
「……ヴィオ、ちゃんとこいつのフォローできるようにしておけよ」
「わたくしがエルネスト様のフォロー……が、頑張ります」
「頑張らなくていいけど、あんまり目を離すな。こいつ、あえて空気を読まないところがある。学園時代もそれで何度トラブルを起こしたか」
――不謹慎ながら。
詳しく聞きたいと思ってしまった。
そんなヴィオレッタを正気に引き戻したのは、遠くから聞こえるルシアの悲鳴だった。
「そ、それよりも聞いてください、お兄様、エルネスト様。――実は、アイリーゼ様にパーティに出す特別なスイーツをお願いされたのです……!」
「……ヴィオ、お前まさか、そこで黄金糖を出す気か?」
「ええ、もちろん」
さすが兄。
話が早い。
「本気か? ……そりゃあ、これ以上ない機会だろうが……失敗したら大変なことになるぞ」
「それはもちろんわかっています。でも、アイリーゼ様のためにも最高のスイーツを用意したくて。もちろん、いくつか案を揃えてアイリーゼ様に相談します」
「……そこまでするなら、大丈夫か……?」
オスカーは不安を残しつつも、それ以上反対はしなかった。
「エルネスト様は、どう思います?」
「――君がそうと決めたのなら、間違いはない」
信頼が込められた眼差しが、何より心強かった。
「ありがとうございます。それで、マルセル――わたくしの信頼するパティシエが、素敵なスイーツのアイデアを出してくれたんですけれど、決めきれなくて」
――せっかく黄金糖のお披露目の機会になるかもしれないのだ。
特別なスイーツを考えたい。
もちろん、マルセル考案の黄金パフェは素晴らしいアイデアである。
だがもっと、サプライズ的な――演出が組み込めるケーキにしたい。会場が大盛り上がりして、いつまでも思い出に残るような――
(せっかくの素敵なパーティですもの。楽しいものにしたいわ)
離宮での煌びやかなパーティを想像し、思いを巡らせる。
「――そうそう、エルネスト様。アイリーゼ様が夫婦そろって是非と言ってくださったんですが、大丈夫でしょうか?」
「……必ず、都合を付ける。何としてでも」
「いえ、そこまでは。いざとなったらお兄様にエスコートしていただきますし」
大切なパーティとはいえ、仕事の方も大切だ。
エルネストが不参加だったとしても、エスコートの当てはある。
幸い、兄にはまだ恋人も婚約者も配偶者もいない。
「僕は構わないけどな。けどただの兄だと、ヴィオがカルドネア次期公爵にダンスを申し込まれても断り切れないかもな」
「そ――そんなことあるわけないじゃないですか」
「サディアス・カルドネア次期公爵に口説かれたんだろ?」
「されてません!」
オスカーの問いに、思わず大声が出る。
「ただの社交辞令です。既婚者とわかっている相手を口説くはずがないじゃないですか」
――そう。ただの社交辞令か、もしくはからかわれただけだ。
なのに、どうしてだろう。
エルネストの表情が怖い気がする。
その時ヴィオレッタの護衛をしてくれていたシエラから話を聞いているのだろうが。
(シエラさん、どこまで話したのかしら……もしかして、全部? 護衛なのだから、当然なのだろうけれど)
あの日のことを思い出しながら、ヴィオレッタは何故か落ち着かない気持ちになった。
エルネストに知られて困ることなんて何もないはずなのに。
「二人きりで会いたいとか言われてなかったのか?」
「えっ、どうしてわかるんですか? ――ちゃ、ちゃんと断りましたからね。旦那様と一緒にご挨拶しますって。エルネスト様も、聞いたのでしょう?」
「……ああ、聞いてはいる……」
エルネストは苦々しい表情を浮かべていた。
――やっぱり全部筒抜けのようだ。
知られて困ることなんて何一つない。
ないが、社交辞令であっても他の男性に言い寄られかけたのを知られているのは、落ち着かない気持ちになる。
「――ヴィオレッタ、何があっても君をひとりにしたりはしない。君のパートナーは私だけだ」
「は、はい? そのとおりですけれど?」
エスコートの相手は家族にも頼めるが、ダンスのパートナーは、ただひとりだけだ。
他の誰に誘われたとしても、受けるつもりはない。
――もちろん、これからパーティに参加していくと断れないこともあるかもしれないが。
「わたくしが踊りたいのは、エルネスト様だけです」
――踊りたいと思える相手は、一人しかいない。
青い瞳をまっすぐに見上げて微笑むと、急に強く抱きしめられた。
「きゃあっ? エ、エルネスト様――」
慌てるヴィオレッタの隣で、オスカーがげんなりした顔で目を逸らす。
「――そういうのは二人きりの時にやってくれ。頼むから」






