40 実家訪問
――次の日。
ヴィオレッタは侯爵邸の女主人の部屋でひとり目覚めた。
カーテンを通して朝の光が差し込み、部屋を金色に照らしている。
ベッドから起き上がり、カーテンを開ける。そこからは青い空と、昨日カボチャの種を植えたばかりの畑が見える。
「いいお天気ね」
窓を開けると、澄んだ空気と穏やかな風が流れ込んでくる。
まるで世界から祝福されているかのような、初夏の空だった。
そして今日は、約二年ぶりに実家に行く日だ。
(エルネスト様は昨夜も帰ってこられなかったみたいね……)
少しだけ残念だが、我慢せずにちゃんと伝えたから後悔はない。
仕事が忙しいのだろう。
エルネストの邪魔をするつもりはない。
――一人で行こう、とヴィオレッタは決意する。
行き先は実家なのだから、シエラに護衛をしてもらう必要もないだろう。ヴィオレッタは侯爵家の使用人に同行を頼み、朝食後に馬車を出してもらってミエル・ヴィオレへ向かう。
手土産にするケーキを引き取るためだ。
店に到着すると、すでに行列ができ始めていた。
ヴィオレッタが関係者用入口から中に入ると、厨房にはマルセルがいた。
そして、焼き上がったばかりのゴールデンルビーが作業台の上にあった。
――秋の夕暮れを閉じ込めた宝石のケーキが。
「すごいわ、マルセル。完璧よ」
ヴィオレッタは心から感激したが、マルセルの表情はどこか晴れない。
「ヴィオレッタ様、差し支えなければ――このケーキのレシピを作ったのは、どんなパティシエか教えていただけますか」
「これはヴォルフズ領地の料理人に作ってもらったのよ」
「料理人?」
「そこにはパティシエはいないから。料理人はテオというんだけれど、彼が料理からスイーツまで全部作ってくれるの。まだ若いけれど、とても腕がいいのよ」
「それは……よく、わかります……」
――やはり、テオの料理の腕は抜群にいいのだろう。マルセルが認めているのだから。
こんな素晴らしい職人たちに出会えて、ヴィオレッタは自分が幸運だと改めて思った。
「己の未熟さが恥ずかしい……」
「マルセル?」
「この程度の腕でよくも得意げになれたものだ!」
なんだか雰囲気がおかしい。
マルセルの身体から闘気が立ち上っている。特に右の上腕二頭筋から。
(才能が、才能に刺激されている……?)
――職人同士だけが通じ合う何かで、マルセルが闘志を燃やしている――そうヴィオレッタは解釈した。
「わたくし、あなたのつくるスイーツが大好きよ。小さい頃からずっと。あなたの腕は、皆を幸せにする力を持っているわ」
「……ありがとうございます、ヴィオレッタ様。そのお言葉で、また一歩前に進める気がします」
ぐっと拳を握る。
その表情は何か吹っ切れたような、爽やかなものがあった。
「とっても頼もしいわ」
ゴールデンルビーを梱包してもらい、ヴィオレッタは馬車に乗り込んだ。そしてそのまままっすぐレイブンズ伯爵邸へと向かう。
(……実家に行くだけなのに、緊張しているわ)
期待と不安を抱きながら王都の姿を見つめる。
両親とも、妹とも、長い間会っていない。
昔のように言葉を交わせるだろうか。
レイブンズ家に到着する直前、見慣れた姿を見かけて、ヴィオレッタは慌てて馬車を止めてもらった。
「エルネスト様?」
「ヴィオレッタ――」
青い瞳がヴィオレッタを見つめる。
顔にはわずかに疲労が滲んでいて、軽く汗もかいている。
「どうされたのですか?」
「間に合うように帰ってきたつもりだったが、君が既に出発したと聞いて――走ってきた」
「走って?!」
「馬車を出すより速いからな」
ミエル・ヴィオレに寄るために少し早めに家を出たことで、こんなことになってしまうなんて。
(なんだかすごく、お疲れのような……)
ヴィオレッタはエルネストをじっと見つめて、聞いてみた。
「……エルネスト様、寝ています?」
「仮眠は取った」
「ちゃんとしっかり寝てください!」
思わず声が大きくなる。
「もういいですから、今日は休んでいてください。わたくしだけで行ってきますから」
「いや、きちんと挨拶をしておきたい」
エルネストは、こうなると頑固だ。
その頑固さに困惑しつつも、嬉しさが込み上げてくる。
「……わかりました。わたくしも、エルネスト様と一緒の方が嬉しいですから」
ヴィオレッタは馬車の内鍵を開けて、エルネストを中に迎え入れる。
隣に座ったエルネストに、そっと寄り添った。
「でも、一番嬉しいのは、エルネスト様が健やかでいてくださることですからね」
「ああ……ありがとう、ヴィオレッタ」
「お礼を言うのはこちらの方です。来てくださってありがとうございます、エルネスト様」
エルネストは微笑むと、ヴィオレッタの腰に腕を回してヴィオレッタを引き寄せる。
そして、ヴィオレッタの頭に顔を寄せて、そのまま浅く眠ってしまった。
(かなりお疲れね……)
短い時間でも、眠っておいてもらった方がいい。
ヴィオレッタも目を閉じて、エルネストの胸に頭を預けた。
◆◆◆
レイブンズ伯爵邸に到着すると、ヴィオレッタはエルネストの手を借りて馬車から降りる。
玄関先で待っていたのは、ヴィオレッタの幼いころからのレイブンズ家の執事――ジェームズだ。
「お待ちしておりました。ヴォルフズ侯爵様、そして侯爵夫人様――」
「元気そうで嬉しいわ、ジェームズ。これはわたくしの大切なものよ。後で出してほしいのだけれど、いいかしら」
「もちろんでございます」
ジェームズに手土産を渡し、ヴィオレッタは久しぶりに実家に足を踏み入れた。
中に入ると、懐かしい香りと見慣れた光景が広がっている。
(生まれ育った実家なのに、一度出てしまえば、こんなにも感じ方が変わるものなのね)
過去の記憶といまの現実が重なり合って、どこか夢のようだ。
そして、自分の生まれ育った場所をエルネストと共に進む感覚は、なんとなくこそばゆいものだった。
不思議な気持ちになって歩いていると、エルネストがそっとヴィオレッタの手を握りしめる。
その手のぬくもりに安心して、ヴィオレッタは微笑みを返した。
居間に案内されると、そこには父と母、そして兄がいた。
「ヴィオ――」
父が声を上げ、母と共に立ち上がる。
「御無沙汰しています、レイブンズ伯爵、夫人」
「お父様、お母様。お久しぶりです」
エルネストの挨拶に続いてヴィオレッタが一礼すると、母は目に涙を浮かべながら、ヴィオレッタをしっかりと抱きしめた。
「ああ、ヴィオちゃん――元気そうでよかったわ」
その声には喜びと感動が溢れていた。
ヴィオレッタは母のあたたかさに包まれながら、しっかりと抱きしめ返した。
「お母様も……」
「ああ……ヴィオちゃん。もっとよく顔を見せて。風邪を引いたりしなかった?」
「大丈夫です、お母様。もう子どもではないのですから――」
「何を言っているの。わたくしたちにとって、あなたはいつまでも大切な娘よ」
愛に溢れた言葉と声に、喜びが笑みとなって零れる。
満たされていくのを感じながらも、ヴィオレッタはずっと気がかりなことがあった。
――一人、足りない。
「ルシアはどうしていますか?」
問うと、両親は気まずそうに顔を見合わせる。
ヴィオレッタは母から離れて、二人の顔を見て再び問いかけた。
「――ルシアに何かあったんですか?」
その時、居間の扉が半開きになる。
「お姉様……」
懐かしい声に顔を向けると、半開きだった扉の向こうからふわりとした人影が現れた。
輝きに満ちた金色の髪、長い睫毛に縁どられた菫色の瞳。
肌は真っ白で、白いを通り越して青いほどで。
「ルシア――」
約二年ぶりに再会した妹は、昔とは少し雰囲気が変わっていた。
溢れんばかりの生気が消えてしまっていて、そして――ほっそりとしていた体形は、少しふくよかになっていた。






