38 最高のパティシエ
「ヴィオレッタお嬢様!」
興奮気味に部屋に入ってきたのは、白い作業服を着た筋骨隆々のパティシエ――マルセルだった。
「久しぶりね、マルセル。でも、もうお嬢様じゃないわよ?」
「し、失礼いたしました……」
小さく縮こまる。
「ふふっ、お店がとっても繁盛しているみたいで嬉しいわ。このフルール・ド・リュクスも、とても美味しかったわ」
「ヴィオレッタ様にそう言っていただけて光栄です。ヴィオレッタ様は私の女神。ヴィオレッタ様なくして、この店の成功はあり得ません」
「いいえ。すべてはあなたの才能と努力――そして筋肉のなせるものよ」
ヴィオレッタはマルセルとの再会と彼の成長を喜ぶ。
マルセルは本当に立派になった。その筋肉も一回り大きくなっている。菓子作りは身体が資本という信念がある彼は、昔から身体を鍛えることに余念がなかった。
特に、クリームを泡立てる右手の上腕二頭筋の成長は素晴らしいものだった。
「えっと……? これは、ど、どういうことですか?」
シエラが戸惑っているような声を上げた。
「この店は、わたくしが経営しているんです。彼はレイブンズ家の元パティシエであり、いまはこの店の店長であるマルセルです」
ヴィオレッタが誇らしげに言うと、シエラは信じられないという表情でわなわなと震え始めた。
「――閣下ずるい! あたくしもヴィオレッタ様と結婚したい!」
「シエラさん?」
シエラの目には真剣な光と涙の粒が浮かんでいた。
「いえ、わかっています。ラブラブなお二人の間には割り込めないということは。でも、でもでもずるい! そりゃあ閣下の借金なんてすぐになくなるでしょうよ!」
「シエラさん落ち着いてください。スイーツ、スイーツを食べましょう。誰か、何か持ってきて」
すぐに賄い用のシュークリームが運ばれてくる。潰れていたり、サイズが小さかったり、クリームがはみ出したりしていて、通常品では出せないものだ。
シエラはえぐえぐ泣きながらシュークリームを食べる。
「いくらでも食べられるぅ……」
「落ち着いてきました?」
「はいぃ」
表情を緩めながらシュークリームを食べ続ける。
ひとまず大丈夫そうだ。
ヴィオレッタは気を取り直し、マルセルと向かい合う。
「マルセル、公爵家からの依頼状を見せてもらってもいいかしら?」
「はい、こちらに」
すぐに依頼書がヴィオレッタに渡される。
パーティの日時と招待客の規模が記されている。
時期は一か月後。
場所は王城の離宮。五十人分のスイーツの用意の依頼だった。
――しかも、スイーツについては完全に任せるというものだ。
(これぞ黄金糖のお披露目にばっちりよ!)
ヴィオレッタは興奮する。これ以上の機会はない。
「いかがなさいますか」
「もちろん、受けるわ。こんな素敵な機会、滅多にないもの。それにアイリーゼ様は大切なお友達。全力で応援して差し上げたいの」
ヴィオレッタはマルセルを見つめる。
「でも、実際にはどう? もちろん無理にとは言わないわ」
現場の判断は大切だ。
いくらヴィオレッタがやりたいといっても、無理なら諦めるしかない。強行して失敗してアイリーゼに恥をかかせ、ミエル・ヴィオレに迷惑をかけてしまうことが一番怖い。
「これだけの準備期間があれば、可能です。少々タイトなスケジュールにはなりますが」
「さすがね」
マルセルがそう言ってくれるのなら、安心して進められる。
「それと、この依頼はあなたの腕が認められてのことよ。おめでとう、マルセル。わたくしもすごく嬉しいわ。ですから、わたくしが関わるのが迷惑なら、遠慮なく言って」
ヴィオレッタが言うと、マルセルは穏やかに、そして誇らしげに微笑んだ。
「この店はヴィオレッタ様の存在があってこそです。私は菓子作りは少々覚えがありますが、商才はありません。ヴィオレッタ様がいらっしゃらなければ、とっくに店を畳んでいたでしょう」
「マルセル……」
「それに、ヴィオレッタ様の力になりたいのです。何なりとお申し付けください」
「ありがとう、マルセル。何かあった時は、わたくしがすべての責任を取るわ」
ヴィオレッタは経営者――最高責任者だ。
「それで、一つだけわがままをお願いしたいのだけれど、これを使ったスイーツをつくってほしいの」
ヴィオレッタはガラスの小瓶をテーブルに置く。
中に入った黄金糖の結晶が、きらきらと輝いていた。
「こちらは――?」
「新しい砂糖――その名も黄金糖よ」
「黄金糖……」
マルセルはガラスの小瓶を手に取り、まずその輝きを目に焼き付けていた。
「中身を確認してもよろしいですか?」
「ええ、もちろんよ」
マルセルは瓶の栓を開けると、まず匂いを嗅ぐ。
そして少量を手のひらの上に載せ、舌の上に置く。
「これは……大変品質のいい砂糖ですね。私たちが普段使用している砂糖とはまた違った奥深さがあります」
「わたくしが旦那様の領地でつくった砂糖よ。ずっとお披露目の機会を探していたの。このパーティは、これ以上ないチャンスになるでしょう。もちろん、無理にとは言わないわ」
ヴィオレッタが言うと、マルセルは誇らしげに微笑んだ。
「ヴィオレッタ様のお力になれるなら、なんだっていたしますよ。しかし、責任重大ですね」
「マルセルなら大丈夫よ。あなたの味覚と技術を信頼しているもの。きっと素晴らしいお菓子になるわ」
「ヴィオレッタ様には何かお考えが?」
「ぼんやりとはあるんだけれど、これだ! ――というものがないのよね。アイリーゼ様がマルセルのクリームを気に入ってくださっているから、クリームを前面に押し出したスイーツにしたいわね」
もっと言うのなら、華やかで、お祝いムードたっぷりで、印象に残るようなものがいい。王子とアイリーゼのための、新時代のスイーツが。
――だが、それが具体的にどのようなものかは、まだ見えてこない。
「素材も、職人の腕も超一流だと思うわ。問題は、どんなお菓子を用意するかよね……」
味も見た目も重要だ。そしてインパクトも。
「何層にも重なったケーキはどうでしょう? それぞれの層に異なるフレーバーを加えて、最上層に黄金糖で作るクラウンを乗せるのです」
「とっても素敵ね!」
「各層に異なる素材を使いましょう。クリーム、スポンジ、ゼリー……そして一番下の層には、少しサクッとしたパイ生地を砕いたものなどを」
「マルセル、それ、素晴らしいわ! 見た目も楽しめるように透明なグラスを器にしましょう。名前は『黄金パフェ』――すべての食感を兼ね備えたパーフェクトなスイーツよ!」
「なんて見事な名前でしょう。ああ、アイデアが溢れてくる……少々お待ちください!」
マルセルがVIPルームから飛び出して十五分後――
彼が持ってきたのは、ワイングラスが二つ。その中には先ほど言っていたように、白いクリームや小さく切られたスポンジ、色鮮やかなソース、ゼリーが何層にも積み重なっている。
――さすがに、黄金糖の飴細工はなかったが。
「まあ、マルセルすごいわ! こんなに早く?」
「余っていた材料を使いましたので。これなら事前に材料を準備し、離宮の厨房で仕上げることができ、時間短縮にもなります」
提供するときの段取りまで考えている。
「さすがの発想ね。早速いただくわ。シエラさんもどうぞ」
「あら♪ よろしいですの? いただきまぁす――」
――二人そろって満面の笑みで、食べる。
シエラは至福の表情で頬を押さえ、瞳をキラキラと輝かせた。
「……ああ……なんてこと……これは、至福の中の至福。これこそが神々のアンブロシア?」
うっとりと呟く。
「とても素晴らしいわ。いつまでも飽きずに食べられて、ずっとこの幸せに浸っていたくなるわね」
「恐縮です。では、この方向性で進めますか?」
問われ、ヴィオレッタは考えた。
――確かに、このスイーツは完璧だ。パーフェクトだ。多くの人に幸せをもたらすだろう。
(でも……本当にこれでいいのかしら……もっと違うアプローチもあるんじゃないかしら)
ヴィオレッタが目指すのは、完璧以上のものであるべきだ。
いつまでも心に残り、ずっと忘れられないような。
そんなスイーツにしたい。
――商売はスピード。仕事は疾風隼よりも疾く。
わかっていても、ここはもう少し慎重になりたい。
「少しだけ考える時間を頂戴。ひとまず、黄金糖を使ったクリームと、それに合う生地を探究してもらえるかしら」
「わかりました。腕が鳴りますね」
「それから、マルセル。ルシアは最近ここに来ている?」
「いえ……随分長いことお見えになられていません」
「そう……」
――妹のルシアは、昔この店によく来ていた。
新商品開発の試食会でも、よく意見を聞かせてもらった。
(何を食べても美味しいと言ってくれていたわね)
その笑顔を思い出して、笑みが零れる。
――だが、ヴィオレッタの噂の件があってからは、一緒に行動することはなくなった。
「ねえ、マルセル。別件で、もうひとつお願いしていいかしら」
「何なりとお申し付けください」
「明日中に、わたくしの持ってきた材料とレシピで、ケーキを作ってほしいの」
ヴィオレッタは部屋から出て馬車に戻り、マグノリア商会から引き取ってきた積荷をマルセルに渡す。
そこに入っているのは、ヴォルフズ領のリンゴと黄金糖。
そして、テオにまとめてもらったゴールデンルビーのレシピだった。






