36 特別個室
――ミエル・ヴィオレ内には特別な個室がある。
誰にも知られず来店したいという貴族や、友人同士でのお茶会や、デートで使ってもらう目的で用意している。昔から割と稼働率がいいようだ。
店内に入ると、正装姿のウエイターが迎えてくれる。その対応は上級使用人のように完璧だ。
静かな通路を通って、特別室に案内される。
そこは屋敷の応接室を思わせる、深い赤を基調とした落ち着いた内装の部屋だ。お客様がくつろげるようにと、あらゆるところに細心の注意が払われている。
窓は二重窓で、外の音が入らないようになっていて、壁とドアも防音仕様。床には厚手のカーペットが敷かれている。
アイリーゼの侍女と護衛たちと同じように、シエラも気配を消して壁際に立つ。何があってもヴィオレッタを守れる位置に。
凛としたその姿を見ると、エルネストが彼女を「信頼できる部下」と言い、ヴィオレッタの護衛を任せたことに納得してしまう。
ヴィオレッタも仕事の邪魔をしないよう、彼女の行動を尊重した。
「ふふっ、なんだか学生時代に戻ったかのようね」
「はい、とても懐かしいです」
アイリーゼはソファに座り、嬉しそうに笑う。
ヴィオレッタも、昔、こうしてこの部屋で友人たちとお茶をしたことを思い出す。
「ケーキは後から来る御方のためにもう少し待ってもらってもいいかしら? 先に紅茶とエディブルフラワーをいただきましょう」
そして、テーブルに紅茶とスミレの砂糖漬けが運ばれてくる。
ティーカップに入ったスミレの砂糖漬けの上から紅茶が注がれると、甘く華やかな香りが部屋に広がる。
(アイリーゼ様との初めてのお茶会で食べたのも、このスミレの砂糖漬けだったわね)
――とても、懐かしい。
甘い香りの思い出に浸っていると、アイリーゼの表情がどこか元気がないように見えた。
心ここにあらずといった様子で、無意識にか、小さなため息が零れていた。
それを聞いたとき、ヴィオレッタは意を決して口を開いた。
「アイリーゼ様、どうされました? もしかして何か悩み事でも?」
「ヴィオレッタさん……いえ、たいしたことではないの。わたくしのことより、ヴィオレッタさんのお話を聞きたいわ。ヴォルフズ領では、普段はどんなことをされているの?」
「もちろん、農作業です」
「まあ!」
「領主夫人としての仕事――領地運営にかかわることもしていますが、王都から遠く離れた地ですから、お客様もいらっしゃらないので、毎日自由にさせていただいています」
ヴィオレッタは包み隠さず話す。
話すたび、アイリーゼの顔に明るさが戻ってくる。
「そうなのね。楽しそうだわ」
「ええ、毎日とても楽しいです」
「ふふっ……ヴィオレッタさんは、昔から変わらず――いえ、昔よりずっとすごいのね」
話しながら、ヴィオレッタは気づいた。
アイリーゼは来年、第一王子アルフォンスが立太子されたのちに結婚式を挙げる。事実上の王太子妃となる。
アイリーゼは婚約者である王子をずっと恋い慕っていた。だから、嬉しいだろうが不安もあるだろう。王太子妃――いずれ王妃になる彼女の悩みや重責は、ヴィオレッタには想像するしかできない。
(結婚前の不安……わたくしにもあったわ。アイリーゼ様の気持ちが少しはわかるはずなのに、とっても参考にならない話をしてしまったわ!)
だからと言って参考にできるような話もできない。
あまりにも立場と境遇が違う。結婚が決まった経緯も、結婚式も、その後の生活も。
(わたくしの不安は、主に嫁ぎ先で農業ができるかだったもの……!)
それでも何か参考になるような話がないかと考えていると、アイリーゼが話し始めた。
「女王陛下も、植物の世話がお好きと聞いたわ。なんでも、王城の中には、とても素敵な温室があるのだとか。そこには世界各地の植物があるらしいの」
「そ、そうなんですか? ぜひ、見てみたいです!」
思わず前のめりになると、アイリーゼはおかしそうに微笑む。
「陛下とヴィオレッタさんは、お話が合うかもしれないわね。お願いしたら見せてくださるかもしれないわ」
「そんな、恐れ多いです。陛下にお願いだなんて」
「そうかしら? でも、おふたりの結婚は、陛下のお引き合わせなのでしょう? 陛下はヴィオレッタさんを気に入っていらっしゃると思うわ」
ヴィオレッタは驚きで言葉を失う。
「あら? 違うの? ヴォルフズ侯爵がヴィオレッタさんに惹かれていたのを知った陛下が、おふたりが結ばれるように取り計らったと聞いたのだけれど……」
――そんな話、聞いたこともない。
確かに、エルネストから結婚以前から惹かれていたと聞いたことはあるけれども。
(い、いえ。そういう話なら、お父様が言っていたはず)
女王の取り計らいがあったとしたら、ヴィオレッタに何も言わずに進めていたとは思えない。
――伯爵家の当主である父が、どうやってヴィオレッタとエルネストとの婚姻をまとめあげたのか、不思議ではあったけれども、いままであまり気にしてこなかった。
父は、名門侯爵家との繋がりを作っておきたかった。そして、悪名高い娘をどこかに嫁がせたかった。
エルネストは、領地を守るために莫大な持参金を必要としていた。
二人の利害関係が一致して、この結婚がまとまったのだと思っていた。
(そこに、女王陛下の取り計らいがあったなんてあるのかしら……もしあったら、お父様も断れないだろうけれど)
――しかし、エルネストが――ヴォルフズ侯爵は、女王からの信頼が厚いとはいえ。
女王が結婚にまで口を出すだろうか。
それにあの頃ヴィオレッタは「ふしだらな女」として悪名を馳せていた。
信頼している臣下の結婚相手にそんな女を選ぶなんて、ありえない。
「そういう噂もあるのですね。でもきっと、陛下のご意向は関係ないかと思います」
それに、たとえ、どんな理由での結婚であったとしても。
ヴィオレッタは幸せだった。
これ以上の幸せはないと思う。しかもその幸せは、日々大きくなっていく。この日々が、何より大切で、愛しかった。
「――遅れてすまない、リーゼ。ああ、なんて華やかな空間だ」
部屋の扉が開き、見知らぬ男性が入ってきてヴィオレッタは驚く。
突然の来訪者は、若い男性だった。光の当たり具合で金色に輝くブラウンの髪に、理知的な深い緑色の瞳。
口元には紳士的な笑み、長身で姿勢が良く、自然と目を引く風格を帯びていた。顔立ちは精巧に彫られた彫刻のように整っている。
そして一瞬、煙草のような匂いがした。
「サディアス様、遅いですよ」
「すまない、リーゼ。少し道が混んでいてね」
びっくりしているヴィオレッタの前で、アイリーゼが優しくたしなめる。サディアスと呼ばれた男性が余裕に溢れた姿で軽く謝罪した。
(も、もしかしてこの方が、アイリーゼ様のお連れの方? ――てっきり、女性が来ると思っていたのに)
まさか男性だったとは。
しかも、とても仲が良さそうな雰囲気が漂っている。
「ヴィオレッタさん、紹介するわ。カルドネア公爵の跡継ぎであるサディアス様よ。わたくしの従兄で、本当の兄妹のように育ったの」
アイリーゼはそうヴィオレッタに紹介し、そして今度はサディアスの方を向き直る。
「こちらはヴォルフズ侯爵夫人のヴィオレッタさんよ。偶然お店の前で再会したの」
「初めてお目にかかります、ヴォルフズ侯爵夫人。お会いできて光栄です。噂通り、春の女神のような方だ」






