34 マグノリア商会への挨拶
「ショッピングではなく、商会の本部に御用ですか? 侯爵夫人様はマグノリア商会と懇意にされているのですね」
「はい。昔からずっと、いいお付き合いをさせていただいています」
ヴィオレッタがシエラと共に侯爵家の馬車で向かったのは、王都商業地区にあるマグノリア商会の本部だった。
「なるほど……えーっと、色々とややこしいので、あたくしのことはただの護衛として扱ってくださいね」
「えっ、そういうわけには――」
「いいですから。あたくしは仕事として侯爵夫人に同行しているだけの、護衛ですので」
強く言われれば、ヴィオレッタとしては受け入れるほかない。
そうしているうちに、商業地区に入り、マグノリア商会に到着する。石造りの建物は堂々たる構えをしていて、マグノリア商会の繁栄を象徴しているようだった。
商会の紋章が飾られたアーチ形の入口をくぐろうとすると、扉が内側から開かれる。
中から出てきたのは、副会長のディーンだった。
「ようこそおいでくださいました、ヴィオレッタ様」
副会長直々に応接室に案内される。
そこは、圧倒されるような豪華さを誇る空間だった。
マグノリアの花をモチーフにしたシャンデリアに、緻密な刺繍が施されたソファ。
壁には商売の神メルキオールの像が据えられている。
調度品のセンスの良さも、その豪華さも、まるで有力貴族の邸宅だ。
提供された紅茶は最高級の茶葉が使われており、豊かな香りと味わいを持っていた。
そう時間を置かず、商会の長であるベティ・マグノリアがやってくる。
赤い髪が印象的な彼女は、一代でこれだけの財を築き上げた女傑だ。
「お久しぶりですね、ヴィオレッタお嬢様――いえ、いまはヴォルフズ侯爵夫人でしたね。あなたのファンはうちにも多いので、ご結婚されたときは大騒ぎでしたよ」
「お会いできて嬉しいです、会長さん。ずっと手紙のやり取りだけでしたものね」
軽く握手を交わし、向かい合って座る。
ディーンはマグノリアの後ろに控えるように立った。
「私自身がヴォルフズ領に行けたらいいんですが、色々と多忙になってしまいまして。新しい商品を探して西へ東へ放浪していた日々が懐かしいです」
マグノリアは懐かしそうに言う。
「今日にでも、会長職を譲ってしまいたいくらいですね」
ちらりと副会長のディーンを見る。
ディーンは口元に小さく笑みを浮かべるだけで、何も言わなかった。
「会長さんは現場に出ていたいタイプなのですね。わたくしもです」
「ええ。現場には思いがけない出会いがあったりしますから。ヴィオレッタ様との出会いもそうでした。あなたに教えていただいた驚きと喜びは、いまも色褪せていません」
マグノリアは上機嫌だった。穏やかな空気が部屋に満ちる。
「しかも、あなたは会うたびに、新しい驚きを与えてくださります」
マグノリアは小瓶をコトリとテーブルに置く。
中に入っているのは、以前ヴィオレッタがディーンに託した黄金糖のサンプルだ。
「ヴィオレッタ様は、これで世界を取るおつもりですか?」
声はわずかに興奮を含み、目は爛々と輝いている。
「はい。いずれは王国の一般家庭にまで普及させたいと思っています」
「なんと」
ヴィオレッタはテーブルに置かれた紅茶を見つめた。
「たくさん働いた後に、たっぷりの黄金糖とミルクが入った紅茶を飲んで、疲れを吹き飛ばす……そんな習慣ができてほしいんです」
「それはまた、大きい商売になりそうですねぇ」
「はい。ですから、投資してください」
ヴィオレッタはマグノリアをまっすぐに見つめ、そっと胸に手を当てる。
「黄金糖に――ヴォルフズ領に――そして、わたくしに」
マグノリアは即答はしなかった。
静かに黄金糖の入った小瓶を眺める。
ヴィオレッタも急かさなかった。
「お披露目はどうするつもりです?」
「それには悩んでいるんですよね。侯爵家がパーティを開催して大々的に振る舞うとかでもいいのですが、わたくしは社交に不慣れで、侯爵様はお忙しい身。主宰なんてとてもとても」
人脈もノウハウもない。
招けるのは友人たちぐらい。大々的なお披露目にはならない。
あるとすれば、『カフェ・ド・ミエル・ヴィオレ』のお得意様リストくらいだ。
「ですので、急ぐつもりはありませんが――この度の王都滞在中には、何かを起こそうと思っています」
正直に答えると、マグノリアはくすりと笑う。
「あなたのその目、大好きですよ。人を惹きつける瞳。竜に守られた黄金のよう」
その目の輝きはまるで竜のようだ。
「仕事は疾風隼よりも疾く――のんびりしていては獲物を逃がします。いまから契約書を作りましょう。細かいところは後で詰めていくとして――黄金糖の流通の大部分は、私どもに任せていただきたい」
マグノリアは力強く笑う。
「私の運命ごと、ヴィオレッタ様に投資しましょう」
「やっぱり、マグノリア商会は最高のパートナーです」
――商談成立。あとは細かい条件を詰めていくだけ。
安堵するヴィオレッタの隣で、シエラが焦ったようにヴィオレッタの方へ身を乗り出す。
「――ちょ、ちょっと、侯爵夫人。いいのですか? そんなに簡単に契約して。契約書は命より重いのですよ? どんな高位貴族であっても、王であっても縛られてしまうのですよ?」
その忠告は真にヴィオレッタとヴォルフズ領を案じたものだ。
エルネストが彼女を信頼のおける部下と言ったのもわかる。
それでもヴィオレッタは迷わない。
「わたくしはマグノリア商会を信頼しています。命を懸けてくださるのなら、こちらもそれ相応の覚悟でお応えしないと失礼というもの」
この話はマグノリア商会にとっても賭けとなる。
リスクはゼロではない。あまり知られていない農作物と新商品を扱う以上避けられないことだ。
それに思い切って投資しろというヴィオレッタの方が、無茶を言っている。
それに応えてもらえる以上、誠意と信頼を示さなければならない。
マグノリアは悠然と微笑み、シエラを見つめる。
「商売の邪魔はしないでくださいね、ウルペス家のご令嬢。そちらが当方にどれぐらいツケがあるかご存じでしょう?」
「うぐぎゅ……」
シエラは苦しそうに呻き声を漏らし、肩を落とした。
そうしているうちに、ディーンが仮の契約書を持ってくる。
あまりにも迅速だ。あらかじめ用意されていたのだろう。
既にマグノリアのサインが入っていた。
ペンを借りたヴィオレッタは、内容を確認して、サインする。
「あーん、閣下に怒られるぅ……」
「大丈夫です。エルネスト様は、わたくしの自由にしていいと仰ってくれていますから」
笑って言うと、マグノリアも苦笑する。
「愛されていますね、侯爵夫人。とはいえ、こちらとしても賭けです。失敗すれば王都から看板を下ろすことになるでしょう」
「もしそうなったら、また一緒に一から始めましょうね」
「それもとても楽しそうですねぇ」
なごやかな笑い声が応接室に響く。
マグノリアが立ち上がり、ヴィオレッタも立ち上がる。
お互いに差し伸べた手を握り、固い握手を交わす。
「ではこれより、商会はヴィオレッタ様を全面的に支援いたします」
「ありがとうございます。信頼に応えられるよう、頑張りますわ」
「楽しみにしていますよ。ところで、お預かりしている荷はどうします?」
「本日引き取らせていただこうと思います」
「わかりました。積み込みさせていただきましょう」
マグノリアの目が、穏やかに細められる。
「これからの未来、私個人としても、とても楽しみにしていますよ。ヴィオレッタ様」






