32 春の農作業
本格的な春が訪れ、小麦の種蒔きが一斉に始まる。
四輪作のため、計画的に農地によって育てる作物を変えていく。
全体の農地を四つに分け、一か所の農地で小麦、クローバー、甘カブ、ジャガイモを順番に育てていくことになる。
いままで小麦一色で、あと細々とジャガイモを植えていたため、小麦の作付面積は減ることになるが、収穫量は増えて品質も上がっていくはずで、減った分をジャガイモで補えるのでカロリー的には問題ないはずだ。
クローバーは牧草にも土を豊かにする肥料にもなり、花からはハチミツが採取できる。
――そして、甘カブ。
黄金糖の原料になるこの作物は、ヴォルフズ領の未来を担う最重要の作物だ。葉は家畜用飼料にもなるし、大地に還すと緑肥にもなる。
どの農作物も、生きる上で欠かすことのできない大切なものたちだ。
それらの種を植える春は、最も重要な季節だった。
甘カブの種蒔きが終わり、ぽつぽつと芽が出始めている畑を眺めながら、ヴィオレッタは未来に思いを馳せた。
(トムさんには本当にお世話になってるわ。今度またいいお酒を贈りましょう)
――自宅の畑で甘カブを作っていたトムと出会えたことで、黄金糖は誕生した。いまは甘カブの栽培顧問となってくれている彼は、栽培ノウハウを惜しみなく伝えてくれている。
どれだけ感謝してもしきれない。
(それにしても……畑に直播はやっぱり場所によって不安定ね)
芽がよく出ている場所、よく育っている場所、まったく出ていない場所――様々だ。
これは甘カブに限らずすべての作物に言えることだが。
(――種が、もったいないわ)
甘カブは特に種が貴重だ。
これでは無駄になってしまっている。
(苗まで育ててから植えていく……? でも、根菜って移植がうまくいかないのよね。根が大事だし……ポット栽培も試してみたいんだけれど、いいポットの材料がないのよね)
――そもそも、ポット栽培でも同じに思える。
育苗しているうちに伸びた根が底に当たってしまえば、うまく大きくならないだろう。
根菜は土の中に異物や石があれば、簡単に曲がってしまう。
(……なら、底のないポットはどうかしら)
――自分でも無茶なことを考えている。
底がなければ土が溜まらない――だが本当にそうだろうか。
育苗中に脇の根が生えていけば、土を固定してくれるのではないだろうか。
「……計画、実行、評価、改善!」
――試してみなければ何も始まらない。
ヴィオレッタは早速甘カブの予備の種を少量預かり、自己流甘カブ育苗ポットの開発に臨んだ。
まず、麻紙を用意して糊付けして筒をつくる。底のない単なる筒だ。
厚さの違う麻紙を何種類か集めて、同じように筒をつくる。それを木箱の中に並べ、栄養たっぷりの土を入れていく。
しっかりと水やりをしてから、土に甘カブの種をひとつずつ慎重に置いていく。
種が隠れるくらいに軽く土をかけ、その後は、小麦の藁をそっと上にかぶせる。
――二日後に、最初の芽が出た。
四日経てばほとんどの芽が出そろった。もちろん発芽しなかったものもある。
ヴィオレッタは土が乾かないように水やりを続けながら、苗が育つのをひたすら待った。
一日に何度も見に行き、その経過を観察する。
(ああ……植物ってなんて愛しいのかしら……それにしても、紙筒の状態も興味深いわ)
すでにぐずぐずに溶けかけているもの。いまだしっかりとした状態のもの。その中間のもの。
ある程度苗が育って土が詰まってくると、筒を持ち上げても土が落ちなくなってきた。
「この状態なら、問題なく植えられそうね」
そうしてヴィオレッタは満を持して、良く晴れた日に甘カブ栽培顧問であるトムに苗を見せた。
「――トムさん、これを見てもらえますか?」
「こ……これは甘カブの苗か……? この筒はどういうことかね」
「麻紙の筒で甘カブの苗を育ててみたんです。底がないものですから、このまま植え付けできるはずです。紙はそのまま土に溶けていくはずですから、育つのに問題はないと思います」
トムはとても興味深そうに苗を見つめる。
「こんな発想があるなんてのう……さすが奥方様……野菜のことを良く知っておいでだ」
「とりあえず、庭に植えて様子を見てみます。何事も挑戦ですから。これがうまくいけば、種も時間も栽培スペースも無駄になりませんもの!」
日々の農作業の指示を出す合間に、ヴィオレッタは侯爵家の庭に作った自家用畑にジャガイモを植えた。
他の種芋と同じように、ちゃんと植える前の一か月間日光を当て、発芽を促した。こうすることで丈夫な芽が出て、良質なジャガイモが収穫できるようになる。
「――イモを植えるんですか? 奥様なら、もっと変わったものを植えると思ってたんですが」
庭の畑への種芋の植え付けが終わり、綺麗に調えられた畝を見て、料理人のテオが言う。
「ええ。この地のジャガイモはとても美味しいもの。自家用でもたくさん育てておきたいわ」
「イモなんてどこで食っても同じでしょ」
「全然違うわ! この地のジャガイモはわたくしにとってのベストジャガイモよ。この地のジャガイモのフライの味を、みんなに知ってもらいたいわ」
甘みが強くて、口の中でホクホクとほどけるあの味は、この地のジャガイモでしか得られない。
「あっという間に育つところも、長期間保存できるところも大好きよ。何度も飢饉を救ってくれたというし、夢みたいな作物よね」
どの家庭でも庭にスペースがあったら優先して育ててもらいたい作物だ。
「そんなにいいもんですかね。で、そちらのバケツでは何を?」
「これは、お米を栽培しようとしているのだけれど……なかなかうまく育たないのよね」
ヴィオレッタは庭の隅でバケツで稲作実験をしている。
去年は色々と忙しくて手をかけられそうになかったので、栽培実験を断念した。
今年はチャレンジしたのだが、芽は出たものの、ひょろひょろとして頼りなく、育つスピードもゆっくりだ。
「王都やレイブンズ領ではうまくいったのに……やっぱり、気温が足りないのかしら」
気候が違えば作物の育ちも違う。合わないものを無理やり育てようとしてもうまくいかない。
「いつかこの地でも育つ稲が品種改良でできたらいいのだけれど」
道のりは遠そうだ。
「そりゃまた、夢みたいな話ですね。んで、昼に食べたいものはありますか」
「そうねぇ……今日はライスヌードルがいいわ」
「またあれですか。お好きですねぇ」
ライスヌードルは、ヴィオレッタとテオが力を合わせて製作した、新しい米料理だ。レイブンズ領で穫れた米を砕き、ヴォルフズ領のジャガイモのでんぷんと一緒に練って団子状にしてから、薄く延ばして切ったもの。
いわば米のパスタだ。
鶏油を入れたスープと合わせて食べると大変美味であり、スープが油膜で覆われているため冷めにくく、最後まで美味しく食べられる。
箸というカトラリーで食べると更に美味しい。
「んー、今日のライスヌードルも美味しいわ。テオ、やっぱりあなた天才ね」
昼食を摂りながら、ヴィオレッタはテオの腕前を絶賛する。
今日も美食と幸福が止まらない。
「わたくし、なんて幸せなのかしら……」
◆◆◆
春の日々は怒涛のように過ぎていく。毎日へとへとになって自室に戻った後は、今日の天気と農作業を記録する。
そしてその合間に、ヴィオレッタは手紙を書く。
主に、エルネストに宛てた手紙を。
重要な報告は執事のセバスチャンに任せてある。ヴィオレッタは思うままに、話したいことを書く。
(今回も、すごい量になっちゃった……)
忙しい日々の中でも、毎日彼のことを考えている。何かあれば手紙に書こうと思うから、いざ実際に手紙を書くと、封筒が分厚くなるくらい書いてしまう。
書き上がった手紙は、セバスチャンに領の報告書と共に送ってもらう。
(エルネスト様、呆れていないかしら)
負担になるだろうから返事はいらないと書いてある。
だが、定期的に返事が来る。
便箋一枚のとても短い内容だけれど、胸がいっぱいになってしまう。
エルネストからの手紙はすべて、ヴィオレッタの宝物となった。
(――さて、今日の他の手紙は……)
銀盆に載った手紙の確認をする。
「この紋章……アイリーゼ様からだわ」
封筒の印にリーヴァンテ公爵家の百合の紋章が刻まれていた。
早速開封して読む。オスカーが無事に手紙を届けてくれたらしい。最初はその手紙への礼から始まっていた。
手紙のメインは、公爵家がパーティを主宰することになりそうで緊張しているという内容だった。微笑ましく思いながら読んでいると、ヴィオレッタとエルネストを、そのパーティに是非招待したいと書かれていた。
「パーティ……」
社交界は得意ではない。
だが、公爵家が主宰するパーティに、夫婦ともども招待されたとなれば、参加しないわけにはいかない。
「ああ、どうしましょう。ドレスは――そうだ、ドレスはエルネスト様の馬車の荷物の中に何着か入れてあるわ。宝飾品も。足りないものは向こうで用意するか、実家の方を頼るとして――」
そうすれば、服装に関しては問題なく参加できる。
離宮でのパーティに、エルネストのエスコートで参加して、一緒に踊ることができたら――想像するだけで、胸がどきどきする。
(きっと、煌びやかな世界なのでしょうね……)
ヴィオレッタは早速返事を書いた。そしてその日から、メイドのアニーにも協力を頼み、いままで以上に髪と肌の手入れに力を入れた。
――そうして、すべての種まきが終わり、リンゴの花が咲く頃。
「――よし、そろそろ王都へ行きましょう! セバスチャン、わたくしは明日王都に発つわ!」
夕食の席で、セバスチャンに宣言する。
「ええ、旦那様も喜ばれるでしょう」
翌朝は、飛翔日和の天気だった。騎乗服を着たヴィオレッタは、使用人たちの前で自らクロに鞍を取り付ける。
出発の準備はばっちりだ。自分の食事の準備も済んでいるし、旅に必要な道具もまとめてある。
ヴォルフズ領から王都までは、黒鋼鴉の最高スピードでも半日かかる。
太陽のあるうちに移動しきれない場合、途中で野宿か、街で宿を取ることになる。
ヴィオレッタは主に野宿で過ごしていた。クロと一緒なら、怖いものは何もない。寒い夜もあたたかく過ごせる。
「奥様、くれぐれもお気をつけて」
見送りの使用人を代表して、セバスチャンが言う。
「ええ。皆、不在の間のことはよろしくね」
ヴィオレッタはクロのつぶらな瞳を見つめ、笑いかけた。
鐙に足をかけ、颯爽と背に乗る。
「さあ、クロ。行きましょう!」
クロが軽やかに走り出す。
スピードが最高潮に達した瞬間、力強く地面を蹴り出す。
そうして、ヴィオレッタは空を飛ぶ。黒鋼鴉の魔力に包まれ、風となって大空に飛び立つ。
あっという間に高度が上がり、侯爵家が小さくなっていく。手を振る使用人たちに手を振り返し、前を見る。
どこまでも広がる愛する大地を。空を。






