30 オルゴールの音色
――厳しい寒さの中でも、春の気配を感じ始めた日の午後。ヴィオレッタは執務室の棚の隅で、隠れるようにひっそりと佇んでいた年代物の小箱を発見した。
(とても綺麗な箱……何かしら、これ)
心が引き寄せられ、思わず手を取る。
「エルネスト様、こちらは何ですか?」
ソファに座って書類を読んでいるエルネストに聞いてみると、すぐに立ち上がってヴィオレッタの隣に来る。
「ああ……それはオルゴールだ。こんなところにあったのか」
「オルゴール? 素敵。動かしてみてもいいですか?」
「構わない。ただ動くかどうか……」
木の蓋を開けてみると、金属製の精巧な作りの仕掛けが中に詰まっていた。
ゼンマイを巻いてみると、金属が奏でる澄んだ音が流れ始める。美しい音色で楽しげな音楽が奏でられる。
「なんて綺麗な音……この音楽、なんだか懐かしいです」
「舞踏会でよく演奏される曲だ。昔はこれでダンスの練習をしたものだ」
「まあ。確かにその曲ですね。それではエルネスト様、いまからダンスの練習をしませんか? ちょうど仕事が一段落したところですし」
身体を動かすのも、いい気分転換になるだろう。そう思って提案する。
「わたくし、ダンスがあまり得意ではなくて……王都でパーティに参加する機会があるかもしれませんし、少しでもエルネスト様と踊るのに慣れていたいのです」
昔から練習はしていたが、実際の経験が少ないのでダンスには自信がない。
自分が恥をかくだけならいいが、相手に恥をかかせたくない。
夫であるエルネストは侯爵なのだ。パートナーがダンスが不得手だなんて恥ずかしい。
だからせめて夫とのダンスには慣れておきたい。
――もちろん、パーティに参加してもダンスはしないという選択もある。
だがその場合、エルネストのダンスパートナーを誰かに譲ることになるかもしれない。
それは、嫌だ。
(わたくしはエルネスト様の妻なのだから、一緒に踊る権利があるもの)
そのためにも、パートナーとのダンスには慣れておかないとならない。
「わかった」
優しい響きを含む声と眼差しに頷き、ヴィオレッタはオルゴールのゼンマイをいっぱいまで回した。澄んだ音楽が流れる中、向かい合って手を取り、身体を寄せて踊り始める。
最初は少し硬くてリズムも合わなかったが、次第にお互いの動きに慣れて楽しくなってくる。
リードされるままにステップを踏み、くるりとターンをして。
そうしているうちに曲が終わり、少し悲しげな余韻が響く。
ヴィオレッタが微笑むと、エルネストは少し不思議そうな顔をする。
「どうした、ヴィオレッタ」
「一年目の冬は、やりたいことをしていたらあっという間に過ぎていきましたが……今年はエルネスト様とずっと一緒にいられて、楽しくて仕方がありません」
すぐ近くにある青い瞳をじっと見上げる。
「春が来るのは楽しみですが、離れ離れになるのは、やはり少しだけ寂しいですね」
抱き着くと、優しく抱き返される。ヴィオレッタは静かに目を閉じる。体温と匂いが心地よかった。
「ヴィオレッタ――やはり共に王都へ行こう」
「いえ、それは結構です」
きっぱりと断ると、エルネストの落胆が伝わってくる。
誘ってもらえるのは嬉しいが、実際問題、馬車の旅は時間がかかる。
それに何より、春から初夏にかけては農作業でとても忙しい。この時期の頑張りで収穫が決まると言っても過言ではない。そんな大事な時期に、この地を離れるわけにはいかない。
「エルネスト様、もう一回ダンスをお願いできますか?」
「ああ、何度でも」
今度はエルネストがゼンマイを巻く。
その手付きは繊細で、眼差しは懐かしさに滲んでいた。
「このオルゴールは母の形見なんだ」
「まあ……」
「形見のものはほとんど手放してしまったが、残っていてよかった。こうしてまた思い出を重ねていける」
ヴォルフズ侯爵家の先祖代々の家財は、困窮時代にほとんど売り払われていた。その余波でいまも屋敷には物が少ない。
鉱山の権利などは買い戻せたが、思い出の品々は戻ってくることはない。
この精緻なオルゴールも貴重な品だ。見つかっていれば高値で売られていたことだろう。
そうならなくてよかったと、心から思う。
「はい、エルネスト様。これから一緒に、たくさんの思い出をつくっていきましょうね」
◆◆◆
そうして穏やかに冬の日々が過ぎ、雪解けと共に春が訪れる。
エルネストの休暇が終わり、いよいよ出立の日がやってくる。
見送りのために玄関を出たヴィオレッタは、アンバーの姿を見つけた。
「あら、今回はアンバーも行くの?」
出発準備万端のアンバーに声をかけると、アンバーは嬉しそうに尻尾を振った。
アンバーは、ヴィオレッタに一番懐いてくれている金色の毛並みの犬で、貴族学園でヴィオレッタとエルネストを繋いでくれた犬だ。
「エルネスト様をよろしくね。また王都で会いましょうね」
ヴィオレッタはアンバーの頭をいっぱい撫でる。
そうしていると、エルネストがやってくる。
どちらからともなく、ごく自然に抱擁を交わす。
「ヴィオレッタ。くれぐれも気をつけてくれ。君に何かあったら私は――」
「エルネスト様、大丈夫ですわ。わたくしにはクロがついてくれていますから」
ヴィオレッタの黒鋼鴉のクロは、幼いときからいつもヴィオレッタと共にいて、守ってくれて来た存在だ。大切な友人であり、頼れる騎士であり、ヴィオレッタにとっての自由の翼だ。
「ですから、今生の別れみたいな顔をしないでください。またすぐに会えますから」
農作業が終わったら、クロに乗って単独で王都に行く予定になっている。
結婚前に何度も飛んだ、慣れた空路だ。不安なことは一つもない。
顔を上げ、頬にそっと唇を寄せる。
「お気をつけて。いってらっしゃいませ」
「ああ」
エルネストからも頬に唇が寄せられる。くすぐったい感触が嬉しかった。
そして、自然と唇を重ねる。
秋からこの日まで、ほとんどずっと一緒にいた。
半身が離れる寂しさはどうしようもない。
名残惜しさを感じながら身体を離し、エルネストたちの出発を見守る。
ヴィオレッタは馬車の一団が見えなくなるまで、その場所で見送った。






