29 冬の森
日々、冬が深くなる。
そして冬には冬の楽しみがある。
――今日ヴィオレッタは、エルネストと共に、以前から約束していた狩りに行く。
メイドのアニーの手で防寒具を身に着ける。
冷たい風を防ぐ厚手の外套、その下には羊毛の服を何枚も重ね着する。更に、帽子をかぶって髪を中に入れ、首元には毛皮の襟巻を付ける。
出発直前、ヴィオレッタは料理人のテオに宣言する。
「期待していて。今日は大物を獲ってくるわ」
テオはあまり期待してなさそうに笑った。
「怪我だけはしないでくださいよ。旦那様がいらっしゃるから大丈夫だと思いますけど」
「もちろんよ。クロとわたくしのコンビネーションで、エルネスト様にだって勝ってみせるわ」
「マジで怪我だけはしないでくださいよ」
外に出ると、冬の空気が頬に触れる。エルネストと従者たち、そして猟犬たちは既に準備が終わっていた。
「銃ではなく、弓を使うのですね」
「ああ。銃はいまいち信用できないからな。暴発したら大変だ」
狩場の森の近くまでは馬で移動することになっている。雪が静かに舞い降りる中、ヴィオレッタはクロに乗って歩いて雪道を進む。
寒さが身に染みるが、ヴィオレッタの心は熱く、期待に胸を膨らませていた。それはクロも同じようで、足取りが弾んでいる。
目的地に到着すると、エルネストが馬から降りる。
そして森の境界に立ち、一瞬静かに立ち止まった。まるで、古い友人に挨拶をするかのように。
ヴィオレッタはその姿に胸を打たれ、クロから降りてエルネストに倣って森とその住人たちに短い祈りを捧げた。
いよいよ森に入ろうとしたところで、森の奥から銀の毛並みの狼たちがやってくる。そしてエルネストの周りに集まり、当然のようにリーダーと仰いで付き従う。どこか誇らしげな表情で。
(わ、わたくし、本当に狩りでエルネスト様に勝てるのかしら……?)
生粋の狩人たち相手に、とても勝てる気がしない。
(いいえ、わたくしにはクロがいるわ!)
クロを見ると、円らな瞳が不思議そうにヴィオレッタを映した。こちらも生来の狩人だ。負ける要素がない。
(不安材料と言えば、パートナーがわたくしなことだけ! あら? なんだか致命的ではないかしら?)
少しだけ不安になってくる。せめてエルネストとクロの邪魔だけはしないようにしようと思う。
「ヴィオレッタ、大丈夫か? ここで待っていてもらってもいいんだが――」
「だ、大丈夫です。行けます」
「そうか。辛くなったらいつでも言ってくれ。君の無事が第一だ」
――そして、森に足を踏み入れる。その瞬間、まるで時間が止まったかのような静寂に包まれる。
新雪の上を歩く音と、わずかに上がる呼吸だけが響く。
ヴィオレッタはクロと共にエルネストの後ろを歩き、森の奥深くへ進んでいった。
しばらく進むと、雪の上に動物の足跡を発見する。
「蹄が二つ、鹿の足跡だ。まだ新しいな」
エルネストが言う。
その足跡をたどるようにして進むと、一頭の鹿を発見する。鹿は静かに樹皮を食べており、まだこちらの存在に気づいていないようだった。
「行け」
エルネストの潜められた鋭い一声で、狼や犬たちが動き出した。
狼と犬たちは抜群のチームワークで逃げようとした鹿を取り囲み、逃げる方向を失わせる。
緊張が走ったその一瞬、エルネストが一息に矢を放つ。矢は風を切り、鹿に向かって直線を描く。正確無比な一撃が鹿の身体を貫通した。
そして、静かに倒れる。
「お見事です!」
思わず手を叩くと、分厚い手袋がポフポフと鳴る。
あまりにも鮮やかな流れだった。見事としか言いようがない。勝負のことなど、すっかり頭から消えてしまった。
エルネストは小さく微笑むと、すぐに従者と共に鹿の方へ向かう。持ち帰るための処理をするのだ。
ヴィオレッタが見学していると、隣にいたクロがうずうずと身体を動かしていることに気づく。狩猟本能が騒いでいるのかもしれない。
「クロも狩りに行きたいの? いいわよ、いってらっしゃい」
背を撫で、自由を許す。するとクロはすぐさま雪を舞い上げ、森の上を自由に飛んでいく。
待ちながら、ヴィオレッタは森のあちこちを見ていた。そして、ひときわ立派な大木の存在に気づく。三角形の針葉樹は、雪を被りつつも青々と葉を茂らせていた。
「すごく大きな木……」
樹齢何年だろうか。何百年か、何千年かもしれない。
処理を一段落させたエルネストが、ヴィオレッタの元へ来て言う。
エルネストは少し考える様子を見せた後、深い眼差しで大木を見つめながら答えた。
「父祖がこの地に来た時からここに存在しているエルダーツリーだ。多くの精霊がこの木に住んでいるといわれている」
「エルダーツリー……」
大昔からこの地にあり、この地を見守ってきた守り神。
その雄大さには神秘的なものを感じる。強い生命力と、幻想的な雰囲気に、ヴィオレッタは心を奪われた。
じっと見とれていると、エルネストがヴィオレッタの手を引いた。
「エルネスト様……?」
「精霊は気に入った人間を自分の世界へ連れていってしまうことがある」
青い瞳にまっすぐに見つめられる。
「君が攫われてはいけないからな」
冗談めかしながらも本気を思わせる声に、ヴィオレッタの顔が熱くなる。
「そ、それはわたくしも困りますけれど――……」
「ヴィオレッタ」
「はい?」
「愛している。一生君だけを愛することを誓おう」
ヴィオレッタは今度こそ頬が発火しているかと思うくらい熱くなった。
愛を囁き合うことはあるが、それは二人きりの時だけだ。他の人間がいるところで愛を口にするなど、それこそ結婚式の時ぐらいしかない。――あの時は愛情の欠片もなく、事務的なものだったけれど。
「――エルダーツリーの前での誓いは永遠になると言われている」
「……そ、そうなのですね……素敵なお話、ですね……」
胸が激しく鼓動を打って、うまく喋れない。
「……わ、わたくしも……愛して、います……」
恥ずかしさで燃え尽きそうになりながらも、ヴィオレッタも自分の気持ちを口にする。
――まるでいまこの瞬間が、結婚式かのようだ。
――その時、クロの羽音が近づいてくる。
顔を上げると、くちばしに大きな鹿を咥えて、堂々と飛んでくるクロの姿が見えた。
クロはヴィオレッタの前に着地し、雪の上にどすんと鹿を置く。
「まあ。すごい大物じゃない。さすがね、クロ」
ヴィオレッタはクロの身体を撫でて思いっきり褒めた。
クロは嬉しそうに鳴き、ぴょんぴょん跳ねた。
そして、エルネストと狼たちを見る。
――一瞬、両者の間に緊張が走る。
「対抗心を燃やしていたのかしら? 可愛いわね」
ヴィオレッタはクロを抱きしめてたくさん撫でた。
――その後。
狩りは何故か白熱して、たくさんの鹿と兎が獲れた。
「さすがに獲りすぎです。どうやって持って帰るおつもりですか?」
「――あ、ある程度処理すれば少し軽くなる。彼らの働きにも報いるし、麓の村にも渡そう」
獲物はすぐに処理されていく。手慣れたものだった。
狼と犬たち、そしてクロにも報酬として与えられる。
麓の村にも多くを譲り、自分たちの分は、そりに乗せて馬で引いて帰ることになった。
そりは雪の上を滑らかに進み、一行はゆっくりと帰路についた。
その日の夕食は、豪勢な鹿肉料理だった。旨味が強く、柔らかく、深い風味が絶品だった。
「とっても美味しいわ。新鮮だからかしら」
「いや、それは前に獲れたものです。鹿肉は熟成させた方が旨いんすよ」
料理人のテオの言葉に、ヴィオレッタは目を丸くした。
「まあ、そうなのね。テオは本当に料理のことをよく知っているのね。今日のお肉も食べるのが楽しみだわ」






