25 閑話 ヴィオレッタ、ドッグトレーナーになる
「お手」
屋敷の庭――ヴィオレッタは金色の毛並みを持つ犬ライリーの前にしゃがみ、左手を差し伸べて声をかける。
ライリーの目が輝き、忠実にヴィオレッタの手に右前足を渡す。
「おかわり」
手を離し、今度は右手を差し出すと、ライリーはキラキラした目で左前足をヴィオレッタの手に乗せる。
「えらいえらい! おりこうさんですね!」
思いっきり褒めて、頭をなでなでする。
「おすわり」
ちょこんと座る。
「伏せ!」
お腹を地面につける。
「なんて頭がいいんでしょう! 天才です!!」
ヴィオレッタは訓練用のおやつを上げて、ライリーの頭を抱きしめるようにしてたくさん撫でた。
あたたかい毛並みが本当に心地いい。
「……何をやっているんだ?」
いつの間にか庭に出てきていたエルネストが、ヴィオレッタの後ろから声をかけてくる。
「あ、エルネスト様。ライリーを訓練しているのです。こうして、うまくできるたびに思いっきり褒めてあげるんです」
エルネストの姿を見てライリーの目が更にきらきら輝く。尻尾が力強く左右に振られている。よほど嬉しいようだ。
微笑ましい光景だった。
「わたくしはエルネスト様の妻――つまりこのヴォルフズ家のナンバーツー。その自覚を持って、犬たちにも接しなければと思ったのです。ですからまずはライリーと仲良くなるところから始めようと思いまして」
ヴィオレッタはカゴに入れていた赤いボールをひとつ取り出す。
ライリーがよく遊んでいる、お気に入りのおもちゃだ。
赤いボールを手に取り、ライリーの前でひらひら動かす。
「行きますよ、ライリー。ほら、とってこーい!」
投げたボールが勢いよく飛んでいく。
しかしライリーはきょとんとして見送るばかりで、取りに行こうとしない。
「取ってきてください、ライリー」
もう一度言うが、きょとんとしている。
「まだ早かったかしら。もう少し段階を踏んで――」
ライリーが尻尾を振りながらヴィオレッタの横に置いてあったカゴに頭を突っ込む。中には同じボールが二つ入っている。
「あーっ! これはダメです! こっちじゃなくて、あっち!」
カゴから取り出したボールをくわえているライリーに、投げたボールの方を指差すが、きょとんとしている。
どうして取ってきたのに褒めてくれないのかという顔だ。
「そ、そんな顔をしてもいけません」
ボールを取ってきたのは間違いない。褒めるべきところなのだろうか。だが、ここで認めてしまえば、間違ったことを教えてしまうことになる。
心を鬼にするべきか、褒めるべきか。
葛藤するヴィオレッタのところへ――
「ヴィオレッタ」
エルネストが、赤いボールを持ってやってくる。
「まあ、ありがとうございます……って、エルネスト様が取ってきてはダメです!」
受け取ろうとして、ヴィオレッタはびっくりして声を大きくしてしまった。
「序列がはっきりしていないと、ライリーが混乱してしまいます。エルネスト様はナンバーワンで、リーダーなんですから――」
説明しながらヴィオレッタは、エルネストが心なしか悲しそうな顔をしていることに気づく。
良心がずきりと痛む。
「ごめんなさい……持ってきていただいて、ありがとうございます」
赤いボールを受け取って、ヴィオレッタは息を呑んだ。
(これでは、エルネスト様よりわたくしの方が上に見えてしまうのでは?)
エルネスト――リーダーにボールを持ってこさせるなんて、ライリーの教育によくない。
ヴィオレッタはボールを受け取った姿勢のまま、頭を軽く下げる。
「エルネスト様、なでなでしてください」
「わ、私がか?」
「はい、お願いします」
少し間をおいて、エルネストの手がヴィオレッタの頭を撫でる。
ややぎこちないが優しい手つきが、嬉しくて、気持ちよかった。心が満たされていく気がした。
これでライリーにも、ヴィオレッタよりもエルネストの方がやっぱり上だと伝わるだろう。
(やっぱり、わたくしばかりが焦っていたわ……まずはもっと仲良くなるところからよね……)
少し経って手が止まる。顔を上げたヴィオレッタは、エルネストの目を見て微笑んた。
「ありがとうございます、エルネスト様」
そして、背伸びして顔を近づけて。
「エルネスト様のことは、あとでたくさん褒めてあげますからね」
こっそり囁く。
「……ふふっ、冗談です」
「――ヴィオレッタ。期待させてから裏切るのは教育上よくない」
耳元で囁き返された言葉に、ヴィオレッタは耳まで真っ赤になった。
「わ、わかりました……あとで、たくさん褒めますから」
「ああ」
まさかそう返されるとは。
(わたくし、エルネスト様を満足させられるかしら……?)
少しだけ、心配になる。
そしてヴィオレッタは、ライリーがお座りしたまま尻尾を振ってこちらを見上げていることに気づく。
「ライリーの訓練がまだ途中でしたわ。さあ、ライリー、このボールをよーく見て」
目の前で赤いボールをちらつかせて。
「えいっ」
先ほどより弱い力で投げる。ライリーのすぐ後ろへ。
ライリーはすぐさまそれを追いかけ、くわえる。
「えらい! いいですよ、ライリー。さあ、わたくしに渡してください!」
両手を伸ばして待っていると、とととっと走ってきてヴィオレッタにボールを渡す。
「ありがとう、いい子ですね!」
おやつを渡して、抱き締めて、思いっきり褒める。たくさんたくさん撫でる。
エルネストに見守られながら、ヴィオレッタはライリーと共に思いっきり遊んだ。
◆◆◆
少し肌寒くなってきて屋敷の中に戻ったヴィオレッタは、居間に向かいながらエルネストにそっと相談する。
「エルネスト様、なでなでと、膝枕と、どちらがいいですか?」
呆れられるだろうかと思いながら聞いてみると、エルネストは一瞬驚いた後、真剣に考え始めた。
「む……それは、選び難いな……」
「まあ。それでは両方しましょう」
ヴィオレッタは居間に入ると長いソファに座り、優雅にスカートを広げてエルネストに向けて微笑んだ。
エルネストは少し困惑した表情で隣に座る。
ゆっくりと倒れてくるエルネストの頭を、ヴィオレッタの膝に預けさせる。銀髪が流れるようにして、スカートの上に落ちた。
「どうでしょうか?」
「……問題ない」
目を閉じたエルネストの頭を、ヴィオレッタは優しく撫でた。
銀髪の質感は相変わらず滑らかで、触るたびにその感触が手のひらと指先に伝わってくる。
「わたくし、エルネスト様の髪すごく好きです」
撫でていると、だんだんとエルネストの緊張も解けてきたようで、身体の力が抜けていく。
心地よさそうに目を閉じるエルネストを見ていると、いままでよりも距離が縮まったような感覚がする。
エルネストが深い溜息をつく。そこには紛れもない安堵が込められていた。
ヴィオレッタも安堵して微笑んだ。
「いつもありがとうございます、エルネスト様。大好きですよ」
小さな声で囁く。エルネストは一瞬口元に笑みを浮かべて、そのまま寝てしまった。
(よっぽどお疲れだったのね)
――満足してもらえただろうか。してもらえていたら、嬉しい。
ヴィオレッタもソファの背もたれに身体を預け、そのままそっと目を閉じた。
――夫婦の時間は、ゆっくりと穏やかに流れていく。






