21 ヴォルフズ
雨の音が聞こえる。
暗闇の中で、壁や天井を叩く雨の音が聞こえる。
――恵みの雨だ。
これで火も完全に消え、新たに燃え上がることもないだろう。
「恵みの雨だ」
男の声が響く。
「匂いも足跡も消し去ってくれる……天も僕たちを祝福してくれているんだ」
どこかで聞いたことのある声だった。
薄く目を開くと、暗い部屋の中、窓際に男が佇んでいるのが見えた。
エルネストが警戒していた、ヴィオレッタの噂を広めた男の名前が浮かび上がる。
少し神経質そうな文字を書く、黒髪黒瞳の、物腰の柔らかい貴族学園時代の友人。
――シャドウメア子爵家のフェリクス。
だが、彼の雰囲気は昔とは変わっていた。
すっと冷たく、底の知れないものへと。
ヴィオレッタは自分の状況を確認する。寝ているのは冷たく硬い床の上。腕を後ろ手で縛られていて、身体を起こすことができない。頭には、鈍い痛みが響いている。
場所は、領内に点在する、使われていない家か倉庫だろうか。
「フェリクス様……火を放ったのは、あなたですか……?」
問うと、フェリクスは悪びれなく笑った。
「そうでもしないと、君を女王の犬から引きはがせそうになくてさ」
――それは、エルネストのことだろうか。
そんなことのために収穫前の畑に火を放つなんて、許せない。
怒りで震えそうになりながら、ヴィオレッタは必死に自分を落ち着かせる。
相手を刺激するのはよくない。時間を稼ぐためにも、落ち着いて話をしないと。
「どうして、あんな噂を流したのですか? わたくしがまるで、悪い女のような」
「愚かな義妹が、君の名前を騙っていたのを聞いて、思ったんだ。君が悪評でどこにも嫁げなくなれば、身分に劣る僕も求婚できると」
想像もしていなかった理由に、頭が真っ白になる。
「なのに、あっさりと結婚してしまうなんて……義父上の強欲さには参ったよ」
悔しそうな声と、彼の目に浮かんでいる熱情に、ヴィオレッタは言葉を失った。
「だからまた、噂を流してみた。プライドを傷つけられて、あの男も激怒するかと思ったのに……どうにもうまくいかないな。おかげで、君をこんなに待たせてしまった」
フェリクスは笑っているが、ヴィオレッタは彼の言っていることがまったく理解できない。
どうしてヴィオレッタの家族を、義妹と呼ぶのか。義父と呼ぶのかも。
ヴィオレッタに届いた、エルネストが王都で浮気をしているという手紙も、フェリクスが出したものだろう。
いま思えば、彼の筆跡とよく似ている。神経質なくらい綺麗な、整った筆跡。
近づいてくるフェリクスから何とか逃げようと身を捩るヴィオレッタだったが、上にフェリクスがずしりと圧し掛かってくる。
フェリクスの顔がより近くに迫ってくる。
「ヴィオレッタ……ようやく、ふたりきりになれたね」
――正気ではない。
「フェリクス様……これからどうするつもりです?」
ヴィオレッタは慎重に言葉を選ぶ。
「あなたの領地へ行くのかしら。それとも王都に戻ります? いっそ国外へ逃亡ですか?」
「残念だけれど、僕たちには未来なんてない。ここで終わりだ」
「終わり……?」
ヴィオレッタは心のどこかでほっとした。
彼も現状は理解しているようだ。
自分たちが結ばれる手段はなく、この誘拐で辿り着ける未来はないと。
「ここで結ばれ、ここで終わろう。来世では誰よりも先に君を見つけて、抱きしめるよ」
――何を言っているのかわからない。
(もしかして、心中するつもり――?)
フェリクスの手が身体に触れる。
ヴィオレッタは自分の身体に何が起きているのかわからない。
恐怖で動けず、声ひとつでない。
――嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ。
「……触らないで……」
喉の奥から、か細い声を絞り出した瞬間、頬に衝撃と痛みが走る。
「僕のヴィオレッタは、そんなことは言わない」
冷たいナイフのような声が、ヴィオレッタの心臓を突き刺す。
声を上げないと、助けを呼ばないといけないのに、身体が冷え切って動けない。
フェリクスは笑っていた。
「安心していいよ。影がすべてを隠してくれる。誰も僕たちを邪魔できない……」
――シャドウメア家の異能だろうか。
(助けて――)
その瞬間、部屋の扉が突き破られるようにして開いた。
「ヴィオレッタ!」
力強い声が響き、エルネストが中に飛び込んでくる。雨の中を駆け抜けてきたのか、コートは雨と泥で濡れていて、髪からは水が滴っている。
「なっ? ――なんで――」
一瞬硬直したフェリクスの顔面に、エルネストの拳が突き刺さる。
フェリクスの身体は吹き飛ばされ、壁へと強烈に叩きつけられた。
物凄い音がした。
骨の何本かは確実に犠牲になっているだろう。
エルネストは崩れ落ちるフェリクスの襟首をつかみ、片手で持ち上げる。
「いますぐここで殺してやりたいが……」
放り投げるように部屋の隅へと突き飛ばす。
「その血に感謝しろ。貴様は王都で裁判にかける。少しでも生き長らえたくば、逃げようとは思うな」
貴族同士の争いは裁判でつけるのが習わしだ。
事実をつまびらかにするため。禍根を残さないため。記録するため。
「すべての事実と貴様の罪を明らかにさせる」
エルネストはフェリクスの罪を公にすると同時に、ヴィオレッタへの心無い噂や悪評を一掃し、名誉を回復させるつもりなのかもしれない。
「ヴィオレッタ……」
「エルネスト様……」
エルネストは動けなくなったフェリクスに背を向け、ヴィオレッタの方へやってくる。
そして、ヴィオレッタの腕の縄を解いていく。その手はやさしく、ヴィオレッタの目許に安堵の涙が込み上げてきた。
「怖い思いをさせて、すまなかった」
「いいえ、いいえ。わたくしも不注意で……来てくださって、ありがとうございます」
エルネストは濡れたコートを脱ぎ、その下に着ていた上着をヴィオレッタの肩にかける。
ヴィオレッタの身体から、寒さと震えが鎮まっていく。そのぬくもりは、心の奥まで伝わってきた。
その時、部屋の隅で小さな物音がする。
何とか身を起こしたフェリクスが、外へと逃げようとした。
「……愚か者が」
エルネストは追いかけることもせず、忌々しげに吐き捨てた。
次の瞬間、外からフェリクスの悲鳴じみた怒号が聞こえてくる。そこに獰猛な獣の鳴き声がいくつも重なる。
窓から外を見ると、狼や犬の群れが、逃げるフェリクスの身体に飛びかかって爪や歯を突き立てていた。
(――ヴォルフズ……)
この国の貴族たちは、異能の力を受け継ぐ。だが、その力のほとんどは時代とともに失われ、具体的にどんな能力を持っているのかも秘匿されている。
レイブンズ家は鳥類と心を通わせられる。
ヴォルフズ家はきっと、犬や狼との強力な絆を結べることだろう。
――狼の領地で、狼の怒りを買い、逃げられるものなどいない。
その刹那、風を切る音が空から響く。
黒鋼鴉の鳴き声が夜を切り裂いた。
(クロ?)
黒鋼鴉――クロは獰猛な目を光らせながら、一瞬のうちにフェリクスを爪で掴んで地上から引き剥がした。そしてそのまま高く飛び去り、夜空へと消えていく。
「君を傷つけられて、彼も怒っているようだな」
「クロ……」
クロの消えていった夜空を見つめる。
ヴィオレッタの危機を嗅ぎつけて、自分で小屋から出てここまで飛んできてくれたのだろう。
「――帰ろう。私たちの家へ」
「はい……」
返事をした瞬間、ふわりと抱き上げられる。
「大丈夫です、歩けますっ」
「だが、足場が悪い」
「足場が悪い場所には慣れています。お米を育てるには泥だらけの水田の中に入らないといけませんし」
「ヴィオレッタ」
真剣な声で名前を呼ばれ、どきりとする。
「少しだけ我慢してほしい。私が、離したくないんだ」
「エルネスト様……は、はい……」
そう言われてしまうと、抵抗できなくなる。
ヴィオレッタはとうとう観念し、せめて少しでも負担が軽くなるように、エルネストの首に腕を回して抱きついた。
いつの間にか周囲には狼や犬たちがエルネストに付き従うように歩いていた。
その中には、屋敷にいた犬たちもいる。
「……怖くはないか?」
「怖くなんてありません。優しくて賢くて、可愛い子たちですもの」
「そうか」
エルネストは安心したように言う。
その声を聞いて、ヴィオレッタもなんとなく嬉しくなった。
「……パーティーが台無しになって、屋敷の皆には悪いことをしてしまいました。収穫祭は盛大にお祝いしましょうね」
「ああ。きっといままでで一番の賑わいになる」
「その時も、一緒に踊ってくださいね」
その後は、ヴィオレッタたちを探しにきてくれていた人々と合流して屋敷に戻り、使用人たちに礼を言って眠りについた。
翌朝戻ってきたクロは、自分で小屋に入って静かに寝ていた。
その後、フェリクスが盗み出したと思われる侯爵家の使用人服や馬車などが見つかった。だが、フェリクス本人がどこへ消えたのかは誰にもわからず、その後、彼が表に出てくることはなかった。






