131話
リナリーと義姉妹の関係になった、その日の午後のことです。
「衛生部各員、集合してください。レィターリュ衛生部長から伝達事項があります」
「了解しました」
お昼御飯の後、レイリィさんが自分達に召集をかけました。
何やら大切な話があるそうです。
「忙しい中、集まってくれて感謝します。それと、いつも元気に働いてくれてありがとう」
「「はい、衛生少尉殿」」
「今からとても大切な話があります。各員、気を引き締めて聞いてください」
新しい恋人でも出来たのかと皆が集まると、レィターリュさんは堅苦しい口調で挨拶を始めました。
奔放な彼女にしては珍しい、とても真面目な表情でした。
「本日、ビュエリ鉱山群の制圧作戦が発令されました。大規模な戦闘が始まるので、多くの負傷者が予想されます」
「「了解です、レィターリュ衛生部長殿」」
「そして、何より大事な事だけど。本日から治療に当たる者には、特殊な器具の装着が義務付けられます。全員、昼までに本部に取りに来るように」
レイリィさんは、以前ヴェルディさんが仰っていた『鉱山制圧作戦』が実行された事を発表しました。
噂では、この戦いでフラメールとの戦争が決着する可能性が高いそうです。
相当大規模な作戦らしいので、周囲の衛生兵たちにピリリとした緊張が走りました。
「作戦が失敗した時、ここまで敵が襲ってきたりする可能性はありますか?」
「基本的には大丈夫のはずだけど。何が起こるか分からないから、いざという時の心の準備はしておきなさい」
ビュエリ鉱山は、フラメールにとっての命綱です。ここを奪われれば、敗北がほぼ確定します。
鉱山を奪われれば鉄が採掘できなくなるので、銃の供給が止まってしまうのです。
「今回の戦いは、ウィン防衛戦以来の大規模なものになるでしょう」
「……」
「オースティンが勝つには、衛生部がどれだけ味方を助けられるかがカギを握っているわ。皆、頑張りましょう」
そう言ってレィターリュさんは、笑顔を作り自分達を鼓舞していました。
この鼓舞に衛生兵達は応え、雄叫びを返しました。
─────しかし、何故かレイリィさんの顔色は優れないように見えました。
この日いよいよ、我々は弱りきったフラメール軍の守るビュエリ鉱山に侵攻を開始しました。
ここが落とされると、フラメールは無条件降伏を呑まねばならなくなります。オースティンはいよいよ、この戦争に王手をかけたのです。
そんな絶体絶命のフラメールでしたが、兵士の士気は決して低くありませんでした。
むしろ、かつてないほど高まっていると言えました。
何故ならこの戦いは、フラメールにとっても起死回生の好機と言えたからです。
ビュエリ鉱山は傾斜が激しく道は荒れ果て、天然の要塞となっていました。
人手も十分で、鉱山夫の力を借りれば塹壕掘りも自由自在でしょう。
また鉱山内のあちこちに空けられた坑道を行き来する事で、兵士の配置を臨機応変に動かせました。
しかも狭い鉱山内の遭遇戦であれば、銃の射程があまり関係ありません。
我々とフラメール軍の間の技術力の差を、誤魔化すことが出来るのです。
フラメールにとって、これ以上条件の良い防衛陣地はなかったでしょう。
なのでフラメールは、オースティンの動きを察知すると残存戦力の殆どを鉱山にかき集めたのでした。
一大決戦を仕掛け、一気に逆転勝利を狙ったのです。
この構図は、先のサバトとの北部決戦と近いものがありました。
劣勢側だったオースティンが戦力かき集め、一か八かサバトと決戦に踏み切ったのと同じ形です。
我々が危険を冒し鉱山へ攻めこんだ事は、フラメールからして『望むところ』だったよう。
そんな事情があるのに、何故オースティンは鉱山へ攻撃したのでしょうか。
ましてやその作戦の存在を隠さず、周知した理由は何でしょうか。
強者の余裕の表れなのか、それとも何か裏があるのか。
その理由は、オースティン軍の攻勢が始まって分かりました。
「……おかしい」
決戦が開始されたその日の夕方。
負傷者は殆ど、病院に運ばれてきませんでした。
攻勢の日は、いつも満入りに病床が埋まるものです。
しかしこの日、野戦病院に運ばれてきた兵士は数名だけでした。
「助けて、衛生兵、さん! 息が、出来なくて、目が、焼けそうで」
「……これ、は?」
しかも運ばれてきたオースティン兵士には、銃創傷などありませんでした。
彼らが訴えたのは溢れんばかりの咳と鼻水、そして嘔吐です。
真っ赤に充血した目からポロポロと涙を流し、嘔吐のような咳を繰り返すのみでした。
「助けて、衛生兵さん、死ぬ、死んじゃう」
「さ、酸素缶を。酸欠症状が出ています」
こんな症状の患者を、自分は今まで見たことが有りません。
しかし運ばれてきた兵士は一様にして、同じような呼吸苦を訴えました。
「トウリちゃん、水を桶で用意してくれる? ……看護兵は、負傷者の服を脱がせて全身を水で洗い流して」
「レィターリュさん、この症状は一体」
「それと治療に当たるときは、このマスクをつけるように」
レィターリュさんはそんな患者を診ても動揺せず、静かにため息をついて。
顔をすっぽり覆うような大型のマスクを被り、自分達にも差し出しました。
前もって、病床に用意していた木箱の中から。
「このマスク、は」
「毒ガスを吸い込まなくするための装備。今朝通告した通り、治療に当たる人は全員付けなさい」
「……毒ガス?」
「ええ」
そのマスクの形状と、レィターリュさんの辛そうな顔を見て。
自分は、オースティン軍が手を出してはいけない恐ろしい兵器を使用してしまった事を知りました。
ガス兵器。それは、前世では国際条約で禁止されていた兵器です。
自分は前世で生きている時、いつも疑問に思っていました。
銃や大砲で人を撃つことは禁止されていないのに、ガス攻撃は何故禁止されていたのか。
同じ人を殺す兵器だというのに、銃は良くてガスは駄目な理由は何なのか。
────その理由を知るには、目の前で苦しむ患者を診ないと理解は難しいでしょう。
その理由はとてもシンプルです。あまりに、非人道的であったからです。
このガス兵器の開発者は、タクマ氏でした。
彼は抗菌薬の開発に携わり、マシュデールでは臨時衛生部の設立に協力してくださった方です。
クマさんの愛称でも親しまれる彼は、医学と化学の両方に精通した天才でした。
そんな彼に軍は、何度も化学兵器の開発を打診していました。
ですが当初タクマ氏は『自分は人を殺すために研究しているのではない』と協力を拒否していたそうです。
タクマ氏のスタンスは、『人を殺す研究は御免だが兵士を救うのには協力する』といった感じでした。
そのスタンスが変わったのは、サバトに無条件降伏を拒否された後です。
彼は人が変わったように、化学兵器の研究に打ち込み始めました。
優しい彼は家族が殺される事に恐怖し、悪魔に魂を売ったのです。
もとより石鹸の工場で人体に有毒なガスが出る事は知られていました。
クマさんもガス被曝者の治療に携わったこともあり、戦争に利用出来そうな事を知っていました。
そして彼は苦心の末、その有毒なガスを量産して缶に詰める技術の開発に成功しました。
こうして、オースティンはこの世界で初めてのガス兵器の開発に成功したのです。
このガス兵器は扱いが難しく、誤ってオースティン兵が被害を受ける可能性も十分にありました。
だからクマさんは前もってガス兵器の概要と治療法を説明すべく、前線の野戦病院へ訪問していたのです。
─────そしてこれが、オースティンが鉱山への攻撃計画を漏らした理由でもありました。
オースティンは出来るだけ、鉱山に兵士を集めて居て欲しかったのです。
一網打尽に、皆殺しに出来るように。
オースティン軍は最初から、鉱山地域に突撃戦を仕掛けるつもりなどありませんでした。
ただ敵兵を集めて、淡々とガスを焚くだけのつもりだったのです。
鉱山を攻撃するという餌で、敵をひとまとめにした上で。
ガスの威力は絶大でした。
オースティン兵の放った黄緑色の毒々しい煙幕は、風に運ばれてゆっくりと鉱山へと流れていきました。
歴史に残る悪辣兵器のその最初の一撃は、凄まじい被害を出しました。
毒ガスは空気より重いので、塹壕に流れ込んでしまう性質を持っていました。
塹壕内に隠れるフラメール兵士に、逃げ場などありません。
穴の中にガスが充満した結果、塹壕に籠っていた兵士の殆どが窒息死してしまいました。
それは魔法の様に、無機質で残酷な殺戮でした。
しかしオースティンからすると、このガス攻撃は思った通りの戦果を挙げた訳ではありませんでした。
何故ならガス兵器は、塹壕内に籠っていたフラメール兵には効果覿面だったのですが……。
高所には届かず、山上の敵には全く効果が無かったのです。
ガスは山を登らず麓で左右へ分かれ、ゆっくり散ってしまいました。
一気に鉱山を占領できると思っていた軍部は当てが外れ、オースティンは作戦内容の転換を余儀なくされたそうです。
とはいえ、最前線のフラメール兵を窒息死させただけで、費用対効果は十分と言えたかもしれません。
準備砲撃より遥かに安価な戦費で、数層に渡る塹壕内の敵を一掃できたのですから。
「まるで害虫駆除だな、これは」
ガス攻撃の後、フラメール兵が掘った塹壕を確保した兵士はそう言い残しました。
確保した塹壕内には、ガスと吐物で異臭の漂う顔面蒼白な死体がたくさん転がっていたそうです。
その殆どが仰向きにひっくり返り、塹壕からずり落ちるように死んでいたのだとか。
それは、農家が噴煙などで害虫駆除を行った後にそっくりだったそうです。
「ひっくり返った蝗みたいだ」
「ざまぁねぇぜ。……ああ、オレぁオースティン軍で良かった」
兵士は何故、仰向けに死んでいたのでしょうか。
それは起坐呼吸と言って、毒ガスで肺水腫を起こすと座った方が呼吸が楽になるからです。
ガスに満たされた塹壕内で敵兵はせき込み嘔吐しながら、黄緑色に染まった空を見上げて塹壕壁に座ろうとしたのでしょう。
しかし酸欠に陥り力尽きてずり落ち、天を見上げる様に亡くなってしまったのです。
それは覚悟を決めて勇敢に戦地へ赴いた兵士の末路として、あまりに残酷でした。
このガス兵器をみたフラメール軍は殆ど抵抗を見せず、逃げ惑うように山上へ追い詰められていきました。
戦闘らしい戦闘が発生せず、煙を焚くオースティンと逃げまどうフラメールという図式のみが広がりました。
ならば野戦病院は暇だったのかと言えば、そういうこともなく。
夜になるとオースティン兵のガス被曝者が、次々と運ばれてきていたのです。
彼らの大半は、ガス攻撃後の塹壕を確保した兵士たちでした。
どうやら自己判断で、マスクを勝手に外してしまっていたのです。
ガスは塹壕内の土や敵兵の遺体に濃く残留し、暫くの間残っています。
低濃度であっても長時間ガスを吸うと、体調を崩してしまうのです。
それを知らなかった兵士は、塹壕を確保した後「視界が悪くなるし、息苦しい」とマスクを外しました。
そのせいで野戦病院は、軽症なガス被害者であふれかえったのです。
彼らは湿った咳と淡い血の混じった痰を吐いて、病床でもがき苦しんでいました。
ガスの被害者は死ぬにせよ助かるにせよ、苦しむ時間が非常に長いです。
兵士は嗚咽を溢し、のたうち回り、殺してくれと叫ぶものすら居ました。
喉が焼けるように痛く、目が塩漬けにされた様に染みて、呼吸する度に痰がせり上がっていました。
……それはまるで、拷問を受けているような苦しみ様でした。
「リトルボス、そっちの患者は?」
「……駄目です、お亡くなりです」
「そうか」
窒息は、この世で最も苦しい死に方の一つです。
重症な兵士は喉を掻き毟り、もがき苦しんで逝きました。
軽症であっても完治は難しく、兵士はこの後ずっと息苦しさを感じながら生きねばならなかったそうです。
前世でガス兵器が条約で禁止になった理由が、良く分かりました。
「素晴らしい攻撃方法だ。我々はまた、時代を一歩進めた」
「今からガスマスクの量産が必要だ。今後、敵にガス兵器を使われても問題ないように」
「その通り」
そんな兵士達の苦しみを知らず、数字として被害状況を聞いていたオースティン司令部は戦果報告を聞いてご満悦でした。
より安全により安価に、人を殺せるこの兵器を褒め称えたのです。
「タクマ氏は実に素晴らしいものを作ってくれた」
「彼のお陰で、オースティンは戦争の最前線を走り続けられる」
……ここからの戦争は『どうやって敵を倒すか』ではなく『いかに効率的に人を殺せるか』に変わっていってしまいました。
兵力が少ないオースティンからすれば、それは当たり前なのかもしれません。
しかし、その技術の進歩が我々だけに利益をもたらすとは限らないのです。
このビュエリ鉱山への攻勢が、戦争が『戦闘』から『殺戮』に変化した節目だったと思います。
技術の進歩、大量殺戮兵器の開発、人道の無視。
あまりにオースティンは戦争に慣れ過ぎて、大切なものをたくさん見失っていたのでしょう。
その天罰なのか、それとも歴史は同じ結末を辿る運命なのか。
オースティンはこの毒ガスを開発したツケを、早々に支払う事になります。