エッちゃん
「せんせい、さようならー」
夕暮れの道路で、園に右手を振る娘のハルの左手を引いて、畑野アキコは歩くように促した。手を振り返してくれる若い幼稚園教諭に会釈をして、アキコはおきまりの問いをハルに投げかける。
「今日は誰と遊んだの?」
うんとねー、と指を折るハルの口からは、聞き知った名前が出てくる。ミヨちゃんにユキちゃん、よっしーにリッちゃん。この「森の子幼稚園」に入園して三か月、娘の幼稚園生活は順調なようだ。
「みんなと仲良しね」
うん、とうなずいて娘は言い足した。
「それからねー、エッちゃん」
何気なく口にされたその名前に、アキコは思わず足を止めた。
エッちゃん? エッちゃんって……。
夕焼けが、思い出の中の色と重なって、アキコの鼻腔にあのホコリっぽいにおいがよみがえってくる。
(ねえ)
記憶の中のその少女は図書室が好きだった。騒いじゃいけないあの部屋で、いつも小声で話していた。髪は短めだがいつも整っていて、手をかけられた子なんだな、という感覚を、同年代の子どもにも漠然と抱かせるような容姿をしていた。
(幽霊と妖怪の違いって、知ってる?)
それはね……。少女はちょっと得意げに口元を歪める。人の知らないことを告げる時の、彼女の悪いクセだ。
教えてくれたけど、アキコは覚えていなかった。なるべく、思い出さないようにしている内に、ふやけてぼやけてかすれて消えてしまったから。
「ママ?」
娘の声に、アキコは現実に引き戻された。不安げにこちらを見上げるその瞳を見て、アキコは一つ息をつくと、誤魔化すように頭を撫でた。
「ごめんなさい。ママね、ちょっとボーッとしちゃって……」
再び手を引いて歩き出すが、胸の奥はざわめいていた。
エッちゃん。ありがちな響きだ。エミか、エリカか、江口とか衛藤かもしれない。苗字からも名前からも考えられる、どこにでもあるあだ名。
そう言い聞かせても、アキコの心は言うことを聞かなかった。
どこにでもあるはずのそれを、もうどこにもいない彼女に、重ねずにはいられなかった。
※ ※ ※
「エッちゃん?」
うーん、と加藤キヨミは眉を寄せた。
「聞いたことないけどなあ」
少なくともうちの娘の口からは、とキヨミは肩をすくめる。
「どうかしたの? ハルちゃん、その子に意地悪されたとか?」
大柄な加藤キヨミは、アキコと同じ会社に勤めている。同い年の娘がいて、同じ「森の子幼稚園」に通わせている。娘同士も仲がいい。アキコの娘がよく口にする「リッちゃん」のお母さんである。
部署が違うので一緒にお迎えに行くことは少ないが、何かと共通点が多く、また勝気な彼女をアキコは頼りにしていた。
「ううん、何でもない。新しい友達なのかな、ってちょっと気になっただけだから」
そう、と若干釈然としない顔でうなずくと、キヨミは「娘にも聞いてみるわ」と言ってくれた。
※ ※ ※
「エッちゃん、ですか?」
幼稚園教諭の佐川ミツキは「あー」と言いながら考えるそぶりを見せる。
ミツキはアキコの娘のクラス「たんぽぽ組」の担任の一人だ。アキコより年下で、小柄なせいか高校生のようにも見える。最初はキヨミと「大丈夫かあの担任」と囁き合っていたアキコだが、娘の反応を見るにもう一人のベテラン先生と一緒に、なかなかうまくやっているようだ。
「そういうあだ名の子、『たんぽぽ』さんにいたかなあ……?」
他のクラス、「チューリップ」さんにエノンちゃんがいたと思いますけど、と首をかしげる。ハルちゃんと仲がいいかは、すみません、ちょっと把握してないですね。
必要以上に申し訳なさそうにするミツキに、「いいのよ」と応じていると、園舎の方からハルが走ってきた。
「おおっと! おかえり、ハル」
腰のあたりに飛びついてきた娘の肩を、アキコは抱いた。
「じゃあ、佐川先生。今日はありがとうございました」
「いえ、そんな……。明日もよろしくお願いします」
ハルちゃんまた明日ね、とミツキは子どもに向ける用の笑顔を見せる。
「うん、みつきせんせい、さようなら!」
ミツキに手を振った後、ハルは園庭の方に顔を向ける。
「エッちゃんも、バイバイ!」
びくりとしてアキコは娘が手を振った方を見やる。
だが、そこには誰もいなかった。
※ ※ ※
「イマジナリーフレンドだろ」
アキコの話を一部始終聞いて、夫のタクミはスッパリと切り捨てた。
タクミはSEだ。それも「上流の方だ」と本人から聞いている。機械に弱いアキコには説明されても意味がよくわからなかったが、タクミも「わからないなら別にいい」という態度で、そのこだわらなさがよく見えて、結婚を決めたように思う。
「想像上の友達、ってヤツ。小さい時に作り出すっていうヤツだよ」
っていうヤツだよ、と言われても。アキコにはよくわからない。
「別に悪いもんじゃなかったと思うよ」
投げやりな風にこぼす夫は、いつも以上に疲れているように見えた。残業続きで多忙な彼は、こんなことで煩わされたくないと思っているのかもしれない。
「ごめんなさいね、なんていうか……」
「いや、別に、悪いとかじゃないけどさ」
謝罪の言葉を口にしたアキコに、タクミは慌てたように弁解する。
「その、時間が時間じゃん」
既に0時を回っていた。タクミはいつも「先に寝てて」と言っていた。アキコも仕事があるし、これまでそうしていた。だが今日、起きて待っていたことに、タクミも驚いたのかもしれない。
「それで、ハルちゃんが何もないところに向かってバイバイした、みたいな話だろ?」
「うん」
「……怖いじゃないか」
子どもって大人が見えないものが見えるっていうし。タクミはややうつむき加減にそう付け加えた。
「俺、トイレ行けなくなるよ……」
語調は真剣だった。
ああそうだ、とアキコは思い出す。普段は落ち着いていて、ともすれば何を考えているのかわからないようなタクミだが、怪談話が苦手なのだ。ホラー映画どころか、ハルに買ってやったお化けの絵本すらまともに見られない。ねだられて、声を引きつらせながら読んでやっていたのを思い出す。
(幽霊とかそういうの、苦手なんだよな。どういうソースで動いてんだよ、って思うし)
絵本を何とか読み終わった時のタクミの言葉を思い出し、アキコはふと聞いてみた。
「ねえ、幽霊と妖怪の違いって何?」
え、と怪訝な顔をして、タクミは少し考えてから言った。
「使ってる言語が違うんじゃないの?」
今度はアキコが怪訝な顔をする番だった。
※ ※ ※
(アキコって、いっつもエッちゃんと一緒にいるよね? 幼稚園の頃からの付き合いって言うけどさあ)
一緒にいて楽しいの?
投げかけられた質問は、しかし質問にはなっていなかった。
楽しくないと言え、って相手の顔に書いてあったから。楽しいって言ったらどうなるかわかってるよね、とも読める字で。
(楽しいわけないじゃん)
別の声は嘲るように言う。
(ぶりっ子しやがってさあ。キモいよねー)
鼓膜を揺らすのは笑い声なのに、がりがりと耳を引っかくようだった。
(で、どうなの? アキコ、楽しいの?)
耳をふさぎたくなった。耳の奥を穿り回す笑い声にも。
自分が発してしまった、言葉にも。
(じゃあ今度からさ――)
それは悪魔のような思い付きで。それが何をもたらすのか知っていて。
アキコはうなずいてしまったのだった。
揺らぐ視界、遠く消える教室。薄暗い森、誰もいない広場、暗闇の中うごめくいくつかの光、そして――遠くに消えるあの子の声。
目を覚ましたアキコは、暗い部屋の中むくりと起き上がって、荒い呼吸を整える。
隣ではハルが微かに寝息を立てている。その向こうでは、激務だったのだろう、タクミが死んだように眠っている。
小学校の頃の夢だった。いつもなら消えていく夢の残滓は、まだアキコの手元に残っていた。最近は見なくなっていたのに、やっぱりエッちゃんが……。
ざらざらとしたものが胸の中から湧き上がってきて、それから逃れようとするようにアキコは首を振った。
水を飲んでこよう。ハルとタクミを起こさないように部屋を出て、キッチンへ向かう。
ミネラルウォーターをコップに入れて一気にあおる。透き通るような清涼感が喉を癒しても、胸の奥のざらつきは消えなかった。
(もういいかーい?)
過去に置いてきたはずの声が、どこからか聞こえてきた気がした。
※ ※ ※
「ハルちゃん、さいきんつまんない」
迎えに来た母キヨミに、娘のリツはそう言った。
「あそんでくんないの」
へえ、とキヨミは相槌を打った。入園した時から仲良しで、リツからハルにこういう不満が出たのは初めてのことだった。
これはアキコの気にしていた新しい友達が、関わっているのだろうか。
「ハルちゃんは誰かと遊んでるの?」
リツは「ううん」と首を横に振る。
「ひとりだよ」
「一人?」
今度はこっくりして、リツは続ける。
「ひとりなのに、おかしいんだ。エッちゃんとあそんでるって」
「エッちゃん」の名前が出た。あららら、と言いながらキミヨは少し踏み込んでみる。
「エッちゃんって、どんな子?」
「しらない」
「『たんぽぽ』さんの子、じゃないよね? 『チューリップ』さん?」
「しらない」
リツの語彙として、「しらない」は「わからない」という意味でもあるとキヨミは了解していた。だからこそ「おや?」と思う。園の他の友達なら、たとえば「よっしーってどんな子」と聞けば「ちっちゃい」とか、「ミヨちゃんは?」と聞けば「かみのけふたつにしばってる」とか、そういう答えが返ってくる。
この「エッちゃん」に限って「しらない」とは、どういうことだろう。ハルちゃんをとられて、やきもちを焼いているのだろうか。
そういう覚え、わたしもあったなあ。キミヨは今や遠くなった学生時代を思い出す。あの子とあの子は友達だけど、あの子とはそうじゃないから、あの子の話はできない、とか。派閥争いといえば厳めしすぎる言葉だが、女子は往々にしてそういうものを作りたがるのだ。
こんな歳であっても。高校時代は女子バレー部の主将で、そういう関係性に手を焼いていたキヨミは、娘にはそんな風に育ってほしくないと思っている。
「リツ、ハルちゃんとも、エッちゃんとも仲良くね」
「……うん」
キヨミの顔を見上げて、少し不思議そうにしながらもリツはうなずいた。
※ ※ ※
「ハルちゃん、何してるの?」
自由時間、他の子と遊ばずに大きな積み木の影で何かしているハルに、佐川ミツキは声をかけた。
ハルが何もいない方に向かって「エッちゃん」と手を振ったのが昨日のこと。それからミツキは、少し注意して見ていたが、どうも誰もいない方向に何か言っていることが多いように思えた。
今だってそうだ。自由時間の始まりからそれとなく見ていたが、今まで仲の良かった大川ユキや加藤リツなどから誘われても応じず、一人でこうして積み木の影にいるなんて。どちらかといえば活発な子だったから、その行動には違和感がある。
イマジナリーフレンドについても、幼稚園教諭であるミツキは当然知識を持っていた。幼児の発達にとって重要であるという言説もある。だが、ハルがみんなの輪から離れてしまうのも放ってはおけない。
ハルは積み木を見下すミツキを見上げて言った。
「かくれんぼしてるの」
だからしーっ、とハルは自分の口に人差し指を当てる。
「誰と?」
「エッちゃん」
辺りをはばかるような小声で、ハルは言った。
やっぱりエッちゃんか。ミツキは内心でつぶやく。
「エッちゃんね、かくれんぼがへたなの。ぜんぜんみつけられないの」
「そうなの?」
それで、とハルに合わせて、少し声のトーンを落としてミツキは尋ねる。
「エッちゃんはどこにいるの?」
うんとねー、と重ねた立方体の積み木の影から教室の方をうかがって、次いでハルは自分の後ろ、窓の方を見やる。
「あっち」
ハルの指した先は、園庭の端の方、木が鬱蒼と茂った辺りだった。
「いつもはあそこにいるよ」
「あそこに……」
何となく不気味なものを感じるミツキをよそに、ハルは大きな積み木を重ねはじめる。
「せんせいにみつかるんだったら、エッちゃんにもみつかっちゃうかな」
「どうして?」
「エッちゃん、せんせいとおんなじくらいのせぇだから」
苦労してハルは立方体の大きな積み木を三段重ねにしようとする。三つ重ねると、小柄なミツキと大体同じくらいの高さになる。ミツキはハルに手を貸してやった。
自慢ではないが、ミツキは成人してからも小学生に間違えられたことがある。主に幼顔と身長のせいだが、それから考えるとエッちゃんは小学校高学年ぐらいなのかもしれない。
従姉にその年頃の人がいて、それがモデルになってるのかな? そんな風に考えていると、教室の真ん中の方から泣き声が聞こえてくる。
「まーくんがたたいたー!」
「あ、何やってるの!」
こうなるとハルにだけ構っているわけにはいかない。ミツキは騒ぎの方へ向かって行った。
※ ※ ※
「エッちゃん、ねえ……」
尾崎ミキはSNS経由で送られてきたメッセージを見て、顔をしかめた。
差出人は、畑野アキコ。旧姓は東原。小学校時代の同級生だ。
ミキはSNS上に卒業した小学校の同期会のコミュニティを作り、管理していた。二度ほどだが、同窓会をしたこともある。
ただ、それも大学時代の頃の話だ。社会人になって、そのSNS自体も廃れ、すっかり忘れていたところに、今回のメールが来たのだ。
小学五年生の終わりに転校していったアキコなので、実に20年以上ぶりに名前を見たことになる。二度の同窓会や、成人式でも顔を合わせたことはない。
しかし、今更エッちゃんだなんて。あんなものは小学校時代の事故だ。何を今更、気に病んでいるのだか。
マルチかな。宗教かな。何か選挙が近かっただろうか。
学生時代と違って、大人になってからの同窓会には生臭いものが付きまとう。それは昼にやっているドラマのテーマになりそうな不倫よりも、もっと現実的で嫌なものだ。
どうやら、畑野さんになったアキコは、ミキの今の自宅からほど近いところに住んでいるらしい。終わったこととはいえ、少し責任は感じるし……。
「都合のいい日にお会いできたら」というメールに、ミキは「来週の土曜日なら」と日時と場所を指定して返信した。
※ ※ ※
「アキコ、何か疲れてるな」
あの夢を見た日からロクに眠れず、目にクマを作ったアキコに代わって、この休日はタクミが家事全般を引き受けてくれた。向こうも疲れているのに、と思うと申し訳なかったが、あの夢を見てからどうも眠りが浅いので、甘えることにした。
ハルは最近おとなしい。うっちゃっておかれていた大きな段ボール箱に入って、何かお絵かきをしたりしている。前は外に行きたがったり、家の中を駆け回ったりしていたのに、今は閉じこもっている。かと言って元気がないわけではないので、タクミは「ブームが変わったんだろう」などと言っていた。
「あんまりひどいなら、月曜日も仕事休んだらどうだ? ハルも俺が送り迎えするからさ」
日曜日の夕方、ソファに座っていたアキコに、タクミがそう声をかけてきた。
「ううん、平気。タクミさんが色々やってくれて、大分楽になったから」
その言葉に嘘はない。この土日でクマも薄くなった。ハルの面倒もタクミが見てくれていたので、娘が不意に口に出すあの名前を聞かずに済んでいたのも大きい。
「ハルは?」
「段ボールに入って絵本読んでるよ」
ヤドカリみたいな感じで、とタクミが言うように、倒れた段ボール箱から上半身が生えているような体勢で、ハルは絵本をのぞきこんでいる。
「本が好きになったみたいだ。ここから読書家に育つかも」
タクミの不意の言葉に、アキコはぎくりとする。
あの子も本が好きだった。幼稚園の頃から、大きい積み木にもたれて、あるいは中庭の木陰で、いつも絵本を広げていた。小学校に上がると、図書室に熱心に通うようになって……。
「アキコ?」
心配げにのぞきこむ夫の声で、アキコは我に返った。
「やっぱりまだ、辛いんじゃないか?」
「ううん、大丈夫、大丈夫よ……」
ほとんど自分に言い聞かせるようにして、アキコは取り繕う。
娘の急な変化。あの子の名前を呼ぶようになり、そしてあの子のような行動をとり始める。まさか、ハルにとり憑いて……?
そんなの馬鹿げてる。空想上の友達ができただけだし、絵本好きもタクミの言うようにただのマイブームだ。
そもそも、あの尾崎ミキが生きているのだ。何故、わたしがエッちゃんから恨まれなくてはならない。恨むなら、あちらを恨むのが筋というものだ。
大丈夫だ。大丈夫でいなくては。来週、その尾崎とも会うのだし。
※ ※ ※
「いってらっしゃい」
「ああ、いってきます」
翌日の月曜日、アキコはいつものようにタクミを送り出した。夫は出がけまでアキコを心配していたが、「いつまでも甘えてられないから」と押し返し、こうして送り出した。
「ハル、そろそろ幼稚園に……」
玄関からキッチンに戻って声をかけるが、朝ごはんを食べていたはずの娘の姿は見当たらなかった。
「ハル?」
土日に気に入っていた段ボールが、隣のリビングに転がっている。この中かしら、とアキコは近づいて中をのぞいた。
中には人がいた。
だが、ハルではない。もっと大きい。小学校高学年ぐらいの、髪を切りそろえた女の子。箱の真ん中に、体育座りをしてうついている。高そうな服はぼろぼろで、むわっとした土のにおいが鼻腔をついた。
これは――! アキコは身をひるがえそうとしたが、できなかった。身体が言うことを聞かない。足の裏を縫い付けられ、全身が石に変わったようだった。
ゆっくりと、女の子が顔を上げる。ぎこちない緩慢な動きから目を逸らせない。真っ青で、すり傷だらけのその顔は――
(見ぃつけた……)
エッちゃん。
青白い唇が、にやりと歪む。声にならない悲鳴を上げて、アキコの気が遠のいていく――。
※ ※ ※
「え? まだ幼稚園に来てない?」
東原タクミが「森の子幼稚園」からの電話を受けたのは、午前十時を回ってからのことだった。電話をかけてきた「たんぽぽ組」の担任・佐原ミツキによると、アキコの携帯に電話しても繋がらないという。
『それで、緊急連絡先として登録されていた、旦那さんの番号におかけしたんですが……』
幼稚園からの電話の後、タクミからもアキコに連絡したが、応答はなかった。東原家に固定電話はない。何かあったか、と思い、タクミは上司に了解をとって自宅へ戻った。
自宅にはハルがいた。タクミの顔を見ると「パパー」と元気そうに駆け寄ってきた。娘のこの様子だけならば、何事もなかったかのように見える。
「ハルちゃん、ママは?」
キッチン、そしてリビングをタクミは見渡す。キッチンの食卓には、ハルが食べていたシリアルの皿が空になって残されている。リビングには、ハルの気に入っていた大きな段ボールの箱がひっくり返っている。
そしてどこにも、アキコの姿はなかった。
「ママね、みつかっちゃったんだ」
「見つかった?」
うん、とハルはにこにこして言った。
「エッちゃんね、やっとみつけたんだって。ママとずっとかくれんぼしてて、みつけたよーって、よろこんでたよ」
※ ※ ※
「ご迷惑とは、思ったんですけど……」
畑野アキコが行方不明となって、二週間が経つ。その行方は杳として知れない。
ハルは母親がいなくなったことがわかっていないのか、それとも別の理由からか、平時と変わらず元気だった。
タクミは家を引き払うことに決めた。実家に帰り、自分の父母にハルを預け、そちらから会社にも通勤している。
幼稚園を辞めることになった時、加藤キヨミという大柄な女性から、「アキコさんは最近、少し様子がおかしかった。エッちゃんというハルちゃんのお友達のことを気にしていた」という話を聞いた。
また、ハルの担任教諭の佐原ミツキからも「ハルちゃんは一時期、エッちゃんという空想のお友達とばかり遊んでいる時期があった。お母さんの異常を感じ取っていたのかも」という話もされた。
そして、あのアキコがいなくなった日にハルの口走った「ママはエッちゃんにみつかった」という言葉。怖がり故に心霊現象に否定的なタクミであったが、「エッちゃん」の存在を強く感じずにはいられなかった。
そんな中で連絡をくれたのが、アキコの小学校時代の同級生・尾崎ミキであった。
尾崎も、アキコが最後に連絡をした人間として、警察からの事情聴取を受けたという。それから「どうしても気になって」、とタクミに連絡をとってきた。
タクミもそれに応じ、アキコがいなくなった二週間後の土曜日、会う約束を取り付けた。
「いえ、迷惑だなんてそんな」
アキコと会うはずだったというカフェで、二人は対面した。さすがにやつれ、憔悴した様子のタクミは力なく微笑む。
「こちらも、『エッちゃん』について知りたかったので」
エッちゃん、と聞いて尾崎は暗い顔をする。
「このことは、わたし達の間では、もう終わったことのはずだったんです」
タクミは、尾崎から「エッちゃん」という名前が出たことから、加藤キヨミから聞いた話、佐原ミツキ教諭の推測、そしてハルの口走った言葉を共有していた。それらを受けて、尾崎は「話しておくべきことかもしれません」とこの場をセッティングしたのだった。
「アキコさんとわたしは、小学校五年生の終わりまで同じ学校でした。アキコさんは、五年生の終わりで転校してしまったんです」
そのきっかけになった事件にエッちゃんが関わっている、と尾崎は話す。
「エッちゃんは、当時のアキコさんが作り出した空想上の友達なんです」
「……え?」
それは、とタクミは息を飲む。
「イマジナリーフレンド、というものですか?」
「今風に言えば、そうなるかもしれません」
尾崎は暗い顔のままうなずいた。
「アキコさんは、一人で本をよく読んでいる子でした。加えて、『わたしにはエッちゃんがいる』と言って、現実の友達を作ろうともしませんでした。そんなだから、わたし達は……お恥ずかしい話ですが……」
「いじめていた、と」
尾崎は恐縮したようにうつむいた。
「まあ、子どもの頃の話ですし……。それで、事件というのは?」
はい、と尾崎は一口コーヒーを飲んだ。
「段々といじめがエスカレートしていって……。裏山、学校は山深いところで、結構鬱蒼とした裏山があったんです。そこで、本当はいけないんですけど、かくれんぼをするのがうちのクラスで流行っていて……」
ある時、誰かがこんなことを言い出したそうだ。
「アキコさんをかくれんぼに誘って、鬼にして、置いてきぼりにしよう、って……。アキコさんを鬼にして、隠れるんじゃなくて、みんな帰ってしまおうって。誰もいない中、探し回ってるのを笑いものにしてやろう、って……」
山の中で一人にするのはさすがに可哀想だよ、という意見もあったが、打ち消されたという。
「エッちゃんがいるじゃん、あいつ。一人じゃないから大丈夫でしょ。そう言っちゃったんです」
わたしが……。絞り出すような声で、尾崎は告白した。
「それで、どうなったんですか?」
タクミの冷静な口調に、尾崎はますます縮こまった。
「夜になっても、アキコさんは帰ってきませんでした。大事になって、山狩りが行われて……。そして何とか深夜、見つかったんです」
発見されたアキコは、衰弱はしていたが傷一つなかった。だが、しきりにこう訴えていたという。
(エッちゃんが、エッちゃんがまだ山にいるよ。エッちゃんが探してるよ。エッちゃんを置いてかないで。エッちゃんを、置いてかないで――)
※ ※ ※
「あの山でのことがあってから、アキコは想像の友達と遊ぶのをやめました」
その後のことを、タクミはアキコの母から聞くことができた。アキコの父は、彼女が大学生時代に亡くなっていたが、母は健在であった。
「わたし達は共働きで忙しくて、あの子に構ってやることができなくて……。それで本や空想の存在が、友達になってしまったのだと思います」
山でのことで、いじめが発覚したが、クラスメイト達は裁かれなかった。代わりに、東原家が引っ越しを余儀なくされた。アキコをいじめていた中に、地元の名士の子女がおり、そこに揉み消されたのだろう、とアキコの母は回想した。
「空想の友達を失ってからしばらくは呆然としていましたが、引っ越して新しい学校で友達ができてからは、そのことも忘れていたように見えていたんですが……そうですか、今でも……」
アキコはずっと、友達を山の中に置いてきたことを、後悔していたのかもしれません。アキコの母は目を伏せた。
「ストレスが、抱えていた空想の友達の形になって、あの子を……」
「僕がもう少し、労わってやれれば……」
アキコは仕事と育児からくるストレスで心身のバランスを崩し、自ら逐電した。それが警察の見立てで、義母もそう考えているようだった。
「いえ、タクミさんが責任を感じることではありません。わたし達の育て方の問題で……」
「そんな、お義母さん……」
「今日は、もう……」と泣き崩れる義母に、タクミは深々と礼をしてその場を辞した。
アキコがいなくなったことへの、タクミの認識は警察や義母のものとは違う。自分自身でも信じがたいことだが、アキコはエッちゃんに連れて行かれた、という考えに納得していたのだ。
山に一人残された小学生のアキコはあの時、エッちゃんと新たにかくれんぼを始めたのだろう。そしてエッちゃんが鬼になり、アキコは隠れていた。日が暮れ、山狩りが行われて、アキコだけが下山した。
鬼のエッちゃんを、山に置いたまま。
アキコが後悔していたように、エッちゃんもずっと探していたのかもしれない。ハルにその姿が見えたのは、エッちゃんがアキコが幼稚園の時に産まれた存在だからか。
いや、もしかすると幼稚園児になったハルの存在が、エッちゃんをアキコの下に導いたのかもしれない。
「パパー」
ハルは元気だ。まるで、最初から母親なんていなかったかのように。「ママはどこ?」とも「いつになったら帰ってくるの?」とも聞かない。エッちゃんに「ママはもう戻ってこないよ」と告げられたかのように。
この子にも、寂しい思いはさせられないな。親子二人になったんだ、もっと触れ合う時間を大切にしよう。タクミはそう決意した。
※ ※ ※
「リッちゃん、何してるの?」
「森の子幼稚園」の「たんぽぽ組」の自由時間、いつもなら仲良しのよっしーやユキちゃんと遊びに行くのに、加藤リツは立方体の大きな積み木を三つ積んで、その陰で絵本を読んでいた。
その行動は、母親が行方不明になって幼稚園を辞めた畑野ハルのものとそっくりだ。やっぱり寂しいのかな、と佐原ミツキは思う。あるいは、一人が欠けたために仲良しグループが続かなくなってしまったのかもしれない。どちらにしても、気を付けておいてあげないと。
「あのね、エッちゃんとあそんでるの」
「え、あ、そうなの?」
ミツキは一瞬言葉を失った。ハルの父親・タクミから、ハルが「ママはエッちゃんにみつかった」と言った話を聞いていた。ハルが虚空を指して「エッちゃん」と言ったり、一人でエッちゃんとかくれんぼをしていたのも、もちろん覚えている。
まさか、でも仲が良かったし、考えすぎかな。エッちゃんっていう空想の友達のこと、ハルちゃんからリッちゃん、聞いていたのだろう。
「エッちゃんね、ずっとね、あそこにいたの。ひとりでいたからね、ママがね、エッちゃんともハルちゃんともなかよくしなさい、ってね、いってたから……」
リツが指したのは、ハルとまったく同じ、園庭の端の木々が鬱蒼と茂った辺りだった。
あそこに何かいるのか? 幽霊? 妖怪? そんなことをミツキはふと思ってしまう。思ってしまって、大学時代に一般教養の講義で聞いた話を思い出す。
(幽霊と妖怪の違いとは何か。妖怪というのは、場所に憑くものです。特定の場所に行ったら出現する。それに対して、幽霊は――)
人に憑く。
みつかっちゃう、かくれなきゃ。小さい声でそう言って、積み木の裏側に回るリツを見下しながら、ミツキは背筋が寒くなる。
まさかね。一つ息をついて、ミツキは教室を見回す。また、泣き声が聞こえてきた。どうしたの、とそちらに向かう内、悪寒は忙しさの中に消えて行った。
あとがきはこちらです↓
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