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桜咲くはるかな日の彼の思い出

作者: 猫洞 文月

 あの思い出が夢なのか現実なのか、あるいは私が空想していただけなのか、今となっては曖昧になってきている。


 満開の桜。吹雪のように降りしきる白い花びら。


 古樹原こじゅはら 朔也さくやという呪文のような名前がいつまでも頭から離れない。甘く切ない想いがからむ。


 「さっくん」と、子供の頃の私は彼のことを呼んでいた。

 さっくんと会ったのは、いつも満開の桜の木の下だった。あまりにも他の思い出がないので、多分、あれは私の幻想だ。

 桜の樹の精だったのかもしれない。そんなことは誰にも言ってはいないけど。

 薄い色の髪、薄い色の瞳。茶色よりも更に緑がかった不思議な色の目のために、私は彼は外国の人かと思っていた。

 そういうと、彼は笑って、

「小さい頃は、お父さん、どこの国の人? と、よく聞かれたけど、普通の日本人だよ」

 と言っていたことを覚えている。

 

 とても古くて大きい桜だけど、人目に触れない山の中にあるせいか、その桜のことを知る人は少なかった。

 ある時は春休み、ある時は学校帰りに、家を抜けだし裏道から山に登って桜の木を訪れた。

 桜の下にさっくんはたたずんでいた。

「知ってる? こういう古い樹とか大きな岩にはね、神様の力が宿るんだ。だから岩に、しめ縄かけたりするだろう?」

 教えてくれたのはいつも不思議な話ばかり。

「この桜にも、神様が宿っているの?」

 神妙にうなずく、さっくんの言葉は、これこそ本当だと思えることばかりだった。親よりも、先生よりも。

 不思議な力が宿っているんだ、と、誰にも言わずに信じていた。

 さっくんのことは学校の友達にも家族にも秘密にしていた。私だけの特別な大切な存在。誰かに知られたら消えてしまうかもしれない、それっきり会えなくなってしまうかもしれない、そんなことを思っていた。

 今日、行ってみたらいなかったらどうしよう。さっくんの存在は私一人の空想で、本当はこの世にいない人だったらどうしよう。

 だから、会えると、どきどきした。その胸の鼓動が、不安だったのか恋だったのか、わかるには私は幼すぎた。


 ある年の春、愛犬のチロが池で溺れたとき、私は真っ先に桜の木のところに連れて行った。息をしていないチロを胸に抱いて一生懸命山道を駆け登った。

 さっくん。

 さっくんだったら何とかしてくれる。きっと、桜の木の神様が。

 私一人では神様にお願いできるとは思えなかった。さっくんがいてくれなければ。いなかったらどうしよう。


 息を切らして満開の桜の木にたどり着いた。

 よかった。さっくんがいて。ほっとして、泣きそうになりながら私はチロを必死で差し出した。

「どうしたの? 春菜ちゃん」

 すぐには言葉も出ない私を、さっくんは少ししゃがんで柔らかくのぞき込んだ。

「チロが、チロが、池で! どうしよう、死んじゃったら絶対やだ。助けて! だって、桜の木には神様がいるんでしょ?」

「いるよ」

 即答だった。

 さっくんはチロの小さい体を両手で抱いて、ちょっと体を逆さまにした。口から水が出てきてチロはゴホゴホとせき込んだ。

 さっくんがチロを抱いたり、胸のあたりをさすったりするのを、私は祈りにも似た気持ちで見つめていた。

 神様、本当にいるのならチロを助けて。

 もう一度、元気にはしゃぎ回ってるチロと一緒に遊びたい。

 

 どのぐらい時間が過ぎたのかわからない。

 「大丈夫だよ、ほら」

 ようやく私に戻してくれたチロは、体の温かみも戻って穏やかに目を閉じて息をしていた。

「よかった……」

 にこ、と、さっくんが微笑んだのを覚えている。


 雪のような花吹雪。

「一年にひとつだけ、この季節にお願いを叶えてくれるんだよ」

 と言われたのが、この時だったのか別の時だったのか覚えていない。

 ひとつだけ。

 その年のお願いはチロの命。

 さっくんがいてくれてよかった。チロが助かってよかった。

 桜の木の神様、ありがとう。


 その年は春の嵐がひときわ強く吹いた。台風かと思うほど。

 風と雨が治まった次の朝、私は急いで桜の木を見に行った。

 ぬかるんだ山の道、折れて落ちた枝が道をふさぐ。ようやくたどり着いた桜の木は無惨に花びらを散らして、紅色の花の残骸ばかりになっていた。 

 気配を感じて振り向くと、落ちた花びらで真っ白になった山道を歩いてくるさっくんが見えた。

「全部散っちゃったね」

 大木を見上げながら穏やかな声でさっくんが言った。

「うん、残念。でも、来年もまた咲くよね?」

 背の高いさっくんを見上げながら私が問うと、さっくんは少し寂しそうな横顔で答えた。

「来年は見られないな。遠くに行くんだ」

「遠くって、どこ? いつ帰ってくるの?」

 答えはあったと思う。私の聞いたことのない言葉だった。いつ帰ってくるのかさっくん自身にもわからないと。

 

 もう会えないんだ。最後の桜が散ってしまったから。

 さようなら、桜の精。


 それきりさっくんには会っていない。

 さっくんに会えないと思うと、桜の木を訪れることもしなくなった。

 幾つもの春が過ぎたけれど、あの桜は、もう私の世界には存在しないものになってしまった。


 今ではチロはもう子供じゃない。

 そして私も大学生になり、地元を離れていた。


 「ただいま、チロ、元気だった?」

 春休みに帰省して門を入る。嬉しそうにじゃれついてくる大きくなったチロに思い切り顔をなめられていると、縁側からお母さんが、おかえり、と迎えてくれた。

 学校のこと、今住んでいる町のこと、私がいない間こっちでは近所で何があったのか、とりとめのない話をたくさんした。


 「そういえば、桜がもう満開だね」

 帰省の途中、線路脇の桜並木が夢のような花を散らしていた。

  裏山の桜。子供の時からずっと訪れていないあの大木を、今なら、もう悲しい気持ちでなく見ることができるのかもしれない。

 さっくんに会えないとわかれば、あれは幻想だったのだ、と自分の背中を、ぽん、と押すことができる。そして、私は大人になるのではないだろうか。

 

 「裏山に行ってくる」

 私が立ち上がるとお母さんが、気をつけてね、と声をかけた。

 子供の頃から慣れた場所に行くのに気をつけることもないのに、と私が笑うとお母さんはこんな話をした。

「わかってるよ。でも、あの土地は今、買い手がつくかもって揉めてるから……。ほら、古樹原さんのおじいさんが亡くなったでしょう。息子さんと娘さんが土地を売るだの売らないだのって……」


 古樹原?

 

 さっくんの名前だ!

 そんな人がご近所にいたなんて知らなかった。まさか、もしかして、さっくんという人は幻想じゃなくて本当にいた人だったんだろうか。

「ね、お母さん。古樹原さんってお宅に男の子いた? 私より少し年上の」

 どきどきしながら母に尋ねてみた。夢だったらどうしよう。なにを言っているのと笑われたらどうしようと心配しながら。

「ああ、朔也君のこと? 昔、ときどき春休みになると来てたね。息子さんの方のお子さんでしょう。外国に住んでたんだったかな」

 

 どくん、と、胸がひとつ鳴った。

「行ってきます!」

 返事を待つ間もなく私は駆けだしていた。

 裏道から山を登って、よく知った山道に出る。この先の、細いけもの道を抜けないと桜のところには行けない。知っているはずなのに、しばらく来ていなかったためか知らない道のように感じられた。

 本当にこの道でよかったんだろうか。迷ったのかもしれない、と思い始めた頃、突然木々が開けて目の前にあの桜の大木が姿を現した。


 あの日の思い出のままの姿で、雪のようないっぱいの花をつけて。

 一年にひとつだけ、お願いを叶えてくれる。

 さっくんの言葉が頭の中で響いていた。

「桜の神様、お願い。さっくんに会いたい。もう一度」

 びゅう、と春の強風が吹きつけ、桜の花がまた吹雪を散らした。

 馬鹿なこと言ってるな、神様なんているわけないのに。

 なんだか恥ずかしくなって、もう帰ろうと思って振り向いた。


 「春菜ちゃん?」

 そこにいたのは、桜の木の精。

 あの日と同じ、色の薄い髪と緑がかった瞳の、背の高い青年が、私を見て優しく微笑んでいた。 

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― 新着の感想 ―
[一言] これから物語が始まる感のある終わり方が綺麗で素敵ですね。想像を掻き立てられました。それだけに少し物足りない印象を受けたのも正直なところです(良い意味ですよ)。 アオハル感とは少し違った幻想的…
[良い点] 淡い桜色、淡い髪色、緑色の瞳 淡い恋慕の儚さが美しい情景に重なって、綺麗で穢れない物語になっていると思いました。 [一言] ふと目にしたこと、さり気ない会話から美しい物語を綴れる方だと思…
[良い点] 幻想なのかそうでないのか、そのどちらかを想像出来るようになっていたのが良かったと思います。 そのなかでも、桜の木が散ったシーンでは、もう会えないというフラグを立てて、最後に再会するシー…
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