Section 7
雨が降っている。
午後十一時過ぎ。ツバキの予感は、悪いことに的中してしまった。
ルカは敵を取り逃がしたツバキを散々罵りながら敵を追って真夜中近い東京の空を駆けている。
ツバキ曰く隙を突いた奇襲だったし、ルカから受け取った魔力を全て弾にして計十二発撃ったし、弾には誘導もつけたのだから、決してしようと思って手抜きをしたわけではない。まさか急に雨が降ってきて視界が悪くなるなんて予想しなかったし、敵が発砲の直前に気付いて取り巻きの男たちの体を盾にするなんて(しかもそれを無理矢理行えるほどの筋力があるとは)思いもしなかった、と。
実際、ウェザーニュースに雨の予報はなかったし、ボディガードになるような男を片腕で振り回せるのはルカも予想の範囲外だった。
見込みが甘かったとしか言い様がない。
だが、しかし、ツバキは撃つ直前の一瞬に既にルカに「追ってくれ」と言葉にしていた。
判断が早かったのは、相手の姿を見て、その一瞬だけでツバキは自身が相手を見誤っていたことに気付いたからだろう。
尻尾を出さない、ということは、敵は避難と口止めが得意ということだ。それは、要らなくなった手足を簡単に切り離すということだ。
そういう手合いはいくらでもいるが、女だからとナメていたのかもしれない。ルカは敵が女だから討伐が容易いと判断することはないが、女だから筋力・機動力の面で劣るだろう、という思い込みはあった。
ツバキが「追ってくれ」と先に言ったおかげでなんとか見失わずに追えているが、敵の足の速さは常軌を逸している。
今まで魔法を使うところを目撃されていないのは、ただ単に魔法が使えないというだけでなく、魔法が要らないからなのだろう。
身体能力の拡大という、程度によっては特殊とも言いがたい能力は悪魔によって授けられるにしては非常に地味で、そんな能力開発をするとは考えが及ばなかった。
しかし悪魔によって覚醒させられた肉体は、本来の肉体の限界を超えて筋力を発揮している上、恐らくその無茶によって壊れた筋繊維も即座に修復して、ルカでも焦るほどの逃げ足を実現している。
それに、今は焦って尻尾を出したからルカに追われているが、焦り出すまでは、十分に彼女が持っていた頭脳だけで自己防衛が可能だったのだろう。
建造物を使って走る道選びも的確だ。
何年も経験と訓練を積んだルカとその判断があまり違わない。
高所走行はクライミングに似ている。ルート選びの判断を間違えば横に移動するか後退するか、或いは最悪、落下してしまう。それらは致命的な遅れに繋がる。確実に自分が飛び移れる距離と高低差を把握し、最短ルートを選ばなくてはならない。それは、一朝一夕に習得出来る感覚ではない。
つまり、相手はこうなる未来を予測し、予めルートを作っていたに違いなかった。賢く慎重、と評されるだけのことはある。
このままでは見失わないまでも敵のアジトに逃げ込まれてしまう。
ツバキはルカのような追跡は不可能なので、岸壁につけていたボートで海から本社ビルを目指している。上陸後すぐに車かバイクか何かがあるなら数分遅れで合流するだろうが、その数分を考えると、屋外での決戦は絶望的だ。
しかし仮に間に合ったとしても大都市東京は、真夜中に近くなっても街から人が減ることがない。一般人を巻き込むことは許されることではないし、ツバキは今弾切れ状態だ。
敵陣に飛び込むしかないだろう。
そこでPDAが振動する。自動応答モードにしているので走るのに邪魔にはならない。
「俺だ。オトモダチに頼んで敵本陣の電気系統をクラッシュさせた」
「完全停電ですか?」
「いや、外部からの線をブチッただけだから、最低限の灯りとスプリンクラーの類と、あとエレベーターが最寄り階に移動してドア開ける程度の非常電源はあるんじゃねぇか? まぁ、でもパソコンの類は動かせなくなるし、どんくらいいるかしらねぇが残業してる社員は外に出ざるを得ない筈だ」
「了解です。敵は今のところまっすぐ本社ビルに向かっています」
「だろうな、合流したら俺ん中八割分くらい魔力くれ。敵陣の最後の門を破るのに多分六割くらい使う」
「残りの二割で倒せますか?」
「そんなに欲張んなよ。九割も入れたら俺のメンタルがあぶねぇ」
それもそうだ。無理強いは出来ない。しかし、可能ならば扉突破後にもう一度補給をすべきだ。ツバキもそれは考えているだろうが。
「まぁ、俺からは以上だ。とにかく合流しねぇとな」
「了解です」
通信が切られる。
ノイズは大部分がキャンセルされていたが、風を切る音、エンジン音の残滓が微かに聞こえていたので、ツバキはバイクにでも乗っているのだろうか。
東京のような、人通りと交通量が多く一方通行や交差点が多い街では地表を這う乗り物は遅い。
敵が自らのテリトリーに入って迎撃体制を整える前に、なんとか突入したいが、果たして。
コンクリートで出来た建物の屋上は、水の膜を張ってルカの足をとろうとしてくる。それに苛立ち雨と気象予報士を呪うルカは、今が日本で最も雨が多い時期であることなど知る由もない。
ルカの十年ほどの勤務歴の中で、最悪を更新しそうな夜だ。
(空気は悪いし、ベタベタするし、なんとなく雨が臭い。夜だというのに雑音が多すぎる……)
後々、その愚痴をツバキに話したところ「中国より百倍マシ」という回答が返されることになるが、ルカはこの一夜で日本を嫌いになりつつあった。
本社ビルのエントランス前に着いたルカは、ツバキを二分と四十七秒待った。待つのは得意ではない。しかし、雨の中原付きで、となると速かった方かも知れなかった。
「行くぞルカ」
「はい。早くしてください」
原付きは盗品なのか借り物なのか、はたまた本人のものなのかは定かではないが、雨の中ビルの真ん前に乗り捨てられている。
停電させられ動けなくなったビルの自動ドアは無残に割り破られていた。
尖ったガラスの縁に気を付けながらビルの中に入ると、しんと静まり返って誰かがいる気配はない。
こんな夜遅くまで残業をしている社員がどれだけいたかは不明だが、突然の停電にやむを得ず全員社屋を後にしたのならなによりだ。
真っ暗なビルの中、誰の目を気にすることもない。
「ツバキ」
「おう」
三度目のくちづけは、今までより長かった。
「ルカ、もうちょっと」
「もうちょっと何ですか? まだ足りませんか?」
「そんな、なんでもないことみたいに応じないでくれ」
「は?」
ルカは眉間にしわを寄せた。
「なんでもないことですよ」
「それは違う。俺はお前の命を削って弾を撃つんだ」
「魔力は生命力から発生するんですから、それは確かにそうかもしれないですけど。大した量じゃありませんし、すぐに回復出来ますから。足りないならつべこべ言わずに続けてください」
「だから。お前の血に魔力があんまり含まれてなきゃ意味がねぇんだよ。もっと、俺に命捧げるつもりで吸われてくんねぇと、魔力が舌先から逃げてる」
そういえば、そんな説明もしていた。魔力は精神が制御するものだから、その在処も仕事量も感情に大きく左右されると。
「……わかりました」
出会ってまだ四日目のツバキに全身を、命を、未来を委ねる。
客観的に考えたら理不尽にも程があるが、ルカは不思議と客観的視点よりも目の前の現実を前向きに受け入れられている。
謎の勝算を胸の内に意識して目を閉じると、ツバキが背中に腕を回してきたので体の力を抜き、吸血鬼に血を吸われているような想像をしてみると、なるほど魔力が吸い上げられていく感覚が強くなった。物理的にはほんの少しの血液が舐め取られるだけだが、確かに喪失感を感じている。
舌先の感覚は無視したいところだが、自己防衛に繋がることはあまりしない方がいいのだろう。
難儀なものだ。
「……、サンキュ。八割五分ってとこだわ」
「必ず、勝ってください。足りなくなったらいくらでも奪ってください。負けることだけは許しません」
「あぁ。俺は《教団》に対する忠誠心はねぇが、人を殺した奴を放っておくつもりはねぇよ」
そう言うと、階段を目指してツバキが走り出した。エレベーターは止まっている。
目指す最上階は、二十階だ。
階段を駆け上がり始めてすぐ、ツバキを追い抜かすとツバキが「前の相方は魔法使いだった」と唐突に漏らす。
「それがどうだと言うんです」
「いや……そいつ、移動が得意で。でも、お前とだとこれから先ずっとこんな体力勝負なんだなと思って……」
「鍛えてください。私もあなたも、《教団》の重要戦力なんですよ」
「言うと思った……この体力おばけめ……」
「人を化け物扱いするつもりですか? あなたが貧弱なんですよツバキ」
ツバキがついてこられるペースは、ルカにとってはとてももどかしく、くだらない言い合いは二十階まで続いた。
特注の扉はご丁寧に他の扉と同じ素材を貼り付けてあって、部屋の主の丁寧さを感じさせられた。
一般の従業員は恐らく「使ったことがないが、間口が広いので大きなものを搬入出来る特別な会議室なのだな」と思う程度だろう。
だがその扉は、例えば体当たりとか、鍵を拳銃で撃つとか、そんな程度では到底破れない強固なものなのだ。
ツバキはその扉に触れ、「六割じゃ厳しいかもな」とつぶやいた。
「多分、実弾ならパンツァーファウストくらいの威力が欲しいところだと思うんだよな。そんなもん発射装置部分を作る分魔力が無駄だし、反動打ち消すために後ろから出すガスで多分火事になるし、こんだけ物理的に頑丈な扉なら魔法をキャンセルするトラップもないだろうし魔力弾をぶつけるわ」
戦車並みの装甲を、装置や武器の準備もなく単独で突破出来る人材は《教団》にも少ない。どうしても、とツバキを欲しがった《教団》の意向も理解出来る。ツバキ風に言うなら火力おばけだ。
「いくら魔法っつっても俺のイメージの問題で多少は反動が出るかも知れねぇから下がってろよ」
「えぇ」
ツバキは床に膝をつくと扉に触れるか触れないか程度の距離に右手のひらをかざし、左手で右腕を支え、殺気を漲らせる。
次の瞬間、青というか紫というか、そのような色の、炎とは違う光の破裂が発生した。全く音もなく現れたそれは、熱も風も発さず、ツバキの腕を傷つけることもなく、ただ扉に衝撃を与えた。反動でツバキは後ろにひっくり返り、次いで蝶番が破壊された音や重い金属が倒れる音がしんと静まり返っていたフロアに響き渡った。
物理的な弾丸よりも威力が拡散しやすいという言葉の通り、扉に大きな凹みは出来ていないが、至近距離で当てれば威力は指向性を与えられた魔力弾の方が圧倒的に上だと感じる。ン
今の衝撃を人体がくらえば、何十メートルも吹き飛ばされた挙句肋骨は粉砕、内臓は全て破裂するだろう。
「あー、やっぱ七割ちょい使っちったわ。かってぇかってぇ」
即座に起き上がり、ツバキは迷わず部屋の中に突入していく。
見取り図のままの構造なら、扉の向こうには短い通路があって、奥に広い部屋が一つ、その部屋の奥にもう一つ狭い部屋がある筈だ。
電子錠でロックしてあるだろうが、それを突破するのは難しいことではない。
「ツバキ! 魔力の補給は」
「後でいい」
そう言うと、ツバキは残った魔力で電子錠も破壊してドアを蹴破った。
空間が開け、ビルから電源を取らない照明が煌々と照らした明るい部屋が広がる。家具らしいものは何もなく、部屋の隅に段ボール箱が五つ無造作に置かれていた。
その部屋の中心に、女が立っている。
アイリン・ホァン。ボブカットで、パンツスーツ姿の若い女性。
本来は怜悧に整っているのであろう面差しは、怒りと焦りで歪んでいる。
「アイリン・ホァン。我々は《教団》の強制執行官です。悪魔との契約に基づいた人身売買、臓器売買、殺人等を断罪し、制裁する者です」
「きょぉ……だんん……」
声帯を捻り潰しているのかと思うような声で唸るように繰り返し、殺気を漲らせて体勢を低くし戦意を露わにする。
「わたしの……邪魔、は……ッ! 誰にもさせないッ! 誰にも、誰にも、わたしの願いはッ!」
相手は魔法で身体能力が劇的な向上状態が続いている筈だ。
成人男性を掴んで振り回せる筋力とまともに素手で殴り合ったら勝ち目はない。
対するツバキは魔力を殆ど使い果たしている。
ルカはジャケットの内側に忍ばせてある刃物の類を抜けるように手を伸ばしたが、面と向かってしまうと競り勝つ自信はない。ツバキを囮にしてなんとか出し抜けるか否か、というところだ。
敵が、強く踏み込む。
大して高くない靴のヒールが折れ飛ぶのが見えた。
「黄艾鈴! 考虑凛的心情! 别已经反复罪!」
ツバキが中国語でなにごとか叫んだ。
アイリンも短く何か中国語で答えたが、恐らく拒絶だ。
振りかぶられた拳をツバキが間一髪避けると、その拳は勢いそのままに床を殴りつけ、床材が砕けて破片が飛んだ。
「为何做了那样的事? 她绝对不期盼!」
「ああああああッ! うるさい、ウルサイウルサイ黙れ黙れ沉默!」
中国語で怒鳴られたせいなのか、アイリンの意識はツバキに集中している。悪魔や魔法に精神を侵食されすぎて、半狂乱になりつつあるが、ツバキがきちんと囮として機能している。次々放たれる攻撃は大振りで、今のところは間一髪で避けられている。
だが、身体能力の差を考えたらそう長くはもたない。
ルカはそう判断して敵の首筋を狙ってカード型の刃を投げる。
頸動脈を切れば如何に回復力が底上げされていると言っても血潮の流れを止めない限りは死ぬ。
「ううぅぅうウウッ!」
アイリンはどうやって悟ったものか、ルカの刃に気付いて振り返りざまに素手ではたき落とす。指が二本飛んだが、興奮し過ぎて気付いていない様子だ。そのまま標的をルカに変えて襲い掛かってくる。
(まずい。音で察したのか、空気の流れを触覚で察したのか、或いは勘、偶然、どれだかわからないと無駄な消費をしてしまう)
知らず知らずのうちに噛み締めた奥歯がギリ、と音を立てた。
「ルカ!」
「ツバキ!?」
ツバキが捨て身としか言いようのない低空タックルでアイリンの脚元をかいくぐり、ルカを突き飛ばした。
お陰でルカの首が飛ぶことは避けられたが、二人共床に転がってしまったら、次の一撃が避けられる可能性は限りなくゼロに近い。
「ツバキ! 一体何を」
「ルカ、駄目だ。俺達は勝てない……。……アイリン! 死ぬ前に一つだけ……ほんの数秒でいい、待ってくれ!」
「なんだと!? 今更命乞いなんて遅い! それとも卑怯な企てでもあるのか! 許さない、わたしは何も許せない、貴様らはわたしの邪魔をした、殺すしかないッ!」
「殺す気で襲いかかってんだ、こっちにも死ぬ覚悟はある、ただ、最後に……愛する人を抱きしめることくらい許してくれ! 俺が丸腰なのはわかるだろう、ルカの両手は俺が塞ぐ、だから……」
ツバキの言葉に顔をしかめそうになるのを、ルカは咄嗟の機転で必死に堪えた。ツバキがルカの手を握り、指を絡ませてくる。
「貴様ら……ッ!?」
動揺と軽蔑が時間を稼いでくれている間に、ツバキは「これできっと、死んだ後も一緒だ」などと囁いてくる。ルカはその迫真の演技に合わせて出来るだけ悲しい顔をして頷き「共に地獄に堕ちたなら、主もそれ以上罰することはないでしょう」と返し目を閉じる。
アイリンは幸い、それが弾丸のリロードであるとは思いもせずに、最期の口づけを交わして死後を望む二人と思い込んで呆然と立ち尽くしているのだろう。シンと静まり返った部屋に唇が離れる音が響いた。
「お別れだ……」
ツバキの言葉が自分に向けられていると、アイリンは気付いただろうか。
ツバキの右手に魔力が集中する。ようやくアイリンが異常に気付いて襲いかかるも、逆効果だ。自ら弾丸の軌道に飛び込んでくることになる。
ルカは勝った、と確信した。
「あなた達何をしているの!?」
唐突に背後から上がった女の声。日本語だったので意味はわからなかったが声の色に制止を感じる。ツバキはその声に動揺したのか、魔法がツバキの手元で暴発、ルカを巻き込んで一メートル程背後に吹き飛んだ。肩から骨が外れる音が聞こえたので、ツバキの右腕はこの戦闘ではもう使いものにならないだろう。
しかし吹き飛んだおかげでアイリンの攻撃も空振り、恐る恐る振り返ると髪の長い女性が部屋の入口に立っていた。
幼さと知性が絶妙なバランスを保った美しいアジア人女性だ。
「凛……」
「どう、して……」
ツバキとアイリンの視線が釘付けになっているその女性は、どうやら青松凛、この会社の若い女社長らしかった。




