04
どちらが幸せなのか答えなさい04
スコウィールの隣の席でバラバラと音を立てる少年は色とりどりの絵の具入りのチューブを机一杯に広げ出した。
「ねーねースコウィール。好きな色は?」
「そんなもんねーよ。くだらない事、聞くな」
吐き捨てる様に言うと自分とそう変わらないであろう年の少年を睨み付ける。するとみるみるうちに少年の瞳は涙で滲み、わんわんと泣き出した。うるさい。子供とはいえ、男なのによくもまあ恥ずかしげもなく泣き喚けるものだ。スコウィールが冷めた目でそう思っていると少年の甲高い泣き声を聞きつけた大人が飛んできた。めんどくさい事になった、とたまらずスコウィールは舌打ちする。
「せんせースコウィールが! 折角ボクがスコウィールに好きな色の絵の具を貸してあげようと思ったのにスコウィールは好きな色なんてないって言うんだ!」
「スコウィール! また貴方なの!? どうして貴方はいつもそう協調性がないの!?」
うるさい。大人のくせにもっと冷静に喋れないのか。スコウィールは眉間に皺を寄せた。そんなスコウィールの態度にただでさえ吠えていた大人はヒートアップする。かっと顔を赤らませ手を上げるのが見えた。殴られる、と瞬時に悟ったスコウィールは覚悟を決めて目を瞑ったがくるであろう痛みは一向に走らない。疑問に思い目を開けるとスコウィールに微笑み掛ける老女がいた。大人はといえば、先程まで怒りに震えていたくせに今は情けないくらい狼狽している。
「マザーこれは!?」
「ここは私に任せて下がって下さい。お話は後でゆっくりとしましょう」
大人が言い訳するよりも先にマザーは釘を差してスコウィールに問い掛ける。
「スコウィール。貴方に好きな色はないのですか?」
「ない」
「そう。じゃあこれから作ればいいわね」
「……一生作らないよ」
そっぽ向いて無愛想に答えるスコウィールにマザーは目尻の皺をより深ませて笑う。スコウィールの世界では人間は三つのタイプに分類される。“憎い者”、“嫌いな者”、“興味ない者”。ただそれだけ。しかしマザーはそのどれも違う。スコウィールは胸に手をあてて思った。この人は“苦手”だ。優しく笑い掛けられる度に胸の奥がムズムズしてくるのだ。
「そう。でもスコウィール覚えておいて。世の中にはたくさんの色で溢れているのよ」
マザーの凛とした声が響く。スコウィールは無意識に拳を握り締めていた。どんなにたくさんの色が溢れて様が自分は好きな色どころか、好きなものなんて何一つ浮かばない。作ろうとも思わない。こんな自分に“好き”なものが出来るなど想像出来なかった。
『アイツが好きだ』
今は亡き父親の掠れた声がスコウィールの脳裏に蘇る。スコウィールは父親が嫌いだった。憎んでさえいたと思う。父親はスコウィールを産むだけ産んで他の男の元へと去った女をいつまでも愛し続けた。そんな父親を尻目に女は他の男との間に一男もうけたと聞く。スコウィールと半分血の繋がった義理弟。女と他の男と三人で幸せに暮らしていることだろう。自分達に罪悪感すらなく、他の男に優しく微笑み掛け産まれたばかりの義理弟を宝物の様に抱く女が浮かぶ。馬鹿かと思った。女はもちろん、いつまでも経っても未練たらしい父親を。自分達はあの女に捨てられたのだ。義理弟なんて自分達の存在すら知らないだろう。「惨めだとは思わないか」10歳の頃、父親を嘲け笑った。スコウィールなりの精一杯の反抗だった。それでも父親はあの女を「好きだ」と返すだけ。それが父親の最期の言葉となった。次の日、父親は首を括って死んだ。父親の亡骸を見つけた時、スコウィールは頭がおかしくなりそうになった。
『アイツが好きだ』
父親の言葉が呪縛の様にスコウィールを縛り付ける。
(好きって何だ? 好きって何だよ!?)
スコウィールはその晩静かに泣いた。物心が付いてから泣いたのはこれが最初だった。暗闇中、身体を丸めた姿勢で涙を流す自分。頼れる身内は誰もいない。一人きりだ。
『惨めだとは思わないか』
この言葉は自分にも当てはまる。スコウィールはますます泣いた。泣いて、泣いて、そして決意する。自分を捨てた女、そして何も知らないであろう義理弟に復讐してやろうと。この二人の事を考えただけでスコウィールの涙は怒りへと形を変えていく。
(泣くのは今日が最初で最後だ)
すっかり涙が枯れてしまった自分は悪魔にでもなったかの様な高揚感があった。自然と片方の口角がつり上がる。涙など悪魔に売ってしまおう。自分には人間らしい感情なんかいらない。
その後、スコウィールは孤児院に入る事になった。父親と暮らしていた時も自分の居場所はなかったが、孤児院での生活はさらに窮屈だ。大人には舐めた態度を取るスコウィールだったが、授業は真面目に受けた。自分には十年に一度と言われる程の魔法の才があるらしいので、それを足掛かりに義理弟達に近付こうと思った。身分がないので近衛兵は無理でも魔法兵くらいにはなりたい。城に潜り込む事が出来ればどうにかなるはずだ。スコウィールは禁忌とされる魔術についても熱心に調べていた。この世には人の記憶を消し去ってしまう魔術があるらしい。これさえ使えれば義理弟達を破滅に追い込むのも容易いはずだ。
「スコウィール、その術はなりませんよ」
「……マザー」
図書室で一人、本の虫となっていたスコウィールは突然声を掛けられて驚いた。いつもよりもずっと厳しい顔付きでマザーは続ける。
「人の思いを消す、見方によってはとても魅力的な術に思えます。しかしそれは人の道理に反します。何よりそれを使った術者は死んでしまうの。それを含めて禁忌とされているのよ」
「死ぬ? この本にも書いてあるが、術さえ解かなきゃいいだけだろ?」
スコウィールの反論にマザーは諭すように微笑んだ。
「人の心というのはそう単純なものではないの」
「訳分かんねー。自分の命が掛かってるのに術なんて解くかよ」
スコウィールはマザーが言わんとする事を理解出来なかった。しばらく押し黙っているとマザーの身体がぐらりと揺れる。
「マザー!?」
マザーが床へと倒れる寸前の所でスコウィールは受け止めた。スコウィールの腕の中でぐったりとしているマザーにスコウィールの瞳が揺れる。
「誰か! 誰かいないのか!?」
動揺しながら必死で助けを呼んだ。
「スコウィール、マザーがお呼びよ! 着いてきなさい!」
大人のただならぬ雰囲気にスコウィールの顔色が変わる。あれからマザーはずっと床に伏せていた。孤児院ではマザーの容体を心配する声ばかりが飛び交う。
「よく、来てくれましたね……」
そう言って笑ったマザーだが、大分衰弱しているのが分かる。スコウィールは心の中で動揺しつつもそれを顔にださまいとマザーが眠るベッドの脇に近付いた。
「覚えて……いますか? 以前、貴方に……好きな色を尋ねたこと?」
「ああ」
喋る度にマザーの肩が激しく上下する。マザーが何を伝えたいのか知らないが、これ以上喋るのは体に障る。そう思ったスコウィールはマザーを覗き込んだ。マザーは目を細めて笑う。その瞳はマザーらしく気高かった。
「貴方は……好きな、色などない……と言った。でも、私は……貴方は、必ず見つける、と思う、……わ」
「……マザー」
「スコウィール。貴方は……とても、優しい子」
そう言って、また微笑んだマザーは眠る様にしてこの世を去った。マザーが死んだ後、スコウィールは孤児院を去った。16歳、自分はもう一人立ち出来るはずだ。幸いスコウィールには魔法の腕があるし、食べるのには困らないだろう。スコウィールは迷う事なく王都へと向かった。けれど城に行くつもりはない。以前は単純に城の軍隊に入隊出来れば良いと考えていたが、それは止めておいた。マザーの顔を思い出す。禁忌の魔術を使う気にはなれなかった。スコウィールがリムフェに近付けたのは22歳の頃だった。それまでどんな汚い仕事も請け負い続けた。そのおかげで様々な地位のある者と繋がりが出来た。何年も待った甲斐がある。スコウィールはリムフェの護衛と言う、最も望ましい役職を手に入れたのだ。残念ながら女は死んでしまった様だが義理弟さえいれば十分だ。これでようやく復讐出来る。スコウィールは片方の口角を上げた。
初めて目にした義理弟の姿にスコウィールは戸惑った。幸せに暮らしているとばかり思っていたリムフェだが実際はその逆だったからである。王位継承者であるはずのリムフェは城中から煙たがられていた。以前リムフェ及びリムフェの周辺を調べたので、彼が良く思われていない事は知っていた。しかしまさかこれほどとは。「王にちっとも愛されない哀れな子」「ネイ様と比べて全て劣っている駄目な子」スコウィールの耳にもリムフェを蔑んだ噂があちらこちらから飛び込んできた。
「初めまして、リムフェ様。リムフェ様の護衛を任されましたスコウィールと申します」
「ああ」
王子らしからぬ、他人を拒絶する空気を持つリムフェの口数は少ない。義理弟であるリムフェは自分と同じ色の瞳をしていた。スコウィールの青より鮮やかな、リムフェの青色の瞳。そこに生気はなかった。それを感じ取った瞬間、スコウィールの血がゾクゾクと騒ぎ立てる。目の前にいる男は自分と同じ血が流れているのだと実感した。さてリムフェをどうしてくれようか。ようやく義理弟に近付けたスコウィールは復讐の二文字ばかりを考える毎日だった。そんなある日、リムフェが端正な顔立ちをした長身の男と一緒にいる所を目撃してしまう。嫌われ者のリムフェと肩を並べる人物は限らている。確かリムフェには幼なじみがいると聞く。きっと彼がそうだろう。そんな事を考えていたスコウィールは息を飲んだ。リムフェとカイルの唇が重なったからだ。ニ、三度続けて軽い口付けを交わした後、リムフェはうっとりとカイルを見上げた。その瞳は輝いていて、スコウィールといる時のリムフェとはまるで違った。また血が騒ぎ出す。しかし初めて会った時のざわめき方とはまるで違う。グツグツと身体中の血液が煮えたぎってしまうのではないかと思うくらいの感情がスコウィールの中に渦巻いた。苛々した。翌日、身体が動くままにリムフェの唇を奪った。驚き、抵抗する自分とは比べられない程華奢な体格のリムフェにスコウィールは全く手加減しない。自分の気の済むまで唇を弄んだ。唇が離れた瞬間、リムフェの右手がスコウィールの頬へと飛ぶ。スコウィールはあえてよけなかった。バチン、と渇いた音が室内に響く。
「お前は……っ、一体何のつもりだ!」
他人を叩くなど初めての事なのだろう。ブルブルとリムフェの右手が震えていた。それを見たスコウィールは満足げに笑う。
「今更純情な振りをしても無駄ですよ」
「何を!?」
「カイルと寝ているのでしょう?」
リムフェの青色の瞳がこれ以上ないくらいに見開かれた。互いの碧眼が交わる。スコウィールの血がまた騒ぎ出した。
「私は貴方が嫌いです」
そう吐き捨てて、何も知らないであろうリムフェに自分
の正体をバラした。
リムフェがカイルの子を宿した事を知り、また血が煮えたぎったがそれは直ぐに抑える事が出来た。リムフェが城を出たいと懇願してきたからだ。スコウィールの答えは勿論決まっていた。
「勿論ご協力致します。ですがリムフェ様。王子である 貴方を連れ出すとなると相当骨の折れる仕事になりま す。私の立場も危うくなるでしょう。それ相応の報酬を 頂かないと」
「いいだろう。僕を外の世界へ連れ出してくれた暁には それなりのお金をくれてやる」
リムフェの的外れな提案に鼻で笑ってしまいそうになる。
「お金? そんなものはいりません」
「じゃあ、何が欲しいんだ?」
「そうですね。もっと別の、例えば貴方の記憶を貰いましょう」
それは禁忌の魔術。マザーの顔が脳裏に浮かぶ。下手をすればスコウィールの命はない。しかしそれでもスコウィールはリムフェの中に咲き乱れる『カイルへの恋心』を取り除きたかった。取り除いて、リムフェともう一度最初からやり直したい。今度はちゃんとリムフェに優しくする。リムフェに素直な気持ちを告げてみせる。ーーリムフェと幸せになりたい。流れ星を見つけた子供の様に色々な願い事を心に馳せる。そんなスコウィールにリムフェがおずおずと話し掛けてきた。
「貴方は?」
「俺はスコウィール」
「スコウィール?」
「ああそうだ」
スコウィールは笑った。
「パパー、起きてー。御飯だよー」
「うん?」
微睡みの中、服を引っ張られる。クリクリとした大きな瞳がスコウィールを見上げていた。仕事から帰って、リムフェ特製の夕御飯が出来るのを待っているうちに長椅子で眠り込んでたらしい。長椅子から立ち上がったスコウィールの元にリムフェが心配顔で掛けてくる。
「随分とよく寝てたね。疲れてるの?」
「いや大丈夫だ。ユラの顔を見たら元気になった」
「あはは。だってさユラ」
「パパは僕の顔見たら元気になるの?」
「ああ」
「だったらもっと見ていーよ?」
「それは光栄だな」
ユラを抱っこしたスコウィールは笑った。
「ウィールってば寝癖付いてるよ」
クスクスと笑いながらスコウィールの髪を直すリムフェにスコウィールは目を細める。全部、全部これが“本当”だったら良いのに。いつもの様に三人で夕飯を食べた後、ユラがスコウィールに一枚の絵を見せた。
「ボクが書いたんだよ。ボクね、黄色が大好きだから黄色をたくさん使ったの」
「そうか、上手く書けてるな」
スコウィールが褒めてやるとユラの表情にぱっと光が差した。子供らしい、屈託のない笑顔だ。
「ねぇ、パパの好きな色は?」
カイルの友人であるキールの姿を見た時、スコウィールはさほど驚かなかった。本当はずっと分かっていたのだ。三人で暮らす平凡だが穏やかな日々は、スコウィールにとって幸せだったが、リムフェやユラにとっては偽物のそれでしかない。リムフェが愛した男もユラの父親もスコウィールではないのだ。ただ二人にそう思い込ませてあるだけ。そんな偽りで塗り固めた日常は必ず崩壊するに決まっている。スコウィールは覚悟を決めた。
「ウィー、ル?」
捨てられた子猫の様な瞳でスコウィールを見上げてくるリムフェを本当ならば今すぐ抱き締めてあげたい。けれど出来ない。その役目はもう自分ではないのだから。
「リム……いいえリムフェ様、その男の言う通りです。 ユラは私と貴方の子ではない。そして貴方の愛している 男は私ではない。ですので少し魔法を掛けさせて貰いま した。貴方の中にある愛する男の記憶を消したのです。 おかげで上書きしやすかったですよ。少なくとも五年間 は私を愛したでしょう?」
「……記憶? 上書き? 何を言ってるんだ。僕達は夫 婦じゃないか」
表情を隠すのも自分の気持ちを押し殺すのも昔から得意だ。だから縋るようにスコウィールを見るリムフェの瞳を切り捨てる振りをする事も容易かった。
「愛する人に裏切られた気分はどうですか? もう少し経ってからネタ晴らしをしようと思っていた のですが、ここでゲームオーバーです。貴方の記憶も返 しましょう」
スコウィールは不敵に笑うとリムフェに向かって手をかざした。
『スコウィール!』
マザーの声が聞こえた気がした。しかしスコウィールは躊躇わない。自分は五年もの間リムフェとユラを騙し続けた。もう十分ではないか。そろそろ彼らが帰るべき本来の場所へ帰してあげねばならない。そう決意したスコウィールはリムフェに記憶を返した。瞬間、まるで鋭利な刃物で身体を貫かれる程の衝撃がスコウィールを襲う。あまりの痛みに気を失いそうになったスコウィールだが何とか最後の力を振り絞ってその場から消えた。
余力だけでテレポートした所為か、さほど遠くへは飛べなかった。町からそう離れていない小さな森だ。全身に嫌な汗が噴き出しているのが分かる。歩くだけで普段の何十倍もの体力が消耗していく。
「スコウィールさん?」
不意に背後から声を掛けられた。
「キース? ユラと一緒か?」
「いえ僕は学校の帰りです。それよりお医者様を呼んで来ましょうか?」
キースがスコウィールの顔をハラハラしながら覗き込んでくる。なるべく普段通りでいる様努めたが、子供に見破られるぐらい自分は弱っているらしい。スコウィールはキースを見る。ユラと仲良くしてくれる、優しい少年。
「医者は、いい。それより、……お願いが、ある。ここで、俺と会った事……、誰にも、言わないで、くれ」
スコウィールは身体中にだるさを感じながらも途切れ途切れに言葉を紡ぐ。それは優しい少年に背負わせる事になるであろう秘密。すまない、すまないと思いながらもこの頼みだけは譲れない。
「でも!」
「ユラの為なんだ!」
「っ!」
スコウィールはキースの二倍は生きている。丸め込むのは容易い事だ。みるみるうちにキースの瞳に涙が溜まる。酷い事をしているな、と思った。
「もう、行け。キース」
「…………」
「行け!」
今のスコウィールが出せる精一杯の大声にキースはびくりと肩を大きく震わせた後、駆け出して行った。キースの背中を見送ったスコウィールは息を吐き出す。限界が近い。
『ウィール……』
先程のリムフェとの決別を思い出す。「さようなら」は言わなかった。そんな別れの挨拶すら自分に言う資格がないような気がした。このままひっそりと消えるのが自分には一番相応しい。何とか痛みに耐えてきたが、息をするのも億劫に感じて目に付いた木の根元へ寄りかかる様に腰を下ろす。肩で息をしながら空を見上げた。スコウィールの瞳に焼き付くのは鮮やかな青い空。自然と口元が緩んだ。好きな色なんてなかった。作っちゃいけなかった。けれど。
『ねーねースコウィール。好きな色は?』
『スコウィール。貴方に好きな色はないのですか?』
『ねぇ、パパの好きな色は?』
(青が好きだな)
自分の深みのある青とはまた違う、青空の様にうんと清々しい爽やかな青色。愛しい人の目の輝き。
(青色が好きだ。ユラも好き。リムの作るシチューや、ユラが摘んできてくれた花、リムとユラの笑い声。それから、)
好きなものが次から次へと溢れ出す。スコウィールの頬にあたたかい涙が伝う。嬉しいと思った。自分は人間らしく逝けるのだ。
(愛してる、リム)