表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/18

一章五

 館の一室にて桜は眠れぬ夜を過ごしていた。


障子を静かに開けて廊下に出てみる。 人の気配はなく桜は歩いて庭に下りた。

空には満月が出ており、満天の星空であった。

部屋の近くに桜の大木が植えてある。

ひらひらと花びらが落ちていて、幻想的な光景を作っていた。

「きれい…」

桜はつい、声に出していた。

だが、誰も答える者はいない。

そのはずだった。

「姫、ですか?」

後ろから、若い男の声が聞こえる。

桜は慌てて、振り返った。

「あの、どなた?」

短く問いかけていた。

そこには背の高い、白い寝巻き姿の男がたたずんでいる。

「…桜姫、ですね?こんな夜中にどうされましたか」

丁寧な言葉使いに桜は館に仕えている家臣の誰かかと、思った。

だが、こんなしどけない格好をしているはずがない。

「もしかして、こちらの館の主の晴信様ですか?」

試しに尋ねてみると、男は驚いたように、目を見開いたらしかった。

「…わかってしまいましたか。私は確かに、武田晴信です。あなたはなかなか、察しがいいですね」

「まあ、そんなしどけない格好をなさるのは、館の主くらいです。だから、すぐにわかりました」

自然としゃべってしまっていた。

晴信は面白そうに笑った。

「…晴信様は、私を側室にとおっしゃっていました。正室である方や他の側室もおられるのに、どうして、新しく、加えようとなさるのですか?」

桜はいつもの無表情で尋ねていた。

晴信は呆気に取られたようで、目を少し見開いて、黙ってしまった。

だが、しばらくして、笑い出したのだ。これには、桜の方が驚いた。

「これは、意外なことをおっしゃる。私は、佐野家を抑えるためにあなたを側室にと言ったのですよ。姉の梅乃殿でもよかったのですがね。許嫁がいるというので、妹の桜姫にした」

面白そうに話してみせる晴信に、桜は軽く、失望する。

やはり、姉上の言う通りだった。

私に味方になってくれるのは、お岩だけだ。

「そうでしたか。確かに、私か姉を妻にして、男の子が生まれたら、岩谷城の跡継ぎにさせる。うまいやり方ですね」

淡々と告げれば、晴信は少し、目を細めてみせた。

その表情は鋭く、射るようなものだった。

にこやかにしていても、眼光の鋭さは歴戦の武将のそれである。

「…桜姫は見かけは、儚げでしとやかそうだが。中身はなかなかですね。さすがに、公家の姫とは違う」桜はそれを言われて、すぐに気がついた。

正室の三条の方を指しているのだ。

すでに、二人ほどの子が生まれていると聞いた。

桜は三条の方に、嫉妬されはしないかと、危惧を抱いた。

まだ、十六だが、今のご時世では嫁入りする年齢としては遅めだ。

さあっと、風が吹いて、雲によって、月が隠される。

暗くなってしまったので、桜は後ろを向いて、部屋に戻ろうとした。

だが、腕を掴まれて、止められてしまう。

「桜姫、本来は婚儀を挙げるまでは触れない方がいいのだが。今だけは、良いだろうか?」

「…ごめんなさい。私、まだ。心の準備ができていなくて」

すると、簡単に腕を放してくれた。

桜は急いで胸元を整えて、寝室に戻ろうとする。

「…姫、いや。桜殿。明日も今の時刻に会えないだろうか?」

「わかりました。お話するだけであれば…」

晴信はその答えに満足したのか、背を向けて、庭を立ち去っていった。

桜も戻ると、布団に潜り込んだ。

明日からは、躑躅ヶ崎の館で暮らさなければならない。

お岩が付いてきてくれたから、今は安心していられた。

だが、これからはそうはいかないだろう。斉藤道三や他の武将たちが跋扈する今の時代では、武田家も続くかどうかはわからない。

いつか、ここを出なくてはならない日も来るのだろうか。

桜はそう、思いながら、眠りについた。


翌日の朝方、桜は日が昇る前に目が覚めた。

婚儀を終えるまで、晴信は自分に手を出してはこない。

それだというのに、寝巻きという薄着で会ったのだ。

無防備というにも、ほどがある。

後で、お岩にばれたら、お説教ものだ。しかも、初対面に近い殿方の前である。秘密にしておこうと思うのであった。


身支度をすませて、桜は朝食を取る。

そして、父の泰道に文を書こうと思い立った。

「岩、父上に文を書きたいのだけど。晴信様に許可をいただけないかしら」

すると、岩はさっと、表情をこわばらせた。

「お国に文など。桜様がそんなことをなさったら、間者として、疑われます。ですから、それはできませぬ」

頑なに断られてしまった。

ただ、武田の館に無事に着いたことを報告したかっただけなのに。

「よいですか、桜様。あなた様は側室でございますが、それと同時に、人質に近いのです。お忘れなきよう、お願いします」文を書いて送るとしても、こちらの内情を伝えてしまうと、命を取られかねませんとお岩に、忠告をされたのであった。



文は断念して、桜は代わりに、庭に出ることにした。

昨日の夜に見た桜の大木が忘れられなかったのだ。

廊下を横切って行けば、すぐに、満開に咲いた薄紅色の花が目に入る。

付いてきてくれたお岩はほうと、感嘆のため息をついた。

「これは見事な桜です。岩谷のお城にもありましたが、こちらもようございますなあ」

「本当ね。あの百年桜と比べてみても、こちらも負けてはいないわ」

「…そうですね。あの桜は、お祖母様が嫁入りをなさった時に、当時の殿様が植えるように命じられたのです。元は山に生えていた木を城の庭に植え替えたとか。もう、私も生まれていない昔の話です」

そうなのと桜は相づちを打った。

二人して眺めていると、後ろから、声をかけられた。

「…これはお岩殿。それに桜姫。二人とも、いかがされた?」

岩谷城から、付き従ってきた津田十重郎だった。

館にしばらく、滞在する事を晴信から、許可されているらしい。

「桜を姫様と見ていたのでございますよ。津田様は、お仕事は終わったので?」

「もう、終わった。後、五日ほどいましたら、城に戻ると若殿に申し上げましてな」あれまあとお岩は、大げさに声をあげてみせた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ