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四章 五月雨に濡れて一

女性はしばらくして、お岩らしき老女を連れて来てきてくれた。

老女は不思議そうな表情でこちらへとやってきた。

「…はて。私めに用とは。どなたさんですか?」

桜は自分の顔がよく見えるようにと前に身を乗り出した。そして、言った。

「…お岩。わたしよ、そなたが仕えていた桜よ」

短く言うと老女はじっと桜を見つめた。

すると、いきなり老女は桜の手を握ると滂沱と涙を流した。

「おお。確かに私がお仕えしていた姫様じゃ。よう、ご無事でおられました」

「…わかってくれたみたいね。わたしね、諏訪の事が片付いたから。お岩を迎えに来たの。だから、一緒に武田の館に帰りましょう」

お岩に優しく話しかけると彼女はそうでございますねと言いながら泣き笑いの表情になる。

「ええ。帰りましょう、姫様」

頷いたお岩であった。




旅の一行にお岩が加わり、家臣達は一様にほっとした表情になっていた。

特に佐々木が安心しており、桜に良かったですねと声をかけてきたほどだった。

ゆっくりと馬を進めて桜達は躑躅の館に戻ってきた。

久しぶりに戻ってきた主に館の人々は皆が安心していた。

だが、中には不機嫌になっている人もいた。

正妻の三条のお方こと静子姫である。

側室の立場で同行した桜の話を聞いて腹を立てていたのだ。

それを耳にした晴信は館の自室に戻ると速攻で静子姫のいる棟に向かっていった。

桜はそれを自室で聞くと複雑な気持ちになった。

「…まったく、姫様をお連れしただけでお怒りにならなくても。三条のお方様は心が狭くていられますな」

「…お岩。あまり、失礼な事は言わないで。他の者に聞かれたらどうするの」

「ですけど。姫様はお嫌ではないのですか。本来であれば、正妻として扱われてもよいお立場ですのに。それなのに、このような妾として扱われるなんて」

桜は妾という言葉を聞いてちくりと胸が痛む。

確かに自分は亡くなったとはいえ、正妻であった於祢の方が母である。

だから、お岩が言いたい事もわかる。

けど、晴信は身分の高い公家の娘を正妻として迎えていた。

桜はあえて、この事は考えないようにしていた。

が、このようにはっきりと言われると堪えている自分がいる。

「…お岩。とにかく、今はこういう話はやめておきましょう。あまり、よい話題ではないわ」

「……わかりました。姫様がそうおっしゃるのなら」

桜が再度、注意するとお岩は渋々、口を閉ざした。

ほうと息をついた桜であった。


そして、翌日になり、桜は静子姫の訪問を受けた。静子姫は桜の正面に座るとぎろっと睨んできた。

「…そなた、晴信様と諏訪へ行ったと聞きました。あちらでもしや、諏訪の姫と会うたか?」

桜はそれには無言で通した。静子姫はぎりと歯がみをする。

形相は般若のごとくであった。それに以前であれば、怖がっていただろう。

が、桜は仄かに笑むとこう答えた。

「確かに諏訪へは行きました。けど、諏訪の姫君とはお会いしていません。晴信様もかの姫をお気に召されたわけではありませんし」

「…ということは。諏訪の姫はお館様と一晩を共に過ごされなかったのか」

「…さようにございます。三条のお方様」

桜が頷くと静子姫は少しだけ、表情をやわらげた。

「ならばよい。が、津田のお方。そなたが晴信様を奪うというのであれば。容赦はせぬ。覚えていやれ」

また、睨みつけられたが。桜は平伏をしてわかりましたとだけ答えた。

静子姫は面白くなさそうにしながらも桜の部屋を出て行った。




あれから、また年月が過ぎた。桜は年が明けて十七歳になっていた。

晴信は二十三歳になっていた。まだ、二人は清い関係のままである。

約束通り、桜が十八になるまでは待つつもりらしい。そこは意外と律儀だと思う。

暦は一月でまだまだ、寒い季節は続いていた。桜は珍しく、部屋の中で小袖の型紙を作って縫い物をしていた。

横には元気になったお岩が控えている。微笑ましげに桜の事を眺めていた。

「…姫様。今日は雪が降っておりますよ。もし、よければ。火鉢を用意しましょう」

お岩が話しかけると桜は縫い物の手を止めてこちらを振り返った。

「あら。確かに冷え込んできたわね。お願いしようかしら」

「では。少し、お待ちください」

お岩は部屋を出て火鉢を取りに行った。桜はそれを見送ってから、また縫い物に集中した。

しばらくして、お岩が火鉢を手に戻ってきた。中には炭が入っており、床に置くと紙などをこよりにしたものを懐から出して火打石で火を(おこ)した。

それを火鉢の中に入れて息を吹きかけると赤々と炭が燃え始める。持ってきた火箸で炭をかきおこすとじんわりと暖かさが手から伝わった。

お岩は桜のすぐ横にまで火鉢を押しやると自分は着物を掻き合わせて手に息を吹きかけた。

深々と雪が降る中、お岩と桜の息遣いくらいしかしない。桜は晴信の着る長衣を縫っていたのであった。

ただ、彼が喜んでくれればとの思いから一心に針を動かし続けた。


桜が縫い物に精を出し始めて五日が過ぎた。長衣をあらかた、縫い上げていた。

お岩はその出来栄えに太鼓判を押した。

「…姫様。中々の出来栄えです。後は袴や帯などですね」

お岩は出来上がったばかりの長衣を手に取って表や裏地を見る。

不備な点がないかを確認した。桜は縫い物の手を止めないで袴の型紙を布の上に置いて裁ち(たちばさみ)で形を合わせるために切った。

割と手慣れた様子でやる桜にお岩は幼い頃に比べたら上達なさったなと思う。桜とて、もともとお裁縫が得意であったわけではない。

(姫様も成長なさった。後はやや子を待つのみか)

一人でそんなことを考えながらお岩はため息をついた。




そうして、桜が晴信の衣を作り出してから五日が経った。袴も後少しのところまで仕上がっている。お岩も体調は良好で毎日桜の心配をしてはご機嫌だ。

「姫様。今は夏ですから適度に休んでください。でないと夏ばてをなさいますよ」

「わかっているわ。お岩は心配性ね」

桜に苦笑いされてもお岩はどこ吹く風だ。お裁縫道具をしまうように言って休ませようとする。

仕方なく、桜は言われた通りにしたのだった。



しばらくして、お岩が食事を取りに行くと桜は部屋に一人で残された。既に蒸し暑くなり始めていて汗をかいてしまう。

ふうと息をつきながら凝った肩を揉んだ。まだ、十六とはいえどもこちらに嫁いでから二月は過ぎようとしている。

その間に色々とあった。晴信との仲は進展しているようでしていない。桜は自分の思い込みだろうかと考える。

静子姫も桜の元には来ず、お岩や侍女と話すだけの日々が続いていた。あくまで自分は側室であって正妻格の静子姫とは立場や身分が違う。

それは念頭に置いているつもりだった。だが、桜は実家の津田城が恋しくなっていた。父や義母の菖蒲とも会えていない。姉や弟達は元気にしているだろうか。

家臣達も気になる。桜は立ち上がると障子を開ける。武田の躑躅の館にも大きな桜の木があった。これを見ると不思議と心が落ち着く。

津田城にあった百年桜もなかなか立派な大樹だったが。躑躅の館の桜も見事なものだ。桜は花が咲く季節に早くなればいいのにと願う。

その頃には晴信とも打ち解けられたらどんなに良いか。こちらの家臣や侍女達の自分を見る目は冷ややかだと感じる。

また、側室をお迎えになったそうよと密やかに噂しあっているのを偶然、聞いてしまった事があった。


続けて、ご正妻の三条のお方様がお可哀想と彼女達は言っていた。桜は自分の事を言われているのだと気づき、その場を茫然としながら後にした。

部屋につくと一人で声を出さずに泣いてしまった。私だって好きで嫁いだわけではないのに。どうして、あんな事を言われなくてはならないのか。

現実は厳しいもので桜は津田家も武田と海部氏との間に挟まれて義母が離縁されて城を追放された事を思い出した。

戦が無くなってほしいものだが。簡単には終わらないだろう。そんな予感がした。




桜が袴などを作り終えたのはさらに五日が経ってからだった。半月は過ぎており、季節はより夏らしいものになっていた。

晴信に贈ろうとお岩に預けた。そのまま、紙に包んで持って行かせると桜はふうと息をついた。

喜んでもらえたら良いのだが。そんな事を思いながら開けられた障子越しに青に澄んだ空を眺める。

五月雨は降りそうにない。その代わりによく晴れていた。鳥が鳴く声も聞こえる。

しばらくしてからお岩が帰ってきた。両手に何か風呂敷を抱えている。

「…ひ、姫様。どういたしましょう」

お岩は困りきった表情をしている。桜はどうしたのだろうと首を傾げた。

「お岩。どうしたの?」

「それが。殿にと姫様のお作りになった衣を家臣の方に預けたのですけど。しばらくしたら、この包みを渡されまして」

「そうなの。でもまあ、怪しいものではないみたいだし。もし良ければ、開けてみましょう」

桜に言われてお岩は困惑しながらも包みを畳の上に置いた。風呂敷の結ばれた部分を解き、中身を改めた。

中には薄紅色の桜と蝶が舞っている美しい打ち掛けやもう少し濃い紅色の無地の小袖、薄萌黄の帯がきちんと畳んであったのだ。

これには桜もお岩も驚いてしまい、無言で眺めた。仄かに香の薫りがする。

何とも雅で見事な品だった。風呂敷には小さく折りたたまれた文もあってそれにはこう書かれていた。

<姫へ

見事な衣の数々をありがとう。手ずから縫ってくれたと聞いた。これはささやかながらお礼の衣だ。季節外れではあるが。桜は姫にさぞかし似合うだろうから。春になったら袖を通してほしい。では。

晴信>

そう書かれてあり、桜は直筆の文にさらに驚いてしまった。お岩も惚けてしまっているが。

それでも、気をすぐに取り直して桜にお礼の文を書くように勧める。

桜はすぐに用意された紙に擦った墨で返事を認め(したため)た。

<殿へ

今日はいきなり衣をお贈りして驚かせてしまった事を初めにお詫びしておきます。また、喜んでもいただけたようで良かったです。

御文をありがとうございました。お礼の衣もいただき、嬉しい限りです。では、約束通りに春になったら衣に袖を通したいと思います。

桜>

そう書き終えるとお岩にもう一度、取り次ぎを頼んだ。お岩が文を他の侍女に渡しに行くと桜は凝ってしまった肩を軽く叩いた。

贈られた打ち掛けは日の光に照らされてきらきらと輝いても見える。不思議だなと思った。

どうも、銀糸が使われているようだった。気づいた時には桜は袖を通すのがもっとしにくくなった。

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