三章三
「…桜様はこの諏訪の湖をご覧になりましたか?」
由宇姫は顔を赤らめながらもそう尋ねてくる。
桜はこくりと頷いた。
「ええ、見ました。武田の若殿によく見える場所を教えていただきましたから」
「そうですか。明日になったら、湖の畔までわたくしがご案内いたしましょう。後、竹乃も一緒に連れて行きます」
穏やかな笑顔でそう言うと、由宇姫は立ち上がった。
「では、桜様。お話はここまでにして。おやすみなさいませ」
丁寧にお辞儀をしながら、由宇姫は桜の部屋から去っていった。
翌朝、桜は日が昇る時刻に目を覚ました。
昨日の侍女ー竹乃や他の侍女達に手伝われながら、身支度をすませる。
朝食も運ばれてきて、寝室の隣の部屋で取った。
「おはようございます。今日の朝餉は諏訪の湖で採れた山女魚です。後、汁物などもございますので」
丁寧に説明を竹乃がしてくる。
「…そう。おいしそうね」
「はい。山女魚は大層美味な物でございますれば。お召し上がりくださいませ」
桜は塩を振りかけて焼いた山女魚やご飯、赤味噌の山菜が入ったお汁にお漬物を目にして、軽く目を見開いた。
山の幸で自分達をもてなそうとしている諏訪家の人々の厚意に対してだった。
由宇姫との約束があったため、急いで食事を終わらせた桜ではあった。
朝餉を終えると、桜は衣装を着替える事にした。
馬に乗るので、小袖と袴を身につける。たすき掛けもして、準備は完了だ。
お岩がいない中、一人で自分の身を守らなければいけない。そう意気込んでいると、手伝ってくれていた侍女が桜に話しかけてきた。
「…あの岩谷のお方様。由宇姫様の仰せでわたしと竹乃さんがお供いたします。だから、ご心配は無用です」
志津と名乗ってきた侍女は懐から、短刀を出してみせる。
「志津殿が護衛役に付いてくれるの?」
「はい。由宇姫様と諏訪の大殿の仰せですから。お方様に身の危険がなきようにお仕えせよとも、申しつかっておりますので」
深々とお辞儀をすると、外へと促された。
桜は廊下を歩いて、庭の奥にあるらしい厩舎へ向かう。
中にはたくさんの馬がいて、そのうちの小さな牝馬の近くまで行った。
「今日はこの馬で行きます。お方様の背丈でしたら、この牝馬がようございましょう」
志津が慣れた手つきで馬を厩舎から連れ出した。
後で追いついてきたらしい佐々木が馬の手綱を持ってくれる。
「…お方様。遅れて申し訳ありません。殿は諏訪満隆様とお話があるそうで。共には来れないとおっしゃっていました」
「そう、ありがとう。佐々木殿は付いてきてくれるのね」
礼を言うと、佐々木は当然の事ですからと返事をしてきたのであった。
佐々木の手を借りて、馬に乗った。
鐙に足を置いて、背中に上がる。
佐々木は晴信の代わりに桜の背中に手を添えてくれた。
「馬が暴れないようにわたしが手綱を持ちますので。安心なさってください」
頷きながら、桜は背中にまたがる。
「…わかったわ。晴信様がいない間はよろしく頼むわね」
「わかりました。お任せください」
佐々木はにかっと笑いながら、桜にいってみせた。
ゆっくりと馬の手綱を引きながら、歩き始めた。
志津も後ろから付いてくる。
そして、門に近づいた頃になって、袴姿の竹乃も加わった。 「…お方様。由宇姫様も馬に乗って来られるそうです」
「あら、そうなの。由宇姫も馬に乗って来られるのね。馬術がお出来になるとはね。体が弱いと伺っていたのだけど」
「申し訳ございません。大殿様が武田の若殿に姫様をお見せしないようにときつく仰せで。岩谷のお方様でしたら、女同士だからよいとの事でして」
竹乃が頭を深々と下げて、謝ってきた。 「…私に頭を下げなくても良いわ。諏訪家にとっては武田は敵だもの。由宇姫をお見せしないようにと大殿様がおっしゃるのもわからなくもないから」
取りなすようにいうと、竹乃はまた頭を下げて謝り続けたのであった。
志津と竹乃、佐々木と四人で門を出ると、既に由宇姫と侍女、護衛の者たちが待っていた。
朝方の明るい中で見る由宇姫は目の覚めるような美しさを持っている。
桜はうらやましく思う。
由宇姫ほどの美しさがあったらと、つい恨みがましく考えてしまう。
そんな彼女をよそに由宇姫は声をかけてきた。
「…桜様。おはようございます。もう、お昼に近いですから出発しましょう」
一息遅れて、桜は気がついた。
慌てて返事をする。 「あ、はい。由宇姫様、おはようございます」
由宇姫はくすりと笑いながら、馬に乗ろうとした。
「そんなに緊張されることはないですよ。わたくしは馬に慣れておりますし、ゆっくりと行きましょうか」
気を使われたことに恥ずかしく思いながら、桜は頷いた。
そして、背中にまたがった由宇姫が合図をして、出発となる。
馬に揺られながら、邸にほど近い池まで行くことになった。佐々木はゆっくりと歩きながら、桜に声をかけてきた。
「お方様。諏訪の姫は馬術がお得意のようですね」
「…そうね。姫はお小さい頃から、武芸を嗜まれていたようだわ」
本当にと佐々木は頷いた。
二人は小声で歩きながら、話を続けた。
佐々木は由宇姫が晴信になかなか、会ってくれないとこぼした。
「諏訪の姫は晴信様とご自身に縁談が出ていたことをかなり気にされているらしくて。ご自分が会って、殿に恋情を持たれても困るからと思われているようです」
「そうなの。由宇姫がそんなことを。だから、お体が弱いと嘘をついていたのね」
佐々木は困ったような顔をする。
「本当に諏訪の方々の強情さには困りましたよ。満隆殿は丁重にしてはくださいますが。腹の中では何を考えているのやら」
桜はそれを聞いて、海野の出身であった義理の母の菖蒲を思い出した。
桜が嫁ぐ前に諏訪一族の当主の頼重が自害して、滅んでしまったことがあった。その後に菖蒲が津田家を追放されたのは記憶に新しい。
「佐々木殿、私は由宇姫をお気の毒に思うわ。父君を亡くされて、義理とはいえ、母君の禰ヶ様も亡くなっているのだから。晴信様を恨むのも仕方ないわね」
冷たくいうと、佐々木は驚いたらしい。目を少し見開いて、歩きながらも桜を凝視してくる。
「…そうか。お方様の母御も諏訪に縁のある方でしたね。だったら、諏訪の姫に同情されるのも無理はないか」
そう呟きながら、佐々木は由宇姫を見やった。
馬上の由宇姫はぴんと背筋を伸ばして、凛とした姿であった。
桜と佐々木は無言で由宇姫を見つめた。両親を亡くした彼女はまだ、十五歳だ。実母の於祢の方の事を思い出す。梅乃と桜を生む前に三度身ごもり、生まれた子は全員、男子だった。
だが、於祢の方の生んだ子は五歳まで生きられなかった。
於祢の方は精神的に耐えられず、寝込んでしまう。
それでも、梅乃と桜の二人の娘の事は可愛がっていた。
梅乃や桜を生んだ後で於祢の方は病にもかかり、瀕死の状態になる。
それを見ていられなかった夫の泰道は於祢の方を手にかけてしまう。
懐剣で心の臓を一突きしたのだ。
その現場を姉の梅乃は目撃していた。
あれ以来、父は変わってしまった。
表面上は穏やかだが、暗く冷たい一面を見せるようになった。
姉の梅乃は母の急逝後、父の泰道を避けるようになっていた。
『父上はひどい!母上を返して!』
泣きながら、泰道を責めた事があった。その時、泰道はすまないと言うだけだった。
あれは桜が四歳の頃だったか。
姉の泣いている様子はよく覚えている。桜は手綱を握りしめた。
姉の梅乃は泰道を憎んでいる。
そして、弟たちも敵対していた武田に嫁いだ姉の自分を憎んでいるだろう。
泣きそうになりながらも前を向いた。
過去の悲しい記憶がよみがえると胸がきりきりと痛んだ。
桜は於祢の方を覚えていない。
だが、梅乃はきれいで優しい母だったと語っていた。
よけいに許せないと歪んだ表情で言っていた。
「…お方様。諏訪湖が見えてきました。どうかされましたか?」
声をかけられて、我に返る。
「あ、佐々木殿?どうかしましたか」
慌てて答えると、佐々木は訝しげにしながらももう一度、言った。
「諏訪湖が見えてきたと申し上げたのです。お方様、お体の調子が良くないのですか?」
「あ、いえ。大丈夫よ。心配をかけさせてしまったみたいね」
「…だったら、良いのですが。竹乃殿と志津殿などから話を聞いたら、諏訪の湖は後もう少しだそうです」
わかったと答えると佐々木は前を向いて、歩き出した。
しばらくして、諏訪湖にたどり着いた。桜は湖の美しさに圧倒される。
大きく、底まで見えてしまいそうな澄んだ湖。
薄い青色に見えるが、緑にも見えたりする。
「美しい湖ね。晴信様が気に入るのもわかるわ」
「そうですね。私から見ても美しいです。諏訪の姫にもおっしゃってみてはどうでしょう」
佐々木に勧められ、桜は馬から下りて、由宇姫に近づいた。
桜が由宇姫に近づくと、あちらも気が付いたらしい。
振り向いて、にっこりと笑いかけてくれた。
「桜様。いかがなされましたか?」
由宇姫が尋ねてきたので、桜も笑いながら答える。
「…いえ。湖が本当に綺麗だと思いまして。それを申し上げにきました」
「ああ、そうでしたか。諏訪の湖は美しいでしょう。桜様に気に入っていただけたようで良かったです」
無邪気にそういう由宇姫は年相応に見える。
まだ、十五歳の少女なのだから、幼く見えても仕方がない。 「由宇姫様も諏訪の湖はお気に入りなのですね」
「ええ。幼い頃から、親しんできた湖ですから」
いつになく、嬉しそうに答える由宇姫に桜は微笑ましさを感じた。
佐々木がその光景を見て、困惑していたのは言うまでもない。
だが、二人は気づかずに話を続ける。
「桜様、わたくしのことは由宇とお呼びください。あなたのほうが年上ですし」
「え、ですけど。姫様の方が私よりも身分は上でいらっしゃるのですよ?」
そう言っても、由宇姫は頑として譲らない。
「それでも、名で呼んでいただきたいのです。わたくし、今までずっと一人でしたから。友人といえる方がいませんでしたし」
この美しい姫が今まで孤独であったのは、武田と諏訪の戦のせいではあった。
桜はそう思い至って、首を縦に振ることにした。




