三章二
お館様と呼ばれた老人は、由宇姫の大叔父の諏訪満隆その人であった。
武田家と諏訪家の戦は、つい、一、二年前の出来事であったらしく、由宇姫が諏訪当主一族の数少ない生き残りである。益田は父君や義理とはいえ、母の禰ヶを亡くした由宇姫や若君が哀れでならないと悔しそうに言う。中へ通してもらうが、桜と晴信は別々の部屋を与えられた。 案内を益田が途中までして、後は侍女が引き継いで、やった。
「…ご寮人はこちらでございます。由宇姫様が自身の居所の近くがよいだろうと、おっしゃっていました」
淡々と言いながら、桜を寝室まで導く。 中に入ると、侍女は、湯浴みの準備をしてまいりますと言って、出て行った。
一人になると、桜は床にへたれ込んだ。
(やっと、諏訪にたどり着いた。嫁入りをしてから、旅の連続だわ)
疲れがどっと出てきそうであったが、何とか、堪える。
話し相手もいない中で桜は、ふと、自分の衣を見てみた。
泥などで汚れた衣は所々、破れていて、ぼろぼろになっている。
手も汚れていて、確かに、湯浴みの必要があった。
侍女が呼びにくるまで、桜はじっと、正座をして、待ち続けていた。
その間にも、夜はとっぷりと暮れていった。
侍女がやってきて、湯浴みの用意ができたと言ってきた。
桜は立ち上がると、お湯殿まで、案内してもらうために部屋を出る。
「…ご寮人のお世話を仰せつかりました。名を竹乃と申します」
立った状態で頭を下げながら、侍女は名乗った。
竹乃という侍女は、表情にとぼしく、あまり、しゃべらない。
そこがお岩との大きな違いだった。
「…あの、諏訪の姫様は私のことを知っておられるのですね。もし、よかったら、姫様にご挨拶をしたいのですけど」
だが、竹乃は慌てて、首を横に振りながら、止めてきた。
「それはおやめくださいませ。姫様はお体が弱くていらっしゃいます。ご寮人とお会いしたら、お疲れになられますし」
あきらめてほしいと言われてしまい、桜は了承せざるを得なかった。
竹乃がそこまで、嫌がる理由を不可解に思いながらも、お湯殿まで、歩いていく。
しばらくして、たどり着くと、竹乃はゆっくりとなさってくださいと言いおいて、出て行ってしまった。
自分で衣を脱ぐと、湯気が立ちこめる中に入った。
石で作られた浴槽に張られているお湯は澄んでいて、源泉から、木の管を使って、引っ張っているらしい。
木で作られた盥桶にお湯を入れて、髪や体にかける。
桧だろうか、張られた床の上で髪を洗った。
合歓木の皮から、煮出した液を髪につける。
不思議な事に、この木の皮の液は水と混ぜることで泡立つのだ。
髪にそれを塗り込んで、力を入れて、こする。
ほんのりと白い泡が立って、良い香りがする。
山の中で桃色と白の混じったかわいらしい花を咲かせる木だというくらいしか、知らなかったが。
お岩が桜に木の皮をはいで、水を鍋に入れて煮込むと、洗髪に使えると教えてくれたことがある。
それを思い出しながら、髪を洗い終えた。
椿油も置いてあったので、使い、塗り込む。
体も洗うと、桧で作られた浴槽に体を沈めた。
「…いい気持ち。疲れが取れるわ」
桜は一人で呟いた。誰も答える事はなかったが、程良く、ひんやりとした風が吹き、空には半分に欠けた月とたくさんの星がある。
それを見ながら、外にある湯殿も良いなと思う。
初夏とはいえ、冷えるのは確かだ。
ゆっくりとつかりながら、晴信やお岩の事を考える。
(お岩、大丈夫かしら。ちゃんと、迎えに行ってあげないと)
そう思うと、胸がざわざわとする。
落ち着かなくて、早めに上がろうと決めた。
のぼせるよりかはましだろう。
桜は浴槽から、出たのであった。
お湯殿を出ると、脱衣場に侍女の竹乃が待っていた。
「ご寮人、お召し替えをなさいますよう…」
控えめに言われて、桜は体や髪の水気を渡された布でぬぐい去る。
竹乃も手伝うと、手を引かれて、着替えの衣のあるところまで連れて行かれた。藤籠の中に白い小袖と淡萌葱色の上着、さらに、薄紅色の帯や打ち掛けが用意してある。
「まあ、綺麗な衣ね。由宇姫様が用意してくださったのかしら」「佐用にございます。姫様がご寮人に、と。お名前が桜様とおっしゃると耳にされて、それに合う色を選ばれたのです」
それを聞いて、まだ見ぬ由宇姫に親近感がわいた。
体調が良い日に会えないだろうか。
今回の事で是非、礼を述べたいと思った。
だが、それを口には出さず、桜は黙って、衣装に袖を通した。
湯上がりのほんのりと薄紅色になった肌に、淡萌葱と薄紅の打ち掛けは映えた。 着付けを終えた桜に竹乃は、微笑んだ。
「由宇姫様もおきれいな方だと思っていましたけど。ご寮人も負けていませんわね。萌葱と薄紅の組み合わせは山桜のようです」
「ええ、姫には感謝しないと。私がこんな綺麗な衣を着られるのも由宇姫のおかげだわ」
嬉しくて、顔をほころばせると竹乃は魅入られたように、桜を見つめた。
初々しさと大人の女性の雰囲気とが混在した表情に、目を奪われたのであった。
寝室にまで案内をすると、竹乃は退がっていった。
桜は一人で座って、考え事をした。
諏訪のご寮人には会えそうにない。
一度会って、どんな方なのかを確かめたかった。
もし、ご寮人が晴信の新しい側室になったとしても、自分よりも美しい方などであれば、諦めがつく。
もし、その時が来たら、私は実家に帰ろう。
そして、静かにひっそりと弟や父の話し相手をしたりしながら、暮らすのだ。
密かにそう決めて、桜は寝具に向かった。
寝ようとすると、襖の向こうから人の気配がした。
灯火がじじと音を立てる。
「…あの。そちらにいられるのは津田のお方ですか?」
聞こえてきた声は高く透き通ったものだった。
男のものではない。桜は返事をせずに立ち上がると、襖にそっと近寄る。
「どちら様ですか?」
「…わたくしは名を由宇と申します。諏訪満隆の親戚の者です」「え。もしや、諏訪のご寮人でいらっしゃいますか?!」
「そう人からは呼ばれております。あの、襖を開けてくださいませんか?」
「わかりました。今、開けますので」
桜は音をなるべく立てないようにしながら襖を開けた。
そこには目も覚めんばかりの輝かしい美貌の娘がたたずんでいた。
白く雪よりも透き通った肌、黒い大きな瞳が印象に残る。
輪郭もほっそりとしていて、凜としたそれでいて儚げな雰囲気の人であった。
体格も華奢な感じで桜は驚きのあまり、見入ってしまった。
まじまじと見入っていると、由宇姫も桜をじっと見ていた。 「…こんな夜分に不躾なまねをしてしまい、申し訳ございません。でも、どうしてもお会いしたくて」
真剣な顔で由宇姫は述べる。
体が弱いから、会えないといわれていたが。
なんだか、本人を前にすると聞きづらい。
「いえ。私も一度はお会いしたいと思っていました、由宇姫様」小さな声で返事をすると、由宇姫は少し目を見開いた。
「まあ、あなたもそう思っていられたのですね。奇遇なとはこのような事を言うのでしょうか」
「ええ。私もそう思います。由宇姫様はその。武田の若殿様の事はどう思っておいでですか?」
唐突な事を言ってしまったが、由宇姫は武田の名を聞いても少し驚いただけだった。
「…どう思うとおっしゃられても。わたくしにとっては父上を死に追いやった仇です。武田の晴信殿は義理の伯父ですけど。親戚とは思えません」
はっきりと言われて、桜は言葉を失う。側室にだなど、彼女にとっては迷惑この上ないことなのだと今更、気づかされたのだ。
確か、諏訪頼重の奥方が晴信の妹の禰ヶ(ねね)という女性だったはずだ。
「…そうですか。でしたら、由宇姫様と私は敵対する間柄ですね。私も詮無き事を申し上げました。ごめんなさい」
謝ると、由宇姫は表情を曇らせた。
しばらく、沈黙が落ちた。
桜が黙ってどうしようかと考えていたら、由宇姫は前方をまっすぐに見据えながら、こう言った。
「…佐野のお方様。名を教えてはいただけないでしょうか?」
「名をですか。私の名は桜と申します。郷里の城の庭に百年桜がありまして。春に生まれたからと父と母がそれにちなんで、私に付けた名です」懐かしみながら説明をすると、由宇姫は微笑んだ。
「綺麗なお名前ですね。わたくしは綿の木綿から取って名付けられたと聞いています。木綿は作り出す力を持っているのと、昔は神事の時にそれをお供えしたとか。神を祭る神族だから、そのような名をわたくしにつけたのでしょうか」
長々と話をする由宇姫の表情は穏やかだった。
桜はそれを聞きながら、岩谷城に残してきた父や弟たちのことが心配になった。そして、嫁いでいった姉の梅乃のことを思い出した。
姉とはもう二度と会えないだろう。
自分は側室とは名ばかりで人質に近いのだから。
「…由宇姫様もとても綺麗なお名前です。私は田舎者なので。諏訪のような名家の姫様と一緒にお話をしているのが未だに信じられません」
素直に言うと、由宇姫はおかしそうに笑った。
「そんなことはありません。わたくしの名をほめてくださるとは思いませんでした。武田の若殿は気に入りませんけど。桜様なら好きなだけいてくださってかまいません。また、こうやって、お話をしましょう」
由宇姫はそう言った後、桜にいろいろな質問をしてきたのであった。




