これからの愛の、はなしをしようか
“彼”を見つけた。
それはエルシーにとって、至上に勝る喜びだった。
エルシー・ランバートには、前世の記憶がある。
正確には、前世、とはちょっと違う。
それは前々世かもしれないし、前前々世かもしれない。
もしかしたら、その全てと言うべきなのかもしれない。
エルシーには、今世の自分を形成している、魂の記憶がある。
全ての道のりをはっきり覚えているわけではない。
ぼんやりとちょっとずつ、大切だったものを覚えているだけだ。
例えば、どこだか分からない狭い路地裏で、猫として生活していたことがあった。
覚えているのは、毎日差し入れをくれる優しい誰かの柔らかそうな手と、その手によく握られていた腐りかけの魚。
例えば、森の中で、小さな花を咲かす低木だったこともあった。
覚えているのは、花の蜜にやってくる蜜蜂と、種を食べるたくさんの小鳥の、鮮やかな青い色。
そんな中ではっきりと、なによりも鮮明に覚えている記憶がふたつだけある。
彼女は2度ほど、人間だったことがあるらしいのだ。
長い魂の旅のなかで、何よりも尊い、人間だったころの、記憶のふたり。
エルシーは、会えることはないふたりの人間に、ずっと焦がれながら、今までを生きてきた。
その日、エルシーは、富豪が集まる内輪のパーティにやって来ていた。
大規模なものではなく、ごくごく内輪向けの、仲のいい人だけが集まるパーティだ。小さくはないが、決して大きくもない、そんなパーティだった。
エルシーの父は社長の職についてはいるが、そう大きな会社ではない。
このパーティに来ることができたのは、父が若い頃からエンジェルとして支えてくれていた、とある大富豪のご厚意によるものだった。
繋がりを求めて止まない野心家の父は、1も2もなく頷いた。それから、次期を担うご子息ご令嬢がたくさん来ると聞いて、有無を言わさずエルシーを引っ張り出した。
エルシーは正直とても不満だった。
きらびやかで豪勢なこの場の空気は自分には合わない。
本当なら、今日は友達のアビーの家で、お泊まり会をする予定だった…つまり、クラブに行くつもりだった。
よそよそしい腹の探り合いのような会話にうんざりして、エルシーは一刻も早く家に帰りたいと思っていた。
今ならまだ、みんなはクラブで騒いでいる時間だろうと、そんな算段すら考えていた。
エルシーが“彼”の姿を目に止めたのは、ちょうどそんな時だった。
***
「ユリウス!…ユリウス?おおい、どこだ?」
木の上で微睡んでいたユリウスは、下から聞こえて来た大声に目を覚ました。
探し回っているらしい、下からは絶え間無く、ガサガサと音というがする。
「フェリクス。ここだよ、今降りる」
ひらりと降り立った青年をみて、上にいたのか、と彼は不満げに呟いた。どうやら、見当違いのところを一生懸命探してしまったことが気に障ったらしい。彼は、確かな容姿と実力を兼ね備えた、ともすれば尊大な男だった。
「ごめんってば。それでフェリクス、何の用だい?」
そう言うと、フェリクスは思い出したように虚をつかれた顔をした。そうだった、と先ほどの不機嫌そうな様子は何処へやら、上機嫌ににやりと笑う。
「カリスタスの結婚が決まったんだ。婚約式は明後日らしい。宴会だぞ!」
ユリウスは小さく笑った。フェリクスはこの街の男らしく、祭りや争い事が大好きだった。
「それは楽しみだ。カリスタスの名に恥じない結婚式を挙げてくれるだろう」
ユリウスは、穏やかな性格の青年だった。
それはこの時代では、決してよい性格とは言えなかった。
だからかどうか、ユリウスはこの街の青年たちの間では、とても浮いた存在だった。
そのことに関してあまり気にせずに生きてこられたのは、フェリクスがいてくれたお陰であると、ユリウスは気が付いていた。
(ーーー好き、だったのだろうか)
今でも、エルシーは時々考える。
同性愛が、当然の時代ではあった。ユリウスがフェリクスに、そのようなことを告げた記憶はない。しかし、ユリウスのその時の穏やかな心地よい感情を、エルシーはよく覚えていた。
何回考えようと、エルシーにユリウスの気持ちは分からなかった。あるのはただの記憶だけで、ユリウスの抱いていたあまりに穏やかなこの感情は、エルシーが同世代の男の子に対して抱く恋心とは、明らかに違うものだったのだ。
好意はあった。
間違いなく、大切な存在だった。
しかし、それが恋情であったかと聞かれると、それはエルシーには測りかねるものなのだった。
(ーーー“彼"だわ)
彼の姿を認めたとき、エルシーは唐突にそう思った。かつて美しかった青年は、この時代でもこの時代での美しさを誇っていた。
2度と会えることのない、心の中での安らぎでしかなかった“彼”の存在に、エルシーの心は独りでに高まった。
(“彼”は、覚えていてくれているのかしら)
美しかったフェリクス。
エルシーは、“彼”から目が離せなかった。
まさか、会うことができるとは思ってもみなかった。
空想とすら馬鹿にされるかもしれない、エルシーの記憶にだけ存在する、焦がれても会えない存在だと思っていた。
心臓は鳴り止まない。
気付いてくれないだろうか、と柄にもなく考えた。自分だと、ユリウスだと、気付いてくれないだろうか、と。
“彼”はそのとき、ちょうど広間から出て行くところだった。エルシーに背を向けて、自信ありげな背中はゆっくりと広間を後にしようとしていた。
知りたい、と、切に願った。
彼の顔も、名前も、エルシーには分からなかった。
やっと会えたあの人のことが知りたかった。
エルシーは咄嗟に、“彼”の後を追いかけて広間の外に出た。
***
フェリクスという男は、そこそこの名家の生まれのなかなかの美丈夫だった。
艶やかな黒髪と精悍な顔、鍛え上げられた筋肉を誇り、剣を握る姿は誰よりも様になった。それだけでなく、彼は強かった。一度戦争となろうものなら真っ先に勇んで戦に向かい、無事に帰ってきたと思ったら誰よりも快活に宴会を盛り上げた。
彼は正しくこの時代の理想を見事に体現した男で、当然のように人気者だった。
ユリウスは一方で、彼と生まれが近いというだけの何の取り柄もない青年だった。
穏やかな性格、蜂蜜色の髪と優しげな顔立ち。鍛えても筋肉のつかない線の細い身体つきは、軟弱者と影で散々揶揄されても何も言い返せないほどだった。かわりに秀でた学者としての才が、辛うじて彼の品格を保っていた。
そんな彼は、小さな頃からフェリクスのことを心から慕っていた。
常にリーダー気質であったフェリクスは、尊大な性格の中に優しさと寛容さを持っていた。フェリクスはユリウスの僅かばかりの才能を認め、評価してくれる数少ない友人の1人だった。
常に対等に自身を扱うフェリクスは、ユリウスにとって何にも変えがたい大切な存在だった。フェリクスも、そんな風に思うユリウスを知ってか知らずか、ユリウスとの関係をとても大切にしてくれていた。ユリウスは、フェリクスの唯一の親友だった。
「…んっ……ふ、…ぅ…」
エルシーは、“彼”のことをあっという間に見失った。この辺りに来たはずなんだけれど、と思いながら、きょろきょろと辺りを見回した丁度そのとき、エルシーは微かな音を耳にした。
「……ふふ、…。……ぅんっ…、…っ、はぁ………レオさま…」
漏れ出たような声と、劣情を煽るような音、そして小さく名前を囁く声は、淫靡な色気を纏っていて、そんな場面に遭遇することを全く想定していなかったエルシーは、柄にもなく真っ赤になった。
慌てて辺りを見回すと、ちょうど真横に伸びる廊下の、一番近い部屋の扉が半分ほど開いていた。
(ーーーーっな!)
その隙間からは中の様子がハッキリと見えてしまっていて、それが目に入ったエルシーは危うく声を上げそうになった。
それは彼女にとって、とても激しい衝撃だった。
美しい黒髪のご令嬢の、その細い身体を抱きとめるのは、あろうことか“彼”であったのだ。
エルシーは衝撃で身を硬くした。
目を見開いて固まって、彼女の頭は一瞬で真っ白になった。
そのとき、ご令嬢と情熱的なキスを交わしていた彼の瞳がふと引き上げられて、エルシーは彼と目が合ってしまった。
(ーーーっ!)
咄嗟にエルシーは、半歩下がって踵を返した。ひたすら早歩きで歩を進めながら、エルシーは何てこと、と小さく呟いた。先ほどの高揚感とは全く違った様子で心臓が鳴っていた。
慌てて会場に引き返しながら、エルシーは少しばかり気分が落ち込んでいることは考えないようにした。
(そりゃぁ、そうよね)
“彼”がユリウスのことを、覚えているはずがないのだ。エルシーが異常なのであって、“彼”に不満を抱くのは間違いであることは分かり切っていた。
それでも、エルシーは落ち込む気持ちを誤魔化すことは出来なかった。
(それにあんなにかっこいい人なんだもの、恋人がいるのは当然だわ)
ユリウスのことを覚えていない“彼”に、何かを求める方がおかしいのはよく分かっていた。彼に恋人がいるからと言って、自分がどこか裏切られた気持ちになるのは間違いであると、エルシーはちゃんと自覚していたし、彼が親しく笑いかけてくれないことに落ち込むのは、多欲あるとちゃんと理解していた。
そうやって一生懸命言い聞かせながら、もうすぐ会場に戻ろうという、その時だった。
(…えっ?)
突然後ろから誰かに腕を引っ張られて、エルシーは思わずバランスを崩しかけた。
「なっ…」
に、と続くはずだった言葉は、宙に消えた。腕を掴んだのは、粉うことない、“彼”だったのだ。
「……っ」
腕を引っ張られながら、エルシーは再び真っ白になった頭の中で、期待と困惑を感じていた。
まさか、もしかしたら、彼も覚えてくれているのだろうか。
それで自分を追ってきてくれたのだろうか。
あり得ないわ、でも…、…もしかしたら、もしかしたら、本当に、彼も。
そんなエルシーに、声を発することが出来るはずがなかった。ずんずんと腕を引っ張る“彼”に、期待と困惑でぐちゃぐちゃな頭のまま、エルシーは黙って引き摺られた。
***
「あっおいフェリクス!縫合したあと、暫く毎日消毒するんだぞって、言ったじゃないか。お前また面倒くさがって」
「ああ悪い。だってほらユリウスがきちんと縫合してくれただろう?お前に任せときゃ傷は綺麗に塞がるんだ、誰でも知ってることだろう」
全く悪びれないフェリクスに、ユリウスはため息を吐いた。
「それでも数日は消毒しなければ、フェリクス。膿が出来るだけならまだマシな方だぞ。大切な身体なんだから、大事にしろよ」
「ああ、ユリウス。相変わらずお前は心配性だなぁ。女房ができたらこんな感じかなぁ。あんまり人のこと心配しすぎると、早死にするぞ」
「フェリクス!」
からかうような声音のフェリクスに、怒ったような呆れたような声を出す。からからと笑ったフェリクスは、ぽんぽんとユリウスの肩を叩いた。
「まぁ、お前に心配してもらってるうちは俺は大丈夫だ。そんな気がする。これからも頼むよ、我が相棒」
着いた先は、先ほどの部屋にほど近い、同じような作りの部屋だった。バタンと乱暴にドアを閉めると、“彼”は同じようにやや乱暴にエルシーを引き寄せた。と思ったら息もつかせずに“彼”は勢いのままにエルシーに口付けた。
わけも分からないまま、エルシーは“彼”の口付けを受けていた。先ほどと同じ淫靡な音が、今度は直接耳元に届く。
口の中を這い回る彼に応え、戸惑いながらも彼を受け入れる。ようやく満足したらしい彼は、力が抜けかけたエルシーを両腕で支えると、慣れてるな、と笑みを滲ませて小さく言った。
「…あの?」
ようやくエルシーが声を発すると、彼はゆっくりと身体を話した。間近で彼の黒く艶めく瞳を見つめ、その瞬間、エルシーは確信した。
(ーーーーああ、“彼”だわ)
その瞬間、エルシーは何とも言えない感情に襲われた。懐かしいーーー愛しいーーー嬉しいーーー切ない。会えたのだわ、とエルシーは考えた。今までの人生で、常に焦がれてきたあの人と、自分はようやく巡り合えたのだ、と。
エルシーにとって、それは正しく運命といえた。
ぼんやりと見つめるエルシーに、彼は鷹揚に笑って失礼、とそう言った。その様子はどこかフェリクスを思わせて、エルシーの胸の中に確かな歓びをもたらした。
「お嬢さん。貴女の名前を聞いていなかった」
そう言って彼は、優しく微笑んでエルシーの手を取った。歓びに高鳴る胸を抑えながら、エルシーもつられて微笑むと、軽く膝を折って名を名乗った。
「エルシー・ランバートと申します。貴方のお名前は?」
エルシーがそう尋ねると、彼は一瞬驚いたように目を見張った。しかしそれも一瞬のことで、すぐさま隠すように柔らかい笑みに取って代わる。
「これは大変な失礼を。レナード・アディンセルと申します。以後、お見知り置きを」
エルシーは、途端に彼が驚いた理由を理解した。アディンセルと言えば、有名な大企業を束ねる高名な一族のうちのひとつだ。その中でもアディンセルは、イギリス貴族の血を受け継ぐ、正しく名門中の名門の一族だった。
「こ、これは大変なご無礼を…」
思わず声が震えたエルシーに、レナードは変わらず優しく笑って気にしないでと言った。
「これも何かの縁でしょう、お嬢さん。僕はどうやら、君に初めて会った気がしない」
(ーーーー…え、)
彼のその言葉を聞いた瞬間、エルシーは頭を3回も4回も殴られたような衝撃を受けた。
(ーーーそんな。…どうして…?)
それはあからさまな口説き文句だった。
彼はエルシーのことを全く知らなかったのだと、まるで頭から水を被ったように明確に理解した。
ユリウスのことを覚えていたわけでは全然なかったのだ。エルシーは、自分の頭の中が芯から冷えていくような感覚を覚えた。
それだけではない、彼はなんとも尊大なことに、エルシーの名前を覚える気がないとハッキリと口にした。その尊大さには覚えがあったが、彼にはフェリクスのそれとは全く違って、優しさの欠片もなかった。
「では、…なぜ…」
彼はエルシーの声が震えていることに気付いたのだろう、不思議そうな顔をした。エルシーは自分の空回りに対するショックで涙目になりながら、顔を上げて言い募った。
「ではなぜ、貴方は私にキスをしたの」
ユリウスのことを覚えていたわけではなかった。では、なぜ。
それを聞いたレナードは、驚いた顔をしたかと思えば次の瞬間あからさまな嘲笑を浮かべた。その様子に今度はエルシーが目を見開いたが、彼は全く気にする素振りは見せなかった。
「なぜ、だって。そんなに慣れているくせによく言うよ。君もどうせ、僕の見目やら家名やらに惹かれて、僕のあとを追ってきたんだろう。さっきのご令嬢と同じように、僕にお近づきになりたかったんだろう?だからそれを、叶えてやったまでだ」
あまりの言い草に、エルシーは一瞬唖然としてしまった。
なんてことだろう、彼は、エルシーが思い描いていたフェリクスの魂を持つ男とは、全く違う男のようだったのだ。
彼のその言葉を聞いて、エルシーは自分の浅はかさに、頭に血が上る思いだった。
彼が覚えているかもしれない、その期待感だけで抵抗も見せずに全てを受け入れてしまったことを心底後悔した。
それだけでなく、目の前で傲慢に振る舞うこの男にも失望と同時に怒りを覚えた。
「ーーーレナード・アディンセル」
必死で頭を冷やそうとしながら、エルシーは出来る限り冷静に冷たい声を出そうとした。彼のことを睨みつけると、彼はどこか、自分より下の者が足掻く姿を面白がっているだけといったような様子で笑っていた。
(ーーーーなんて男)
エルシーは遂に、怒りを抑えるのを辞めることにした。
「っ…痛ぅ…っ!」
ピンヒールのヒール部分がちゃんと当たるように、エルシーはあらん限りの力で彼の革靴を踏んづけた。
あまりの痛みに声も出せずに蹲るレナードを冷たい瞳で見降ろしながら、エルシーは精一杯侮蔑の響きを纏わせて告げた。
「アンタみたいな最低最悪の勘違い男、こっちからお断りだわ。言っておきますけど、すべて貴方の勘違いだから。私はあの時、偶然あそこを通りかかっただけだし、そもそもアンタの名前なんか全く知らなかったし、別にアンタの事なんて心底どうでもいいし!もう金輪際関わる事はないと思いますけれど、安心して頂戴、2度と私はアンタに顔を見ませんから!」
憤慨したまま、エルシーは勢いよくドアを開け放って外に飛び出した。
***
「痛い、いたいよユリウス。もうちょっと手加減してくれよ」
「自業自得だろ、セネカ。あんな街中で剣を振り回しやがって。こんな怪我で済んで良かったと思え」
手早く怪我の処置を行っていくユリウスの横で、手際のいいユリウスの手元を覗き込んでいたフェリクスが感心したように言った。
「…やっぱりお前、頼りになるなぁ」
一瞬フェリクスに目を向けたユリウスは、呆れたように溜め息を吐いた。
「なんだ、フェリクス。褒めても何もやらないぞ。“英雄"さんには特にな」
からかうようにそう言うと、フェリクスは困ったように頬をかいた。
「いや、俺はお前ほど頭良くないからさ。ああ、ほら、俺たちが2人でいたら最強だってことじゃないか」
「…フェリクス…」
「おいおい、冗談だぞ!なんだお前ら、揃って頭が固すぎるんじゃないか」
ケラケラと自分の冗談に快活に笑うフェリクスの顔が思い浮かぶ。
数ある記憶の中で、最も鮮明に残る、大切なひとつ。大切なひとり。
それから暫く、エルシーは最悪な気分だった。フェリクスとの思い出も汚された気分がして、思い出すたびにエルシーは本当に泣きそうになった。
(行くんじゃなかったわ、あんなパーティー!)
思い出すたびに震える唇を一生懸命噛み締めて、泣くもんかと気を張った。あんな奴のために泣いてやりたくないと思うエルシーは、その度にもう二度と期待なんかしない、と心に誓った。滲む涙に、二度とパーティなんかに行くもんか、とエルシーは強く思った。
しかし、現実はそうそう甘くなかった。
「エルシー!いるか?エルシー!」
大声でエルシーのことを呼びながら現れた父は、一目で上等とわかる手紙を握っていて、それを見つけたエルシーは、とてつもなく嫌な予感に襲われた。
「エルシー!お前、いつの間にかアディンセル卿のご子息と知り合っていたのか!」
大声で怒鳴られて、エルシーのいやな予感は的中した。
(ーーーああ、なんてこと)
目を付けられたんだ、そう思った。
あの時、アディンセルに逆らうとどうなるかなど、エルシーの頭の中には全くなかった。どうしよう、とエルシーは呆然と考えた。
「エルシー!おおおお前、お前ってやつは…」
目の前でぶるぶる震える父を前に、父の会社が潰されたらどうしよう、と考えた。同時に、この状況を回避するための言い訳を、エルシーは必死に考えていた。
「…あの、お父さま…「でかした!」…えっ?」
言い訳を遮られ意味が分からないエルシーを尻目に、父は先ほどの怒鳴るような口調でそう叫んだ。
「でかした!でかしたぞエルシー!さすが我が娘!見ろ、招待状だ。アディンセル家のパーティに、お前と連名で招待されたのだ!パーティは来週だ。今までで一番いいドレスをあつらえよう」
小躍りしそうな父の横で、エルシーは茫然と宙を見つめていた。
『二度と私はアンタに顔を見せませんから!』
自分が投げつけた言葉が蘇る。
(ーーーーありえない、ありえないわ)
エルシーは心底行きたくなかった。だいたい、なぜ彼があんな言葉を突きつけたエルシーのことを招いたのか、全く理解できなかった。
「…あの、お父さま…?私、行きたくありません。お父さまだけで行ってきてください」
躊躇いがちにそう言うと、機嫌良く笑っていた父が一瞬固まった。
「…それは無理だよエルシー。かの家は、お前と連名での招待状をくれたんだ。つまり、私ではなくお前を招待したかったのだろう。私が1人で行くことはできない。お前も一緒に来るんだよ、エルシー」
エルシーはうな垂れた。家長である父の言葉は絶対である。そう父に言われてしまっては、エルシーは諦める他に道がなかった。
***
ユリウスという男は、学者だった。同時に、今で言うところの医者を生業としてた。
剣の変わりに本を持ち、その腕は変わらずに細かった。男のくせに剣の技量を磨くこともなく、戦地にも積極的に赴かない彼のことを、揶揄する声は当然多かった。剛健なフェリクスの隣に常にいることが、より一層それを際立たせた。
「やぁ、セウェラ。フェリクスの調子はどうだい?」
「ユリウスさま」
フェリクスは、怪我を放っておいたせいで案の定熱を出して、自宅で伏せっていた。様子を見に彼の家へと踏み込んだユリウスは、あまり芳しくない彼の様子に呆れたように溜め息を吐く。
「だから言ったんだ、フェリクス。全く本当に君ってやつは」
「…ああ、悪いユリウス。俺はどうやら、失敗から学ぶ人間だった」
いつもの覇気は何処へやら、フェリクスはぼんやりとそう呟いた。ユリウスは再び、溜め息を吐いた。
「ああ残念だがフェリクス、それはとっくに知っているよ。ゆっくり身体を休めるといい。差し入れはセウェラに渡しておこう」
エルシーは、ひたすらに憂鬱だった。引きずられるようにアディンセル家の豪勢な屋敷の前にいた彼女は、既に完全に逃げ道がなくなったことをはっきりと感じていた。エルシーの気持ちはほとんど最高に憂鬱であると言って良かった。
父に腕を取られながら、エルシーは絶望にも似た気持ちを抱いていた。パーティでは主催者に挨拶をしなければならない。少なくとも、一度はレナードの近くに行かなければならないことに、エルシーは絶望していた。
(始まったら壁の花と化す。絶対に化す。あるいは会場の外に出る)
そんなことを考えながら、エルシーはそれこそ父に引き摺られるように会場に向かった。
早く終わってくれますようにと、始まる前から既に終わりを考えていた。
「お招き頂き感謝いたします、アディンセル卿」
パーティの主催者は、当然のように妻と息子を伴っていた。頭を下げる父に合わせて、エルシーは膝を折った。隣に立つ息子と絶対に目が合わないように、エルシーは視線を落とした。
「はじめましてと言うべきかな、ミスター・ランバート。会えて光栄だ」
声からして威厳が滲み出ているアディンセル卿は、鷹揚に構えながらもその口調に親しみ易さを滲ませていた。きっと微笑みを浮かべているに違いない。息子とは大違いだわ、と隣に立つ革靴を睨みながら、エルシーは心の中であざ笑った。
「ええ、私も、こんな場所でお会いできるとは思っても見ませんでした。至極光栄の極みでございます。まさかあなた様のパーティにお招きいただけるとは」
低頭してそう言う父に、なぜかアディンセル卿はくすくすと声を立てて笑い始めた。不思議に思ってようやくエルシーが顔をあげると、穏やかな笑みを浮かべたアディンセル卿とその奥方が、なぜかこちらを優しく見つめていた。
「いやいや、お礼を言うなら貴方の美しいお嬢さんに。私の息子がずいぶんと世話になったようだ。どうしてもと頼まれてしまってね」
(ーーーーーなっ!?)
声を出さずに済んだのは、それこそ奇跡と言って良かった。驚くような勢いでアディンセル卿から隣に視線を移し、そしてそこに立つレナードを思いっきり睨みつけた。
睨まれたレナードは、エルシーに向かってにやりと笑うと、次の瞬間あからさまに胡散臭い笑みを貼り付けて父に告げた。
「そう言うことなのです、ミスター・ランバート。失礼ですが、お嬢さんをお借りしても?」
これが彼からの意趣返しであると、エルシーが気付かないはずがなかった。しかし、既に時は遅かった。輝かんばかりの笑みを浮かべた父に、エルシーが何をも言えるはずがなかった。
前を行くその背中を睨みつけて嫌々従いながら、それでも無言を貫き通したのは、彼女の少しばかりのプライドだった。
「二度と顔を見せないんじゃなかったっけ?」
嘲笑うような嫌な笑みでそう言うレナードを、エルシーは出来うる限りの鋭さで睨みつけた。彼女は怒りのままに、唇の隙間から絞り出すような低い声をだす。
「だ れ のせいだと思っているの!…ええそうですわレナード・アディンセル。貴方がそう仰るならば、ご要望通り私は二度と貴方の前に顔を見せません。それでは、ごきげんよう」
絞り出すような低い声でそう言ったあと、エルシーはにっこり笑って踵を返した。そして、足早にその場から離れようとする。
しかし、思いがけず彼が腕を掴んできて、目論見は見事に失敗した。掴まれた腕のせいでそれ以上先に進めなくなったエルシーは、溜め息を吐いて仕方なく振り返ったあと、再び彼を睨みつけた。
「それには及ばないなエルシー・ランバート嬢。僕はどうやら、君を気に入ってしまったようだ」
エルシーは、その言葉をその言葉通りに受け取るほど、浅はかではなかった。
にこやかにそう言う彼の瞳は、酷く剣呑な輝きを伴っていて、エルシーの考えが正しいことを、何よりも雄弁に語っていた。
「お生憎様。貴方のことなんてお断りよ。さぁ、この手を離してちょうだい」
腕を振ったエルシーに、レナードは奇妙な愉悦の表情浮かべた。どんな復讐を企んでいるのだろう、エルシーは慌てて掴まれた腕を強く振り回した。
しかし手が離れてくれる気配は全くしなかった。それどころか、酷く楽しそうな顔で一瞬笑ったレナードは、腕を振り回すエルシーのことをぐいっと引き寄せて、あろうことかその腕の中に閉じ込めた。
(ーーっ、な、ななな、っ…!)
困惑して固まったエルシーに、レナードは愉しそうに喉を鳴らした。離れようと必死に腕を突っ張ろうとするエルシーが、敵わない自分に必死で足掻く姿が愉快だったようだ。
「俺は、あの夜のことを忘れないぞ、エルシー・ランバート」
低く囁く声は明らかに怒りの色を含んでいたが、耳元で囁かれたその艶のある声と掠める吐息に、エルシーは自分の心臓の音が激しくなるのをはっきりと自覚してしまった。勝手に鳥肌が立ってしまって、エルシーは自己嫌悪に頭が沸騰しそうだった。
「はっ、なして…!」
どうにか逃れようとめちゃくちゃに力を入れてみるが、あろうことか彼はその腕の力をさらに強くして、ぎゅうぎゅうと苦しいくらいにエルシーを締め付けてきた。
「…お前は俺が嫌いなようだが、安心しろ、俺もお前が大嫌いだ」
愉しそうにくつくつと笑う声はやっぱり耳元で吐息混じりに響いてきて、エルシーはもう、何のせいで顔が真っ赤なのか分からなかった。
(どこまでも最低な男だわ…!)
悔し紛れに彼の身体を叩きまくる。変わらず愉しげに喉を鳴らしていたレナードは、無様に足掻く姿にようやく満足したのか、少しだけ腕の力を緩めた。
「んなっ!!!」
しかし次の瞬間、エルシーは最早、声を発さずにはいられなかった。あろうことか、彼はエルシーの耳を、舌でなぞり始めたのだ。
「…や、やめ…っ」
一瞬固まった後のエルシーの抵抗は、より一層激しさを極めた。そんな様子を全く意に介すことなく、レナードの舌は耳を這い回る。
ぐちゅぐちゅという嫌な音が、耳に直接響く。柔らかく暖かい、奇妙な感触の舌が、耳を濡らすのがまざまざと感じられた。濡れたまま空気に触れた耳が、ヒヤリとする。
今度こそエルシーの抵抗は猛烈だった。死に物狂いの抵抗に、少しすると思いのほか腕あっさりと外されて、エルシーは急いで自分を辱めて愉しむ悪魔から身を遠ざけた。
拭うように耳を触ると、べっとりと唾液が張り付いて、再び鳥肌がだった。今度は明らかに嫌悪感が優っていた。
「っしん、じらんない、この悪魔!!」
吐き捨てるエルシーを嘲笑うような笑みを浮かべたままのレナードは、エルシーがあけた距離を何ともなしに縮めて耳許で再び囁いた。
「あの日の屈辱は忘れない。俺はお前を赦さないからな」
茫然と固まるエルシーに、レナードは満足げに爽やかな笑みを浮かべて、踵を返した。
フェリクス!
ユリウスの呼ぶ声が、遠くで聞こえる。
何よりも大切だったフェリクスの魂を持つ男は、とんでもない悪魔だったのだと、エルシーは泣きたい気持ちで理解したのだった。
読んでくださりありがとうございます。
20世紀初頭のアメリカが舞台のつもりの、ヒストリカルロマンスのつもりです。つもり。
途中で(超一瞬)出てきたクラブは今のクラブではなく踊り明かせるパブやら居酒屋のイメージでお願いします。
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