9月14日午前11時頃 警察官 「田原 英彦」 来婆山登山道入り口にて
「警部、このまま山中に踏み込むのは危険です。」
そのように私が発言しても、警部は何も聞いていないかのように山の方を
睨んでいた。だが、私には警部の気持ちが痛いほど分かる。悔しいのだ。
警部は一家惨殺事件が起きてから半年間、それこそ一睡もしないで犯人の娘を追ってきた。それが現在目と鼻の先、この来婆山に潜んでいることが分かっているのに、手を出せないでいる。
信頼できるタレコミを受けて丸一日。時間が経てば今以上の苦痛を感じることになるだろう。それでも私は警部に進言しなければならない。
「警部、これより何時間か後に台風が来ます。このまま我々が山中に踏み込
んでも無駄な被害が出るだけです。落ち着いてください」
「私は落ち着いているつもりだ!」
発言とは裏腹に、その語気は荒々しい。
「落ち着いていませんよ。普段の貴方らしくない。
気持ちは分かりますが……」
「君に私の気持ちが分かるのか?ならば君は妹を殺されたことがあるのか?
その家族をバラバラに切り刻まれたことがあるか?どこかで聞いたようなこ
とをほざくなよ」
私はその言葉を聞き、胸が締め付けられたように感じた。もし同じ立場だったら、私も冷静ではいられないだろう。しかしそれでも、冷静な人間には、興奮し愚行を行おうとする人間を止める義務がある。少なくとも私はそう考える。
「確かにあなたは今、想像を絶するような苦しみを感じているのでしょう。しかしどんな理由でも、他の人間を巻き込むような行為をしてはいけない。それでは……犯人である貴方の姪と同じです」
私のこの言葉を聞き、警部の表情が変わった。その表情はいつもの、部下を励ます穏やかな表情となった。
「……そうだな。少し焦りすぎたかもしれない」
「では……」
「ああ、山中に入るのは明後日だ」
これでいい。私がそう思ったのは、残念ながら一瞬だった。警部の穏やかな表情は、いつのまにかそこに存在していなかった。それは先ほどとは違い、厳しい表情になっていた。私には分かった。それは覚悟を決めた人間の顔だった。
「警部……」
警部はそれ以上語ることはなく、他の刑事たちに撤退を促すと自身も警察署へと帰っていった。
だが、私にはなんとなく分かっていた。おそらくこの後に警部は台風の中、険しい山の中へ入っていくのだろう。そのような行為は無謀としか言い様がない。
しかしそのことを警部本人に話しても止められないだろうし、周りの同僚に相談したとしても、根拠がないと相手にもされないだろう。そしてそれ以前に、私には最早警部を止める気がないのだ。どうしてここまで覚悟を決めた人間を止めることができるだろう。
私に出来ることは彼の無事を願うこと。それだけである。




