不思議の里
緑なす八重に重なる山々の
すがしき風は伝えたる
天の恵み地の恵み
幸い喜ぶものの声
天の階覗きたる
夫婦神
声に誘われ舞い降りる
神代の時代…まだ人の姿もまばらなこの山々を、二柱の神が天の階から眺めていた。
二柱の神はこの度めだたく結ばれ、新しい住まいとする地を探されていた。
階から覗き見る地から、恵みの声を風が伝えてくる。
感謝の喜びの声に誘われ、その地を見ると深い緑の山々…清い水の溢れる滝の姿…鏡の水面で天を映す池…神の住む天の原と見紛う美しい姿がそこにあった。
風が運ぶ声は鏡の水面を陽に照り返しきらきらと輝く池の側で、地に住むものが集まり恵みに感謝する祭りをしていた声だった。
人も獣もその地に住むものが等しく喜び舞う姿を御覧になった時、男神が女神に申されたそうな。
「夫婦となり我らの住まいを探すに、この地は相応しいと思うがいかに ?」
女神はその言葉を嬉しそうに受け取られ喜びの顔で頷かれる。
夫婦の神は手に手を取り、天の階からその地に舞い降りた。
地のもの達は舞い降りた夫婦の神の姿にたいそう驚いたが、この地を選び降りてきた喜びに崇め敬い神の住まいとなるこの山を守らせて欲しいと地に伏すようにして願った。
「皆の思いはわかった。邪な思いを持ち我らの意思に背くものは、滅ぼしてしまうがそれでも良いか?」
夫婦の神はそう伏し願うものに問いかける。
皆はその言葉に必ず仰られる事は守ります…と、そこに居たものは夫婦の神と約束をして鏡の池の水を分け飲み誓いを立てた。
夫婦の神の住まいは池の最奥へ定められ、人は山の四方を囲むように里を作り、山中に精霊や人でも特別な魂を持つ者が住む里が作られた。
山中の里は人が入ることは出来ない。入れるものは神と精霊の許しがあるものに限られた。
時が流れ…その時作られた人里は『守り人の里』と呼ばれ、代々神の山を守る事を伝えて山を守っていた。
山中の里は隠れ里と呼ばれ、『守り人の里』と神を繋ぐ役割を果たす。
神が住む山はこうして生まれ守られて来た。
隠れ里の何代目かのまとめをする者に、『桜花』という者がいた。
この者かなりの笛上手で、花に向かい吹けば固い蕾は花開き…空に向かい吹けば龍神が舞い雨を降らせる…そんな不思議な笛を吹く者だった。
隠れ里にこの者が住み始めたのは何時のことか誰も知らない。
ただ…この里をその頃まとめていた者がこの者を気に入り、人の里から連れて来たと里では噂されていた。
その姿は華やかな満開の桜を思わせ、立ち振舞いはそよ風に揺れる桜の花を思わせる事からその名も付いた…と里の者にはそう知られていた。
屋敷の庭から涼しい笛の音色が響いてくる。
桜花は縁に立ち、その笛の音色が響く方に向け声をかける。
「桜木…そこにおるのであろう?少し使いを頼まれてくれぬか?」
小さな文箱を手に桜花は桜木を呼んだ。
「はい。桜花様…すぐそちらに参ります。」
庭に咲き揃う草花の間から、年の頃は十三~四の少年が笛を手に姿を現した。
この少年…先頃この里の守りをしている、龍の緑翠王に連れて来られた者…名を『桜木』と呼ばれた。
元は都の楽士の家の子供で、ある事で緑翠王にこの里に連れて来られた。
この者も笛を吹き、その音色は人の心の陰りを吹き祓い悲しむ者には喜びを…怒る者には笑いをもたらし、聞く者の心を潤し癒す…そんな音色を奏でる者だった。
「桜花様…何かご用でしょうか?」
縁に立つ桜花に、桜木は用の向きを伺う。
「うむ…すまぬがの、東の滝のばば様のところに使いを頼まれてくれぬか?これを届けて欲しい。」
桜花はそう言いながら、手にした文箱を桜木に手渡した。
桜木はそれを大事そうに受けとりながら、すぐに行って帰ります…と答えた。
「東の滝までそなたの足なら夕刻になろう…今宵は、ばば様にお願いしておるから遠慮なく宿を借りなさい。」
桜花は笑みを浮かべながら、桜木にそう伝える。
それを聞いて桜木は頷くと、屋敷を出ようと一歩踏み出した。
「おお…そう言えば、常盤木殿がばば様のところにおられるそうな…
来る度そなたの笛が聞きたいと申されておるそうだから、今宵は丁度良い月夜…常盤木殿に笛を聞かせてあげなさい。」
「常盤木様がいらしているのですか?」
その言葉に桜木は振り返ると、嬉しそうな笑顔と声で問い返す。桜花は頷いて答えた。
嬉しそうな足音が庭から屋敷の外へ響き、桜木は使いを頼まれた東の滝に向けて出て行った。
その姿を見送りながら、桜花は先日桜木が来た時の経緯を思い出していた。
「緑翠王にも困ったもの…と思うておったが、あれをみると良かったか…来た時よりも明るくなったもの…」
桜花は一人誰に言う事なく呟いた。