第四話:出航
旅立ちは夕刻時に決まった。
シリルが言うには、『バーグ・ド・ラグフ』という凶暴な白ザメは、朝から昼過ぎを主にエサ取りの時間帯にしているそうだからである。巨大なだけに、人も襲うと聞く。
シリルは『船』の電気力量がMAXになるよう調整した。
「よし、いい感じだ。」
シリルは船と同様、ご機嫌だ。
まだ出発には早かったのもあって、シリルは再びリュックサックの中を確認し始めた。
……やっぱり本を持って行こう。
シリルは一冊の本を厳選し、シリル専用コートの大きな六つの『内ポケット』のひとつに一冊まるごと収納した。
アジズの方はと言うと、と言っても、何をしているのだろう。
空を眺めているようにも見てる。一番これがふさわしいだろうか。
「あの雲、どっから来たんだろうな。
海の向こうに見えるやつが家族だとしたら、ちょっとした散歩で、こっちまで遊びに来たんだな。ったくー、いいよなあ。」
アジズは何かうらやましがっているようだが、そんなアジズを見つけたシリルも、何かうらやましそうにアジズを見ている。
そろそろ太陽が夕日に化ける時刻だった。
「アジズ、ちょっといいか?」
シリルは、のんびりしているアジズに、照れ臭そうに話しかけた。
アジズは、夕日に染まる海辺を見ながら、耳だけを傾けた。
「ありがとうな……。」
シリルはそう一言、つぶやくように小声で言った。
アジズはじっと、不規則に光る海の波を見ながら答えた。
「どういたしまして、なんて言えるか?」
アジズは一度もシリルの方に振り向かなかった。
「旅が終わってからにしろよ。」
シリルはこの一言に、アジズの決意を感じた。
「……ああ、そうさせてもらうよ。」
シリルはもうアジズの調子には慣れっこだった。
アジズは時々、言葉の選択を誤り、シリルを傷付けることがあった。しかし、アジズの思いやりの表現である『痛い言葉』の裏、もしくは中には、アジズの優しい想いがある。
これに気付けない人なら誰でもアジズを嫌うことができる。
逆に、気付いた人にとっては、アジズを遠ざけるなど容易なことではないのだ。
「夕日がきれいだな。」
アジズは、出発を目前としても、やはりアジズだった。
二人は夕日を見つめる。
どう描けば、こんな夕焼け色を表現できるだろうか。
こう見ると、空も海も広いものだ。
アジズたちが、村が、森が、ちっぽけに感じられる。
二人が暮らしている“世界”は案外狭すぎた。
もう少し広くてもいいだろと、誰も言葉にして訴えはしないが、未知の“世界”を切り開こうとすることは、誰もがやっていること。
この世界の創造主はきっと、世界を広くつくり過ぎたのだ。どうすればすべての“世界”を得られるというのだ。
「さあ、そろそろ冒険に出るとしよう。」
シリルは言った。
「ぼうけん?」
アジズは分からない単語に対して、いつも通りの反応をした。
「『旅』は分かって、『冒険』は分からないのか?……そうだなあ、僕たちが今から始めようとしている旅が、ある意味冒険かな。……あまり説明になってないか?」
アジズは感覚で『冒険』を理解しようとした。
冒険に出る前のこの気持ちと重ねて、その言葉に偉大さを感じているようだ。
「すげえな、冒険って。」
「本当に分かって言ってるのか?……ったく、お前っていう奴は……。」
シリルは肩をすくめて苦笑いするようにしたが、これはシリルの癖で、内心嬉しいような、何かほっとしているようだ。
いつの間にか、夕焼け空は青紫色を帯びてきて、夕闇が辺りを覆い尽くした。
二人は、短いか長いか分からないが、旅に、冒険に出る。
夕闇が支配する、二人が狭いながら暮らした“世界”を離れて。とうとう船が動き出す。
もう後戻りできないことなどないのに。
船は夕闇から逃げるように真っすぐ進んでいく。
夕闇の向こうに新たな“世界”を求めて。