第三話:親父
シリルの家は借り家だった。
シリルは家主のピーターさんに、当分の間留守にすることを告げた。
当分と言っても、帰って来れるかどうか分からない。
いっそうのこと、借り家から出て、誰かに明け渡した方がいいように思えた。
しかし、シリルが何年間も費やして集めた資料や本、それに実験器具といった大量のお荷物が行き場を失ってしまうのだ。
シリルはピッツバーキング図書館で働きながら稼いできた全財産をピーターさんにメモ書きして置いていくことにした。
「どうせ旅には使えそうにないしな。きっと……。」
ちょっぴり寂しそうにも見えたが、気のせいのようだ。
アジズは朝一番、自分の家に旅のことを告げに帰った。
海辺の道はまだ少し薄暗かったが、家に着いたときには、いつものように鳥の声が聞こえ始めた。アジズが家に帰ってくるのは久しぶりのことであったので、親父は、皺を緩めて心から迎えてくれた。
いつも叱られっぱなしだったアジズだから、親父の笑顔を見ると嬉しくなった。
どう話を切り出そうかと考えていると、親父の方が先にこう切り出した。
「何か言いたいことでもあるんだろう?そんな目して……。」
アジズは心の中に、細かい、しかし重い『何か』があふれ出てくるのが分かった。
少し開いた口はそのまま動かなくなった。
……自分は親父に寂しい思いをさせてしまったようだ。
アジズは十歳のときに家を出ていった。
そして、それからと言うもの、狩りをして生計を立て、野宿するか、もしくはシリルの家に泊めてもらうかして暮らしていた。
原始的、野性的と言えようか、アジズは責任という重圧を避けてここまで来た。
「親父……、オレ……。」
アジズは何となく涙を目にためていた。子供のときのように、叱られた訳でもないのに。気持ちとは分からないものだ。本当に何となく涙が目を潤す。心の整理もつかず、複雑にからみあった感情は、アジズを支配して離さない。
「なんだ、言ってみろ。そんなに泣くほど悲しい知らせか?俺はもう、母さんが死んだときのあの気持ちを知ってるんだ。どんなに辛いことだって耐えられると思ってる。ほら、アジズ。俺の知ってるお前なら、人を辛くさせることが得意なはずだぞ?」
アジズは辛かった。
そういえば、母さんにもかなり迷惑かけたなあ……、なんて思い起こす余裕は持ち合わせてなかった。アジズは、今ここに自分がいるということが不思議でたまらなくなっていた。
確かに、アジズの過去は散々だった。
しかし、家を出てからというもの、一人幼くも生活しているシリルと出会い、アジズは友の温かさを知った。
もし、これがシリルでなかったら、随分変わっていただろうが。
ただ、アジズが劇的に変わった訳ではない。
根本的なところは、生まれから恐らく死ぬまで変わらないし、変えることもできないだろう。
アジズの場合、核となる部分が誰に劣らず純粋で、付属として多くの問題の種を持っていた。
なぜ、花が咲くまで、その種に水をやり続けてしまったのかは以前のアジズに聞くしかない。
重要なのは、不滅の花など『ない』ということ。
必ず枯れ、新たな種を残して去る。
その種のひとつが発芽して、再び花を咲かせるようなことになれば、アジズは人の心も知らず、自由奔放に振る舞い始めるだろう。
今のアジズは、過去とは縁の切れない存在ながら、未来に向かって成長している。
「……親父、オレ、もう二度と生きて親父に会えないかも知れない。」
「……それで?」
アジズは促されるがままに続けた。
「だから、その……、許してもらおうと思って。」
アジズは上手く全てを伝えられずにいたが、用件を伝えることには成功した。
「ばか。俺が許す許さないを決めたところで、何も意味がないだろっ。」
「全く意味が無い訳ないよ!!親父がもし許してくれたら、オレは快く旅に出られるし、許さないって言ったときには、また何か考えるだろうし……。だから……!」
「旅に出るのか……。」
アジズが全て言い終える前に、親父はつぶやいた。
「お前が二度と生きて帰れないって言うほど、危険な旅なのか?」
「うん、多分……。でも分からない。海の向こうを目指して旅するんだから、誰も先のことは分からない……。」
この言葉は、親父からしては爆弾発言だった。
「海の向こうだって!?」
「う、うん……。」
親父は、本当に幼かったころのアジズの目を思い起こさせる、純粋な、今、目の前にいるアジズの目を見た。
こんな目を見たのは久しぶりだ。
アジズもいつの間にか成長していくものだなあと、親父は少し嬉しかった。
「詳しいことを聞いてみたいが、もういいだろう。行くなら行けっ。」
親父の顔はなぜか優しかった。
「……本当にいいの?」
「ああ。俺以外の誰かで、許すような奴はおらんだろう。それだけおかしな話ってことだ。海の向こうなんて考えたこともなかった。まあ、お前は挑戦したいようだしな。どうやって海を越えるかは気になるところだが……。」
アジズは説明しようと思ったが、なかなか言葉が出てこない。
一応のところまでは説明できたので、親父も納得はしていた。
「んじゃ、行ってくる。」
「おう、気をつけてな。」
普通ならこんな会話は出来ないだろうが、不思議なものだ。
アジズが単純なだけに、親父も単純なのだろう。