第十二話:月アカリ
森に闇が訪れた。
夜空にとどまる分厚い雲の輪郭が月アカリに照らされ、時間がとまった。
トリビューの町からそう遠くはないが、夜も聞こえるあの金属音は届いてこない。
そして、今日は珍しく、森のとある所でうっすら一筋の煙が立ちのぼっている。そこには若者が三人程、火を囲むようにして各々くつろいでいた。
「シリル、何してんだ?」
一人の若者が尋ねた。
シリルと呼ばれた青年はすぐには返事せず、その手に持っている本に何か書きこみを終えた後、他の二人にそのページを見せながら言った。
「アジズもヒナも、こいつを覚えているだろう?」
そこには見覚えのある塊。
「あのクマみたいな奴……。ヒナと最初に出会ったときに襲ってきた……」
アジズは記憶を引き出すようにして答えた。
その真っすぐな瞳は、いつもと変わらず健在だ。
「その本どうしたんだ?」
アジズはとりあえず聞いてみた。
「ヘンズさんに頂いたのさ。まあ、古い図鑑なんだが………ちょっとおかしな点があるんだ」
シリルらしい展開。
ヒナは図鑑のその『グローバー』のページを見つめながら、もの思いにふけているようだった。
「先ず、『体長一・五メートル、極小型』とあるが、僕たちの遭遇した『グローバー』は優に二メートルを越えていた。それに……」
アジズはとにかく集中して聞いた。そのおかげで、大体シリルの言いたいことがつかめた。
要するに、図鑑の『グローバー』とこの前遭遇した『グローバー』がどこか違っている。
……この程度が限界か。
ふと、アジズがヒナの方に目をやると、ヒナは、チリチリと音を立てる上機嫌な炎をぼんやり眺めながら、バチッという響きを楽しんでいた。
(………ヒナって、こうして見てみると……)
アジズはゆったりとした空気に包まれた。
だが、それもつかの間、シリルの重たい言葉が入ってくる。
「……だから、アジズ、気をつけろよ。これから先、何らかの影響のためか通常と異なる特性を持った、その上、狂って人を襲うような連中に出くわすかも知れないからな」
アジズは、シリルが本を閉じて、それをコート左脇の一番上の内ポケットにしまうのを眺めていた。
「……なんでオレだけ注意されるんだよっ」
「いざという時に剣を使えるのが、『お前だけ』だからだ。もし、前の時のような状況下に陥ったら、その時は僕たちの分『気をつけろ』と言っているんだ。分かるだろ?………僕の予想が当たっていれば、まだまだ剣を振るう機会は増える……。お前に頼るしかないんだよ」
アジズは再びヒナの方に目をやりながら、少し肩の力を抜いて考えた。
アジズは狩りをして、命を軽々と奪ってきた。
自分の中で、けじめのつもりで『狩りだから』と言い聞かせる。
生きるためには仕方ない。他の生き物たちの中でも狩りをする奴らはたくさんいる。
ただ、現人間は、今から食べようとしている肉を目の前にして、ほとんどがその肉の主の死に直面していないのだ。
アジズはその命が奪われる瞬間、いや、命を奪う過程に立ち会っている。
そういう訳で、一般人よりも少しは『命』とは何かについて既に分かっている気になってる。
そして、この『分かっている』と思い込んでいることが、とても危険なことでもあるということも、アジズは分かっている。
アジズにはとにかく、自信を持つ自信がなかった。
社会のルール上、人間は『食物連鎖』においてかなり上層に位置する数少ない種族の一つである。
もし、命を『おしまい』にすることが、この世で最も許されないことだとしたら……。
たとえ人間にとっては指先にちょこっと乗っかるくらいの虫であっても、その命は人間の命と同じ……。
そう考えると、たまたま人間の怒りに触れ、人差し指と親指の二本で一生を終わらされる虫の気持ちはたまらない。
……もちろん、ほとんどの人間が、逆にそんな殺し方は『気持ち悪い』と思い、自分たちの都合の良い方法で――手の汚れないやり方で――邪魔モノを潰しにかかるのだろう。
邪魔モノに認定されたのは気の毒だったねなどと、のんきに同情しながら……。
しばらくの間、アジズはいろいろと考えてみたけれど、はっきりとした答えが見つからないので、……というか、その『答え』がどんなモノなのかすら、まるで見当がつかないので、これについてはまた後日考えてみることにして、一先ず休もうと横になった。
そうやって、何度も何度も考えて、アジズはここまで歩んできたのだ。
全てに『素晴らしい答え』を導き出せた訳ではない。むしろ、全く考えがまとまらず、かえって混乱して迷うことの方が多かった。
はっきり一つに“答え”を絞る作業は一生をかけてでも慎重に行うべきだと、アジズ自身が何となく感じているのもあって。
ヒナとシリルは目を閉じておやすみ状態。
ひとり早めに横になっていたアジズは、二人が眠りについたのを確認すると、体を起こし、《一息ついてから》背もたれを探した。
背後にちょうどいい傾きの平面をもつ大きな岩……。
アジズはその岩に背中を支えてもらうことにした。
アジズにはちょっとした任務があった。
……『夜警』である。
二人が無防備にも寝てしまっているのだから、何かと対処できるよう待機しておく必要があるのだ。
アジズは前もって夜警を心に決めていた。
こうまでアジズを用心させたのは、あの『グローバー』――今のところ逃げるのが無難な相手――である。
星明かりの下、一人気配を吟味するという感じのアジズだが、ちょっと違った雰囲気の気配を察知した。
「……アジズ?」
その声はアジズをはっとさせた。
「……ヒナ、起きたのか?」
アジズはヒナと同じくらい小さく囁いた。
「ヒナは寝た方がいいよ。さあ、寝た寝たっ」
「……アジズは?」
ヒナのかすれるような優しい声……。
「オレは……もう少しのんびりしたら寝ようかなっ……」
二人はお互い、ほとんど声だけを頼りに暗闇と話をしていた。
「……本当?」
この言葉はなぜかアジズをしめつけた。
「……どうして?」
アジズはヒナの『本当?』の意味を知っていた。
「……声でわかるよ」
ガサッガサッと音を立てて、何かがアジズの隣に訪れた。
アジズは一瞬、様々な『敵』の姿を思い浮かべたが、星たちの光で微かに照らされた『それ』を見る前に、『それ』があたたかいものだと感じた。
旅二日目、今日こそは森をぬけたい。
シリルが手に握っているヘンズさんの便利アイテム『コンパス』は、地図と併用することで絶大な力を発揮した。 第一の目的地を目指し、一行は着ちゃくと進んでいった。
「ゴホッゴホッ……」
アジズとシリルは嫌な予感がした。
「ヒナ、大丈夫か!?」
シリルがアクシデントに戸惑う。ヒナの咳込みはひどくなる一方である。
「………仕方ない。焦らずに、今日はここで野宿にしよう」
シリルが提案した。
「いや、ダメだ」
ここで意外にも、アジズは拒否を示した。
その声は隠れた怒りを含んでいた。……ただ、『自分以外の何モノかに対して怒っている』のではないのは確かだ。
シリルはアジズの目を見るなり、すぐに言い直した。
「……森をぬけよう」
アジズはヒナを背負い、再びシリルの後ろについて歩き始めた。
シリルとの間隔は相当なものだったが、シリルは進むのをやめなかった。……シリルは、それでいいのだと分かっていた。
アジズはヒナを背中に、ゆっくりシリルを追う。そこには二人だけの空間があった。
「……お前、寝てないだろ」
アジズは小さく言った。ヒナは黙って聞いている。
もうだいぶ落ち着いてきたヒナだったが、まだ熱気が残っていて、ぼんやりとしている。
「もう夜警なんかさせるかっ……!」
アジズの声はヒナだけのものだった。
アジズがつぶやくように言った言葉も、全部聞こえる……。だって、こんなに近くにいるのだから。
「……嫌だ、手伝うよ。これからも……」
ヒナは本当に小声で訴えた。それでもアジズが聞き取れる、二人は距離にいる……。
「バカ言うな。とっくに体調崩してんじゃねえか」
「……違うよっ、これと夜警とは関係ないもんっ……」
ヒナは心の中で微笑んでいた。
「アジズだって、寝てないんでしょ?………交代でやろうって言ったのに」
「……だから、オレは寝とけって言っただろっ?! 誰も手伝ってくれとは言ってねえんだ」
アジズの『とげ』のある言葉。ヒナはちょっと心配になった。
「……本気で怒ってる?」
アジズはふと我に返った。
「………別に、怒ってるんじゃねえよ。ただ……」
いつもの素直なアジズなら、すっぱりと言えただろう、この時はなぜか次の言葉が口から出ようとしなかった。
沈黙は、最もおしゃべりする者同士を考えさせる時。その空気を嫌だと思い、軽い話題を探しては延々としゃべり続けるのも面白い。
……ただ、恐れてはならない。この『とき』の大切さは、はかり知れないのだ。
沈黙の時ほど、『今、相手が何を考えているのだろう』だとか、考えさせられる時はない。
お互い、自分の気持ちが空気に混じって、感じとられ易くなっているのだから、それを上手く利用して、相手を観察する者、自分の気持ちを伝える者がいてもいい。
……不思議な空間である。
アジズたちの沈黙は、“探索の沈黙”から“暗黙の沈黙”へと移り変わった。
二人は、『この張り詰めた空気を当然あるべきものだと考えよう』という協定を結んだのだ。
……アジズもヒナも、黙って自分を演じている方が楽だったからである。
相手が『沈黙』を気まずく思わないで、自分と一緒にいてくれるなら、これほど安心なことはない。
ふと気がつくと、目の前にシリルがいた。
丘から見下ろすように、視界いっぱいに広がる第一の目的地。
「……商業都市『ソメルシア』だ」
毎度ながら、数少ない読者の皆さまに感謝です…。あまり深い話ではないので、完結は意外に近いのかも…(深い話が書きた〜い!)。