来るべき前に
狗奴国に帰って来たスクネとタケヒコから、シンムはすべての話を聞いた。神代の事、カグヤの事、スクネとセイガの兄弟の事、そして、この世界が終わろうとしている事。どれもに普通なら信じられない話ばかりだった。それでも、普通ではない事ばかり体験して来たシンムは信じる事にした。否、信じるしかなかった。
だから、シンムは一番大事なことだけ聞いた。
シンム「姉貴はどの位、強いんだ?」
質問の内容はこれだけ。答え次第でシンムの願いに対する難しさが十分に分かるから。
スクネ「おれやタケヒコよりも遥かに強い」
答えたスクネの顔を見た。相変わらず表情の起伏が少ないが、シンムにもスクネが本気で言っているのが理解出来た。
シンム「そうか、よくわかんねぇけど、わかった」
タケヒコ「信じて貰えましたか? 正直信じるには、突飛な話ですし、信じれば絶望に打ちひしがれても仕方がない話でしたので」
明らかにタケヒコは心配そうな表情をしている。仕方ないとシンムは思う。ついこの間までの自分は、その程度の男だったのだから。
シンム「だから、今まで話してくれなかったんだろ? 少し前なら、タケヒコの言った通りになっただろうけどさ。今も心から信じているわけじゃねぇけど、今は信じるしかねぇし」
スクネ「それで、まったく問題ない」
感心した様子でスクネは言った。正直、少し腹が立つもの言いだったが、シンムは我慢した。そもそも、スクネはそういう男。そして何よりも、心も成長すると二人の父に誓ったのだから。
二人の後ろに控えていたイヨに、シンムは目を向ける。
シンム「とにかく、イヨの件だけどよ。おれを人質にして逃げたのは許してやる。その代わりに頼みがある。おれに鬼の印を刻んでくれ」
イヨ「許してくれるのはうれしい。でも……鬼の印をわたしが?」
まるで、イヨは怒っているかのような表情を向けて来た。
タケヒコ「シンム様、なぜ鬼に?」
シンム「今のおれの力じゃあ、役不足だ。だけど何にも出来ずに、結果だけ突きつけられて、後から自分の無力を後悔すんのは、二度とごめんだ!」
いぶかしがるタケヒコの問いに答える際、シンムは語尾を強くしてしまった。それが本心だから。何も出来ずに滅んだ伊都国、何も出来ずに死んだ父、何も出来ずに遠い所にいった姉。これ以上、何も失いたくなかったから。
そんなシンムにスクネが冷たく言い放つ。
スクネ「鬼でも役不足だ。相手は……」
今までならシンムは反発しただろう。だけど今は、別の理由でスクネの言葉を遮った。無表情のスクネが言おうとしている言葉の意味が、分かり過ぎる位、理解出来ていた。だから、最期まで聞く必要がなかったから。
シンム「それも、わかってる。それでも、今すぐに強くなる方法が、他におれには考えつかねぇ。おれは姉貴を助けてぇんだ」
スクネ「助けるか」
だから、シンムは強くなると決めた。自分に出来る事など、神を相手にする以上、何も無いかもしれない。それでも、少しでも強くなるしか、他に方法が無いから。
イヨ「わたしに、シンムさんをどうしても鬼にしろと言われるのですか?」
下を向いてイヨは言った。まるで何かを堪えるかのように、まるで怒っているかのように。
シンム「鬼の印って、強力な巫女にしか、入れられねぇんだろ? イヨの他に、この国には誰もいねぇ」
タケヒコ「イヨ様、わたしからもお願いします。シンム様の願い、叶えて貰えないでしょうか」
シンム「頼む」
頭を下げるタケヒコに続いて、シンムも頭を下げた。他人にシンムが頭を下げたのは、これが初めてだった。
イヨ「……わかりました。微力を尽くさせていただきます」
まるで泣き声のような声で、イヨは答えた。
周りに障害物が何も無い平地でシンムは座し、イヨに右腕を差し出していた。震えるイヨの手には、印を入れるための針と墨が握られていた。
イヨ「最後にもう一度だけ確認します。鬼になって得られる力は、実際に成ってみないと分かりません。最悪、まったく意味をなさない場合もあります。更に、シンムさんの年齢で鬼になれば、おそらく長くても十年ほどしか生きられません。それに……この国では、鬼は禁止されていたはずです」
シンム「全部わかってる。親父には悪いが、おれは大王にはなれねぇ。姉貴を助けるのに力が必要なんだ。やってくれ」
目と目が合った。決意の眼差しを向けるシンムの目を見たイヨが、悲しそうな眼差しで返す。わずかの間、その状態が続いた。
イヨ「わかりました。何処に彫りますか」
シンム「両肩に」
そう言うとシンムは目を閉じ、印を彫る際の痛みに耐えながら、過去を振り返っていた。倭国大乱の事、カグヤの事、伊都国が崩壊した日の事、本当の父親であるジョウコウの事。いろいろな事が駆け巡った。
機を計っていたわけではないのだろうが、丁度、過去を振り返り終えると、イヨが告げた。
イヨ「終わりました」
シンム「以外にあっけないんだな?」
目を開く。どのぐらい時間が経過したのかはわからない。ただ、最初に目に入ったイヨは、全身から大量の汗を流し、肩で息をしていた。
シンム「大丈夫なのか?」
イヨ「心配の必要はありません。少し疲れただけです。それよりもシンムさんこそ、何ともありませんか?」
シンム「おれは、別に何ともねぇけど」
イヨ「よかった。実際に印を入れるのは初めてだったので、少しだけ心配だったんです。よかったら、力を見せて貰えますか?」
シンム「いいぜ。おれも気になってたし」
もしもの時のために、イヨからある程度の距離をとってからシンムは集中力を高める。それに呼応して両肩の印が光り始める。だが、何も起こらない。
心配そうな目をイヨが向ける。どんなにシンムが集中しても、結局、両肩の印が光るだけで、何も起こらなかった。
シンム「何も起こらねぇじゃねぇか。炎とか、氷とか、何で出ねぇんだ」
諦めてシンムは横に置いていた都牟刈之達を掴んだ。都牟刈之太刀の刀身が光り出す。
シンム「何が起こってんだ?」
訳もわからず、シンムは都牟刈之太刀を振ってみる。何も起こらない。刀身は相も変わらず光っているのに。
イヨ「それ、伸びてませんか?」
いぶかしげなイヨの言葉を聞いて、刀身をシンムはよく観察した。確かに、伸びている気もする。一寸ほどであったが。
シンム「これだけか・・…」
鬼の力を解除して、シンムは都牟刈之太刀をその場に刺すと、がっくりと肩が落ちた。覚悟を決めて得た己の力が、あまりにも期待はずれだったから。
イヨ「すみません……お力になれず」
シンム「仕方ねぇ。今さらどうにもならねぇし」
駆け寄って来たイヨにシンムはそう言いながら、少し自嘲気味に笑った。その時、瞬間的に突風が吹いた。風でイヨがよろめき、倒れそうになるのを、シンムは受け止める。
イヨ「ありがとうございます」
シンム「いや……気にすんな」
何となく気まずくて、シンムはイヨの身体から手を放してから、足下に目をやった。足下に呪が一つ落ちているのが目に入った。
シンム「呪が落ちてたぜ。おまえのだろ?」
呪を拾い上げて、シンムはイヨに手渡す。
イヨ「記録呪? わたし、こんなの持っていなかったはずです」
シンム「なんか記録されてんのか?」
イヨ「音声が入っている様ですけど……これお義母様のかしら?」
呪を不思議そうに見つめながら、イヨは呟いた。
机の上に置いた呪を中央にして取り囲むように、シンム達は円を描いて立っていた。
タケヒコ「呪を発動させます」
机の上に置かれた呪にタケヒコが触れると、輝きが四人の瞳を照らす。輝きが消えると、やさしく気高い声が呪から発せられ始めた。四人はその声に耳を傾ける。
ヒミコ「この呪を聞いておられるという事は、イヨはおそらく無事なのでしょう。まずは感謝いたします。イヨ、あなたはその国で最後まで生きなさい、アシハラシジョウコウという偉大な大王ならば、あなたの居場所を用意してくれるはずです」
次の言葉までわずかに間隔が開いた。ふとイヨにシンムは目をやる。涙が見えたが、ヒミコの声が聞こえたので、目線を呪に戻した。
ヒミコ「これから述べるのは、この戦いに勝利するため、わたしが準備した奇跡の全てです。一つ目は、イヨの存在。イヨは倭国大乱の最後に発動した神の暴走を利用して、破棄された世界から連れて来た神の器です」
不思議な事にシンムの脳裏に、当時の光景が映し出される。
目の前でコジロウを殺されかけているカグヤは現実を否定した。自らの存在をも否定した。泣き叫ぶカグヤを焦点に、紫色の光が放物線を描きながら爆発した。その爆発に飲み込まれた塩土の翁が崩れ落ちる。建物もすべて崩れ落ちる。暴虐の限りをつくしていた妖鬼は、未来の不繭国へと強制的に転移させられる。そして、一人の赤子を抱いた女性がその場に出現した。女性はヒミコだった。
赤子を抱えたヒミコは、塩土の翁が消えた辺りで紫色の呪を拾うと、安堵の表情を見せる。それからコジロウにヤマタノオロチを渡して、すぐに受け取ると消えていった。
脳裏に映し出された光景も終わる。はっとしてシンムはイヨに目をやる。顔色が悪い。恐らく、イヨも自分の誕生の秘密を知らなかったのだろう。同様の経験をしたシンムには、その辛さがよく分かった。
ヒミコ「二つ目は、アシハラシジョウコウと、都牟刈之太刀の存在。ジョウコウは人でありながら、天人をも遥かに超越した力を持ち、おそらく四魂とも戦い得る唯一の人物です。ジョウコウのような者が人の中に現れるのを待ちました。ジョウコウ、そこに居られますか? 貴方様の剣は、キサラギさんが神を撃ち滅ぼすために打った剣です。必ずや勝利に導いてください」
先程と同様にシンムの脳裏に、その時の光景が映し出される。
一心不乱にキサラギは剣が打っている。刃は弧を描き、五尺はあろうかと思われる程に長い。作業はすでに焼き入れを行っているようだった。その光景に違和感を覚え、すぐに理解した。急冷に使われている水が真っ赤に染まっている。見ると女性が手首を切り、血を滴らせて水を真っ赤に染めていた。
焼き入れの後、キサラギは刃を確認すると、手首を切った女性に向かって頷いた。女性も頷き返すと、手首に包帯を巻いた。
呪から流れるヒミコの言葉は続く。
ヒミコ「三つ目は、わたし自身の存在。この件のために、伊都国までタケヒコが一人でヤマタノオロチを持って来て下さい」
ちらりとシンムはタケヒコを見た。ヤマタノオロチを手の平に置いて、見つめていた。
ヒミコ「最後になります。神は全知全能ですが、常に全てを把握している訳ではありません。知っていても、または知ることが出来ても、気付いていないことがあるのです。それが唯一の弱点です。わたしの言葉を信じるかどうかは、お任せします。わたしは伊都国で、タケヒコが来るのを待っています」
最後の言葉が終わると、呪は色を無くしただの石ころと化した。
呪から流れるヒミコの声が終わると、顔を真っ青にしているイヨに、シンムは話しかけた。
シンム「あんまり気にすんな……とか言っても無駄か。とりあえず、これからを考えようぜ」
タケヒコ「あまり慰めにはならないでしょうが、破棄された世界に未来はありません。その世界から連れて来られたのでしたら……」
手の平の上に置いていたヤマタノオロチを隠すように握り締めながら、タケヒコは言った。
イヨ「お義母様は、わたしを何と思って……」
絞り出すようにイヨは口を開いた。心底辛そうな表情で。
スクネ「道具だ」
即答だった。いつもの無表情でスクネは言い切った。
シンム「スクネ、てめぇ、言っていいことと、わりぃことの区別ぐらいつけろ!」
頭に来てシンムは、思わずスクネを殴りつけた。殴られた事を気にもせず、スクネは言葉を続ける。
スクネ「そう言われたら満足か。それとも他人のおれから「本当の子だ」と、言われたら満足か」
当惑して言葉を無くした様子でイヨは口を動かしている。目線を、スクネがシンムに移してから言葉を続ける。
スクネ「こいつが正気とは思えない言葉を口にしたはずだ。これからを考えようとな」
背中をタケヒコに叩かれた。何か言おうと思ってシンムは言葉に詰まる。
シンム「とにかく、とりあえず、がんばろうぜ」
かろうじてシンムが絞り出した言葉だった。青い顔をしたままだが、イヨがしっかりと頷く。それを見てシンムはどうしていいか分からず、ただ立ち尽くしていた。
一人の兵士が駆けこんで来た。その兵士は息を切らしながらも冷静に言った。
兵士「妖鬼です。妖鬼が大地を覆い尽くすように、大群で国境辺りまで迫って来ています。ショウセン様達がお呼びです、急いで来て下さい」
駆けこんで来た兵士の言葉に頷くシンムの横で、スクネとタケヒコの二人が言い合いを始める。
スクネ「どうする、タケヒコ」
タケヒコ「わたしが一人で伊都国に行くかどうかですか?」
スクネ「他に何かあるか」
タケヒコ「ヒミコを本当に信じてもよろしいのでしょうか。あの方はいったい何を考えて……神の降臨を」
スクネ「さあな。ただどちらにしろ、今のままなら……先はどうなるか、わかっているはずだが」
タケヒコ「わたしは……」
明らかな迷いの色を見せるタケヒコに、シンムは言い放った。
シンム「タケヒコ、命令だ。伊都国へ行って来い」