収穫祭 裏
小さな鳥の形をした妖鬼がシンム達の家の中を徘徊していた。それはイヨが生み出した妖鬼。ヤマタノオロチを探し出すために生み出した妖鬼。
現在、家の中には誰もいない。なぜならイヨ本人の目の前に家主達は今いるのだから、誰一人いるはずがない。しかも、外では宴が催されており、多少音を立てても誰かに気づかれる心配は少ない。
イヨ「ここに必ずあるはずです。今の内に探し出さないと」
祈りが終わった直後から、妖鬼に自らの意識の一部を移してイヨは行動を始めた。それでも時間はかけられない。いつ何らかの理由で気付かれるかわからないから。
それを薄暗い物陰から見ている小さな妖鬼がいた。
タケヒコ「やはり動き出しましたか……本当は、罠を張って待っているのはあまり好きではなかったのですが」
あらかじめタケヒコも妖鬼を生み出して隠れさせていた。
自分を見つめる妖鬼の存在に気づかずに、イヨは家の中を探し回る。一部屋探しては次に移る。そして、最後の部屋でイヨは予想もしてなかった第二の来客の存在に驚愕する。
その来客は妖鬼も何も使わず、そのままの姿だった。
ヒミコ「イヨ、あなたですね」
敬愛して止まない養母の姿がそこにはあった。予想だにしなかった対面に、小さな鳥の形をしたイヨが驚きの声を上げる。
イヨ「お母様なんでここに?」
ヒミコ「ヤマタノオロチを回収するために」
実際には二人は声を出したりはしていない。養母であるヒミコが、イヨに精神感応の力で直接語りかけただけ。鳥の形をしたイヨの生み出した妖鬼に表情などない。それでも、何イヨの意思を反映してか、どこか驚いた様な顔をしていた。
イヨ「それでしたらわたしが」
ヒミコ「あとは任せて、あなたはこの場を早く立ち去りなさい」
イヨ「お義母様が堂々と行動されていたら目立ちませんか?」
ヒミコ「その心配はありません」
イヨ「でしたら、共に探した方が早く見つかりませんか?」
ヒミコ「場所はもう分かっていますから、これ以上探す必要はありません」
イヨ「そう言われるのでしたら……でもどこに?」
義母であるヒミコの言葉はイヨにとって絶対。いつでも義母は間違わない。そして、すべてを包み込む様な優しさがあった。だから、少しでも力になりたかった。棄てられて、幼い頃に死ぬしかなかった自分を拾い、大事に育ててくれた義母の力に。
ヒミコ「ヤマタノオロチはタケヒコが持っています。それに……」
他の者が誰一人見た事ないだろうとイヨが思う表情を、ヒミコが見せている。もっとも、イヨだけが知っているのは表情だけではない。昔負った傷が原因らしく、醜く半身がしおれているが、それでも義母の美しさは変わらないとイヨは思っている。とはいえ、幻覚の力でそんな姿を表に出した事はないらしい。
そんな義母にイヨが話の続きを促した。
イヨ「それに? どうかなされたのですか?」
ヒミコ「それに、あなたにこの場で言って置くことがあります」
イヨ「何でしょうかお義母様?」
ヒミコ「タケヒコ!」
その名を口にした途端ヒミコの言葉使いが強くなって、義母の温かい表情から邪馬台国の女王としての冷たい表情へと変わる。
ヒミコ「話はまた今度にします。イヨ、あなたは早くこの妖鬼との連結を解いて戻りなさい」
イヨ「突然どうしたのですか?」
何が突然起こったのか分からずにイヨは困惑している。そんなイヨを余所に、ヒミコが冷たい声で突き放す。
ヒミコ「イヨ、あなたがこの場にいては邪魔だと言っている」
イヨ「お義母様どうしたのですか? 何がいったい気に障られたのですか?」
ヒミコ「仕方ない」
そう呟くとヒミコは氷結呪を取り出した。氷結呪は輝きを発すると、イヨが生み出した鳥型の妖鬼を凍らせた。そして、凍った妖鬼を呪の中に封じた。
部屋の隅でそんな二人を眺めていた妖鬼がいた。それはタケヒコの妖鬼。
ヒミコ「そろそろ出て来たらどうだ」
冷たい目に能面のような表情で、ヒミコが妖鬼に視線を向けている。その視線から逃れようとはせずに、堂々と正面からタケヒコは出て行く。
タケヒコ「やはり、気付かれましたか」
ヒミコ「そなたには感謝した方が良いか?」
タケヒコ「あなたのお好きな様にお取りください」
二人の会話はそれだけで成立していた。名を変えても、タケヒコに取っては彼女が彼女のままであれば、その欠片でも残っていれば、感謝の意味が先程の鳥型の妖鬼であることは明白だったから。
ヒミコ「なれば止めて置こう」
目を細めながらヒミコは言った。殺気を放ってはいない。その気にヒミコがなれば、この妖鬼なら一瞬で殺されるだろう。そうされないのはありがたかった。一瞬で殺されれば会話など不可能だったから。
タケヒコ「あなたには聞きたい事があります」
ヒミコ「今さら何を聞く?」
断りをヒミコは入れたりはしていない。だから、タケヒコは彼女の真意を知り得る恐らく最後の好機だろうと思いつつ問い始めた。
タケヒコ「なぜ、キサラギ様を殺されたのです」
ヒミコ「他には?」
タケヒコ「なぜ、あなたが神を降臨させようとするのです」
ヒミコ「まだあるか?」
タケヒコ「他にも聞きたいことは山ほどありますが……とりあえずは」
そこまで言ったタケヒコの小型の妖鬼を、ヒミコは手の平の上に乗っけると顔の近くに近付けた。彼女の顔がタケヒコの眼前に広がる。
ヒミコ「なるほど……先程の礼だ、一つだけ答えよう。どちらか選ぶが良い」
わずかの間タケヒコは真剣に思考してから選択した。
タケヒコ「なぜ神を?」
ヒミコ「愛するが故に」
あまりにも簡単にヒミコは一言で答えた。だが、それだけでタケヒコに理解出来るはずもなく必死に問いただす。
タケヒコ「愛とは何のことです? かつて、神をも敵に回したあなたが神の降臨を望む理由が知りたいのです」
ヒミコ「一つだけ答えると申したはずだが?」
タケヒコ「それだけで答えになると本当に思っているのですか」
ヒミコ「他に理由は無い」
彼女に関する過去の記憶をどう呼び起こしても、これ以上は答えてはくれないだろうとタケヒコは観念しながらも、問いを止めたりはしない。
タケヒコ「あなたは、本当にあの神を降臨させる気ですか!」
ヒミコ「逆に聞き返すが、降臨させないでどうする?」
彼女にタケヒコは言いたくは決してなかった言葉があった。その言葉を彼女に対して使う事は、初めて会ったあの日だけのはずだった。それでも、とうとうその言葉を口にする日が来てしまった。
タケヒコ「ヒミコ、あなたがどうしても神を再び降臨させるというのなら……わたしはあなたを斬る!」
ヒミコ「すまないが、まだそれをさせる訳には行かない」
小型の妖鬼を近くにあった机の上にヒミコは乗せると、背中を見せて遠ざかって行く。彼女の、ヒミコの背中目がけて小型の妖鬼が、タケヒコが、一縷の望みを抱きながら追いかけて行く。自ら情けないと思いながらも、タケヒコはすがるように言葉を口にした。
タケヒコ「斬られたくないのでしたら止めて下さい。それが出来ないのでしたらせめて訳だけでも」
ヒミコ「訳は言ったはず。今そなたと話す事はこれ以上ない」
タケヒコ「この場にはわたしとあなたしかいません、ですから!」
小型の妖鬼が机の上から落ち、床の上に倒れ込む。どうしても諦めきれないタケヒコが、決して口に出す事がなかった名を口にする。彼女の名を出来ればヒミコに対して出したくはなかったのだが、他に言葉が思い浮かばなかったから。
タケヒコ「あなたは希望だったはずです。ヤマトト!」
ヒミコ「また、近いうちに会おう、タケヒコ」
一瞬だけ振り向いてそう言うと、ヒミコは消えた。呪の、転移呪の輝きと共に。
巨大な社の裏側、藪で隠された場所にある井戸。そこには表からは入れない巨大な社の宝物庫へと続く隠し通路があった。通路を進んでいくと、扉が行く手を塞ぐはずだった。しかし、本来ならば来客を拒むはずの錠は壊され、決して開かれないはずの扉は、その本来の目的を忘れたかのように風に揺られていた。誰かが入った事は明白だった。そして、それが誰かも、ジョウコウには予想が出来た。
入り口を塞ぐ様に、ジョウコウは扉の前で侵入者が出て来るのを待った。そして、一人の男が目の前に現れた。予想通りの男が。
ジョウコウ「それをどうする気だ、モリヤ」
男は息子のモリヤだった。一瞬、驚いた表情を見せた後、表情を繕うと、モリヤはいつもと同じ様に接し始めた。もっとも、ジョウコウからしたら動揺が手に取る様にわかっていたのだが。
モリヤ「父上、ここにいらしたのですか? てっきり僕は叔父上達と御一緒に飲まれているのかと思いました」
ジョウコウ「その鏡をどうするのかと聞いている、モリヤ」
モリヤ「父上は何の事をおっしゃっておられるのです?」
ジョウコウ「モリヤ、その左手に握り締めている鏡をどうするのかと聞いておる!」
怒声を無視して、素知らぬ顔でモリヤが横を通り過ぎようとしたが、ジョウコウは右手を強引に掴んで止めた。
モリヤ「……父上には関係ないでしょう」
ジョウコウ「ヒミコにたぶらかされおったか」
掴まれた手が振り払うと同時に、モリヤは後ろに飛び退いた。間合いを広げたのは明らかだったが、ジョウコウは無理して詰めようとも、更に開こうともしない。ただモリヤの視線だけを見つめていた。
口元を醜く歪めるモリヤの右手の手の平が、ジョウコウへ向けられる。無数のつららがモリヤの手の平から発射された。その全てのつららを、わずかな動きでジョウコウは避けて見せる。
ジョウコウ「ヒミコの力で鬼となったか……モリヤ」
モリヤ「そうさ。僕は僕に見合った力をようやく手に入れたのさ」
ジョウコウ「この国では、法で鬼となる事を禁じていたはずだが?」
モリヤ「だから、どうしたって言うのさ? どうせ僕の国になるだろ? それなら誰も僕に何も言えない」
目の前の息子の目を見る。息子の目はいつの日からかジョウコウが願ったのとは違う目をしていた。少なくとも、生まれたての頃は別人のように澄んだ目をしていたはずだった。育児などしたことのないジョウコウには、モリヤの教育を別人の手にゆだねて来たジョウコウには、息子を本気で責める気にはなれない。だからといって許すわけにもいかなかった。
ジョウコウ「この国のはずれに家がある。何一つ不自由させぬ、そこへ行って余生をすごせ」
モリヤ「この国のはずれだって? まさか、あのキサラギとか言う糞ばばあの住んでいた所に。あの売女の居た所に。よりにもよって、この僕に行けって言うのかい」
憎しみを込めてモリヤが睨んで来た。その目をジョウコウは見る。ただ見る事しか出来ない。それしかジョウコウには応え様がなかった。
ジョウコウ「そうだ。この国に鬼は必要ない」
モリヤ「冗談じゃない。第一そんな事をしたらこの国はどうするのさ?。跡継ぎがいなくなってこまるだろ?」
ジョウコウ「モリヤ……知っておろう。我にもう一人息子がおることを」
モリヤ「そんなに、そんなにあの馬の骨がいいって言うのかよ!」
叫びながら、後ずさりながら、モリヤはつららを撃ち続けた。先程と同様に、ジョウコウはそのすべてを最小限の動きで避ける。ただ先程と違い、ゆっくりと前進しながら。
一歩また一歩とジョウコウは歩み寄る。遂にはモリヤの背中に壁が当たる。下がる所がなくなり、モリヤはその場に座り込んだ。
そして、手の届く程の距離までジョウコウは近づいて、歩みを止める。
ジョウコウ「モリヤ、その左手の鏡を置いて立ち去れ。あの家に行く気が無いのなら、邪馬台国へ行け。あの女なら最低限の生活は保障してくれるだろう」
モリヤ「さすが父上、この程度なら必ず近づいて来ると思ったよ。最期に、最期に僕の気持ちに応えてくれてありがとう」
気が狂ったように笑いながら、モリヤは左手に持っていた鏡を右手に持ち替えた。そして、左手をジョウコウの足に添えた。するとジョウコウの両足が青白くなっていく。両足はモリヤの右手の力によって凍り始めていた。
モリヤ「父上が悪いのさ。僕がいるのに、あんな馬の骨にこの国をやろうとするから」
ジョウコウ「モリヤ、すぐに手を離せ! 我に剣を抜かせる気か!」
凍りつく足に気を配ることなく、ジョウコウは背中に背負った剣の柄に手を掛けて、モリヤを睨みつけている。
モリヤ「抜きたければ抜けばいいだろ」
狂喜しているモリヤは気付かない。父であるジョウコウの剣の柄を持つ手が震えている事に。大王ジョウコウが情けをかけようとしている事に。
ジョウコウ「もう一度言う。手を離せ」
モリヤ「だから、抜けば良いだろ?。剣を。もう遅いだろうけどさ」
ジョウコウ「やむをえぬか」
背中に背負った自らの剣をジョウコウは抜いた。あまりにも大きな剣を。都牟刈之太刀という銘の美しい曲線を描いた剣を。抜き去った剣で、凍りついた両足の皮を切り裂く。すると何事もなかったかの様に両足は赤みを取り戻していた。
モリヤ「何なんだよ、それ……」
ジョウコウ「愚か者!」
叫びながらジョウコウは剣を縦に振り下ろした。剣を咄嗟に防ごうとしたのか、恐怖から逃れようとしたのか、モリヤは頭上で両手を交叉させた。どちらにせよ何の意味もない行動には違いないはずだった。この剣の切れ味の前では。それなのに剣は両手の皮を斬った所で止まった。それ以上剣を、ジョウコウには振り下ろせなかった。
ジョウコウ「鏡を置いてすぐに立ち去れ。最早、どうにもならない事が分らぬ訳でなかろう」
怯えた眼をした息子を見下ろすジョウコウを現在支配しているのは、自らの情けなさへの思いだけだった。そんな感傷に浸っている時間もわずかにすぎなかったが。
時がそれを許さなかった。
背後から声が聞こえた。よく知った女の声が。
ヒミコ「もう少し出来ると思ったのだが……」
ジョウコウ「ヒミコか」
息子であるモリヤと戦った時と違い、ジョウコウの表情が一変する。
モリヤ「お、遅いだろ。来るのが」
背後に警戒を強めた瞬間、モリヤがヒミコの背後に移動して隠れた。そんなモリヤにジョウコウは一瞬だけ目をやる。そして、すぐにヒミコを凝視した。瞳にあからさまな敵意を宿しながら。
その敵意に満ちたジョウコウの目を、ヒミコは笑みさえ浮かべながら見返している。
ヒミコ「久しいな、ジョウコウ」
ジョウコウ「あいかわらず口がよく回るようだ、ビミファとやら」
何者かを理解しながら、ジョウコウは偽りの名を口にした。
モリヤ「ビミファ、言われた通り鏡はここに」
ヒミコ「……そう」
左手を広げて鏡をモリヤが見せる。それをちらりとも見ずに、ヒミコは冷たそうに返事した。視線はあくまでも、ジョウコウに対して向けられていた。
薄笑いを浮かべながらモリヤが言葉を続ける。
モリヤ「約束通りこの国とカグヤは貰うからな」
ヒミコ「そんな約束した覚えが無いが?」
モリヤ「何言ってるのさ? 鏡を手に入れたら、僕に国と女をくれるって言っただろ」
ヒミコ「確かに言ったが、狗奴国とも、カグヤとも言っていないはずだが? 最も、カグヤに手を出せば、そなたの首など一瞬で吹き飛ぶだろうが」
それを聞いたモリヤの目の色が見る見るうちに怒りの色に変わる。
モリヤ「約束が違うだろ!」
ヒミコ「そんなにカグヤと狗奴国が欲しければ、自分の力でなんとかするのだな。少なくとも邪魔はしない」
モリヤ「騙したな、殺してやる」
叫ぶと同時に、モリヤがヒミコに右手を向けた。それを気にする様子も見せずに、ヒミコはモリヤを蹴飛ばした。同時にヒミコは火炎呪をいくつか懐から取り出す。火炎呪がヒミコを包み込む様に回り始める。
それを見てジョウコウは剣を正面に構えた。
ジョウコウ「我と戦う気か?」
ヒミコ「然り、鏡は貰う」
部屋の四方八方に火炎呪が飛んで行く。
ヒミコ「連鎖せよ」
懐からヒミコは同じ呪を出すと口にした。言葉と同時に、部屋中の火炎呪が輝きだす。輝きは順番に起こり、炎はそれぞれが生き物の様に暴れだし、部屋は炎に一瞬で包まれた。彼女の呪は対象にしか効果がない。ゆえにヒミコの呪ならば、自らも、部屋も、いっさい燃える事はない。このままならジョウコウだけが燃やされる。それを知りながらも、ジョウコウは平然としていた。
そして、冷静かつ速やかに動いた。
ジョウコウ「唯我独尊汝無意味哉」
剣で、ジョウコウは自らを中心に円を描く。あまりにも早い剣の振りによって出来た軌跡は、ジョウコウを覆い尽くす。軌跡に当たった炎は消えていった。炎がすべて消えてなくなると、ジョウコウは剣をヒミコに向けて正面に構える。
ヒミコ「ほぅ、あいもかわらず強い」
ジョウコウ「化け物が何を言うか」
勝負は簡単に着かないはずだった。二人の力は拮抗していたから。その力関係を、この場にいたもう一人の人物が崩壊させる。
モリヤ「いくら父上でも、利き腕が使えなかったらそんなにでかい剣使えないだろ」
いつの間にかモリヤがジョウコウの腕を掴んでいた。目の前のヒミコに集中していたジョウコウがそれに気付いた時には、凍結はすでに腹のあたりまで達していた。
顔以外の全てが凍りつくと、モリヤは手を放した。そして、口に笑みを浮かべながらモリヤはヒミコに目を向けた。
ヒミコ「鏡をよこせ」
冷酷に命令するヒミコに、モリヤが口元を歪めながら悦楽の表情で言い放つ。
モリヤ「否だね。これ、大事なんだろ? だったら僕を蹴った事を、土下座で、まず謝って貰おうか」
ヒミコ「国と女をやるという約を違えるつもりはない」
モリヤ「聞こえなかったのかい? 僕は土下座しろと言っているだろ!」
怒声をモリヤは上げるが、ヒミコに従う様子はまったく見られない。
ジョウコウ「鏡はやるな」
身動き一つ取れないジョウコウが言った。
モリヤ「黙れ! 父上は凍って、今何も出来ないだろ? だったら、横から口を開くなよ」
顔を殴られ、ジョウコウの口から血がにじむ。それでもジョウコウは眉一つ動かさなかった。それが気に障ったのかモリヤはもう一度顔を殴る。
ヒミコ「もう一度言う。鏡をよこせ。約は違えぬ」
目を細くしながらヒミコが言った。それが最後忠告だと、ジョウコウには否が応にも理解出来ていた。しかし、モリヤは別の受け取り方をした様だった。
モリヤ「おまえ、頭おかしいだろ? 僕の言っている事理解していないだろ?」
ヒミコ「仕方ない。あまり時間を掛ける訳にも行かぬ。鏡の場所が分かった礼だ。今後生きている間の保障ぐらいはしてやる」
モリヤ「これ欲しくないのか? 欲しくないなら、渡さなくても僕には構わないからね。どうするかって聞いてんだよ!」
鏡を手の平に広げて見せびらかすモリヤ。
ジョウコウ「そうだ、鏡は……渡すな」
それでもジョウコウにはそう言うしかなかった。鏡を渡せばどうなるか知っている者としては。
モリヤ「父上は、黙れ!」
遂にジョウコウは頭も凍らせられて意識を失った。
力の衝突を感じてスクネが駆けつけた時には、ヒミコが背中越しに呪を手に持っていた。持っていたのはおそらく爆炎呪。だから、おそらくぎりぎりだったのだろう。少なくともスクネはそう判断した。
スクネ「それはおまえにはすぎたる物だ」
瞬時にスクネは敵と味方を判断する。否、仮に判断が間違っていたとしても、その後発生する問題が最低限で済む様に対処した。すなわち、モリヤの腹に拳を一撃食らわせ、気絶させてから鏡を取り返した。
ヒミコ「そなたが来たか、スクネ。丁度良い。タケヒコはどうしている?」
スクネ「おまえが知る必要は」
目の前のヒミコの黒い瞳が紫色に輝く。そして、一瞬だけ気を失った様にスクネの記憶が抜け落ちる。
ヒミコ「なるほど、カグヤと共に居るのか。それに、予想通りうまくやっている様だ。これならば」
そこで頭が再び動き出した。もうろうとする意識をはっきりと取り戻すために、スクネは自らの頬を強く叩いた。
ヒミコ「鏡はまだ預けておく。また会おう」
意識をはっきりさせたスクネは、天之壽矛でヒミコを貫いた。貫いたヒミコの姿が揺らめきながら消える。幻影だった。
スクネ「逃げられたか。しかし、いったい何が起こった」
記憶が抜けた辺りの事を思い起こす。いくら思い起こしても何も思い出せない。ただ一つだけ脳に奇妙な記憶があった。その前後がまったく記憶にないのに。
スクネ「鏡を使え? どういう意味だ」
少し考えてからスクネは思考を止めた。意味をいくら考えようとしても参考にする材料がない以上は、時間の無駄遣いにしかならないのだから。