平穏の中で1
日が昇りきる頃には、日課としている夜明け前から始める走り込みが終わる。家路にシンムが入ると、手前の家に、三人ほど立っていた。遠目からでも一人はタケヒコだとかろうじて分かるが、日の光に顔が隠れているのもあり、他の二人は女性で、一人は子供である事以外に何者かがわからない。
狗奴国の大王ジョウコウの命を受け、貸し与える家を、邪馬台国からの二人の客人にタケヒコは案内していた。
タケヒコ「お二人には今日からここで暮らしてもらいます。それと、挨拶を申し遅れましたが、この国に居られる間のお世話をジョウコウ様より、このわたし、フツヌシタケヒコが申し付かっております。何かありましたらお申しつけください」
イヨ「お心遣い感謝します」
黒髪のほっそりとした女性が軽く頭を下げた。儀礼には申し分ないが、言葉ほどには感謝が感じられない挨拶だった。
イスズ「イスズちゃんは全然ありがとうじゃないですぅ!」
むっすりと童女が頬をふくらませたのと同じぐらいに、息を切らせながらシンムは三人に近づいた。
全速力で走って来たため、すぐには息が整えられないシンムは下を向いて、両手を膝に当てながら、タケヒコに声を掛けた。
シンム「そいつ等……いったい誰だ、タケヒコ?」
タケヒコ「シンム様、客人を宿泊先に案内している所です」
息が多少整ったシンムは、顔を上げて客人の一人に目を向ける。目が会うと同時に大声を上げた。
シンム「おまえ等、こんな所で何してやがる!」
その声にイスズが反応する。
イスズ「やっぱりこの国にいたですぅ!」
すぐに睨み合いが始まる。子犬の様に童女がうなり声を上げる。童女はクレハイスズ。伊都国で対峙したシンムには、忘れようはずもない顔だった。
うなり声を上げる子犬に、イヨが声をかける。
イヨ「イスズちゃん、ひょっとしてこの人がイブキシンム?」
イスズ「そうですぅ。伊都国にいたエッヘンな人ですぅ」
シンム「何がエッヘンだ。おまえら何しに来やがった!」
もう一人も伊都国で見た顔だったが、誰かはくわしく分からない。それでも、邪馬台国の人間である事ぐらいシンムにも理解出来た。だから当然、もう一人の女性も睨みつけた。
タケヒコ「シンム様、落ち着かれてください」
慌ててタケヒコが場を鎮めようとシンムをなだめるが、その試みは失敗に終わる。胸を張って、イスズが当然のように答えた言葉に、シンムが怒りを強めたために。
イスズ「何って、もちろん反乱した人をボコボコしに来たですぅ」
シンム「反乱だぁ! おまえらが勝手に反乱とかぬかして攻めて来たんだろうが! それで……ヤカモチ達みんなを!」
拳をシンムは強く握り締め、握り締めた拳から全身が震え上がる。怒りが沸々と煮えたぎり、伊都国で起こった事が頭を駆け巡る。
イスズ「エッヘンな人が起こしたのが反乱ですぅ。そのせいでミケヌさんが……」
シンム「おまえ、まだ言いやがるか!」
我慢は限界だった。拳を振り上げ、殴りかかるつもりだったが、タケヒコに腕を掴まれて止められる。
タケヒコ「これ以上はお止めください、シンム様!」
イヨ「イスズちゃん、止めて! 部屋で今日はゆっくり休もう、ね?」
舌を出して挑発するイスズをその女性はなだめた。それで場は収束するはずだった。
イスズ「むむ、イヨちゃんがそう言うなら、イスズちゃん今日は止めといてもいいですぅ」
シンム「何が「今日は」だ! おまえらが十五年前にやった事、忘れやがったのか!」
その言葉に今度はイスズをなだめていた女性が反応した。
イヨ「今まで黙っていましたけれど……あなたの話を聞いていたら、こちらが一方的に悪いみたいに言われますけど。だとしたら、先に不繭国に対してなされた事は悪くないと言うのですか!」
シンム「不繭国だと! その国の名を出すんじゃねぇ!」
イヨ「開き直る気ですか?」
声を強めた女性がシンムを睨みつける。その眼は恥を知りなさいとでも言っているようだった。その眼を見て余計に癇にシンムは怒りを強める。
腕をタケヒコに掴まれていなかったら、シンムは間違いなく殴っている所だった。
イスズ「イヨちゃんと喧嘩するなら、イスズちゃんが許さないですぅ! 見た眼通り、イスズちゃんはとっても強いんですぅ」
童女にしか見えないイスズが、シンムと女性の間に割って入る。
シンム「タケヒコ、放しやがれ!」
タケヒコ「失礼します、シンム様」
腕を放すと同時に、タケヒコはシンムの首筋に掌手をして気絶させると、右肩に抱きかかえた。場はそれで静まった。
次にシンムが目を覚ました場所は、自らの部屋の中だった。
首筋にわずかだが痛みが残っていた。
タケヒコ「先程は申し訳ありませんでした、シンム様」
カグヤ「謝る必要ないよ、タケヒコ。どうせ、シンムがまた馬鹿やらかしたんでしょ?」
目覚めたシンムに深々と頭を下げるタケヒコに、すぐ近くに座していたカグヤが決めつけたように言った。何かシンムは姉に言い返してやろうと思ったが、気になる事を思い出して取りやめる。
シンム「そういや……さっきの奴ら、さっきの所に泊ってんだな?」
タケヒコ「邪馬台国からの客人、クレハイスズ様と女王ヒミコの義娘スメイヨ様ですか?」
二人の顔を思い出して怒りがシンムに蒸し返して来る。
タケヒコ「失礼ながら、それを知られて、どうなされる気ですか?」
シンム「決まってんだろ! そいつ等に、自分達がした事を思い知らせてやる!」
タケヒコ「シンム様、恐れながら国を壊滅させたのはアメノタマモです。それとジョウコウ様に、人でなく邪馬台国そのものを憎んでいると申されたはずですが?」
あまりシンムは伊都国の名を口に出さない。一日たりとも忘れたことはない。だからこそ、再び復興させるその日まではと思い口には出さなかった。それに気付いているのか、タケヒコもシンムの前では国の名を口に出さなかった。
伊都国で起こった事を思い出して、シンムは怒りと苦しみでおかしくなりそうだった。それだけにタケヒコの冷静さが余計に腹立たしかった。
シンム「確かに言ったけど、それがどうしたってんだ!」
タケヒコ「彼女達と、国の件は切り離して考えられてください」
すでにシンムは剣に手を掛けていた。今すぐに先程の家に行って、剣を振るうつもりだった。剣を握った手に暖かいぬくもりが重なる。
カグヤ「シンム……今はその事……考えるの止めよ?」
手を乗せたカグヤが泣きそうな顔をしながら言った。手に重なったぬくもりを払いのけると、シンムは姉にも食って掛かった。
シンム「姉貴も何言ってんだ! あいつらのせいでヤカモチ達がどうなったか忘れたって言うのか!」
カグヤ「忘れてないよ……忘れたくたって、忘れられるわけないよ」
シンム「だったらなんで!」
カグヤ「それでもだよ……それでも、その人達に怒りをぶつけちゃいけないんだよ」
頭を垂らし、何度も首を振りながら言っているカグヤは、自らに言い聞かせているようだった。
シンム「わけわかんねぇ! 姉貴も、タケヒコも、何言ってんだ!」
怒りの矛先を、シンムはいつの間にかカグヤとタケヒコに向けていた。その方向も一瞬で別の方向になる。素知らぬ顔で部屋の端に片足立てて座っていたはずのスクネが立ちあがって言った一言で。
スクネ「本当に理解できないほど馬鹿ではないだろう」
シンム「オレはばかじゃねぇ!」
スクネ「馬鹿でないなら証明して見せろ」
シンム「うるせぇ!」
怒りに任せてスクネに殴りかかろうとしたが、急に頭が冷めたのでシンムは途中で拳を止めた。反応して逆に拳を放っていたスクネの一撃がシンムの頬に入る。
シンム「やっぱ、まずはてめぇをぶっ殺す!」
拳を頬で受けたシンムが眉間をひくひくさせながら叫び、一瞬で二人は取っ組み合いの喧嘩になった。喧嘩を始めた内容などすぐに忘れ、シンムは夢中でスクネを殴り続けた。殴ったのと同じ回数だけ頬にあざを作りながら。