女王ヒミコ1
邪馬台国全土へ威厳に満ちた女性の声が鳴り響く。その美しき声は有無を言わせぬ説得力を持った楽隊の奏でる音色。その美しき音色に人々が陶酔する。
ヒミコ「善良なる邪馬台国の民達よ。屈強なる邪馬台国の兵達よ。偉大なる邪馬台国と共にあるすべての者達よ。聞くがよい」
邪馬台国の女王ヒミコは自らの幻影を人々の脳に直接投影して語りかけていた。すべての人々が自らの目の前に現れた幻影に跪く。
ヒミコ「伊都国において、イブキシンムなる者が数日前反乱を起こした。そう、その名を聞いて皆の脳裏に浮かんだであろう、かつて邪馬台国全土を巻き込み、ある者に飢えの苦しみを与え、ある者には重症を負わせ、ある者には死すら与えた。あの、倭国大乱の首謀者イブキヨシモチ、コジロウの一族に連なる者だ」
その名は邪馬台国の人々の脳裏に染みついた忌むべき名。その一族に対する怨恨が人々の記憶に蘇える。それだけに、次にヒミコが述べた最初の言葉が心の奥深くまで響き渡る。
ヒミコ「まずは自らの非を謝ろう。伊都国の王にイブキシンムを据えたことは過ちであった。しかし、その過ちはアメノタマモ・アマンミケヌ・クレハイスズ、三名の尽力によって是正された。彼の者達に惜しみない賞賛と栄誉を送りたい。彼の者達こそ事態を早急に解決し、過ちを是正させた英雄たちだ」
人々がヒミコと同じように幻影として現れた三人に感謝の意を述べ、拍手で持って讃える。拍手が終わると三人の幻影のうち二人が消えてミケヌ一人となる。目を閉じてからヒミコは次の言葉に移った。
ヒミコ「しかし……しかしながら、反乱を鎮める際、アマンミケヌが黄泉へと旅立つ事となった。最悪の事態から邪馬台国を救うために犠牲となった彼の者のために黙とうを捧げ、彼の者の魂に敬意を払ってほしい」
人々が故人に敬意を示し、ヒミコの号令と共に黙とうが捧げられる。邪馬台国から人々の喧騒が消え、国中が静寂に包まれる。
ヒミコ「わらわから一つお願いがある。本来ならばアマンミケヌの変わりを誰か探すべきであろう。しかしながら、その儀は待って貰いたい。伊都国はすでに落ちた。だが、反乱の首謀者イブキジンムは残念ながらもまだ生き伸びている」
黙とうから目覚めた人々から嫌悪の声が上がる。「まだ生きているのか」「残酷に死ねばいい」などの声が。その声もヒミコが目を見開き、次の言葉を口にすると、まるでかき消されるかの様に簡単に収まった。
ヒミコ「皆の者が不安を抱く気持は、痛いほど理解できる。ましてや、首謀者が今も生きていると知らされたならば尚更であろう。ならばこそ、アマンミケヌの魂もまた黄泉からこの邪馬台国の行く末を心配しているであろう。だからこそ、イブキシンムが黄泉でアマンミケヌに懺悔する事となるその日まで、アマンミケヌの思いをこの胸に抱きながら共に戦い続けたい。それゆえに、新しきものを探すのを待って貰いたい。さすれば、アマンミケヌの魂がこの邪馬台国に勝利と永遠の繁栄をもたらすであろう」
人々が固唾を飲んでヒミコの言葉の続きを待つ。ヒミコは両手を天高く掲げた。
ヒミコ「皆の者達に約束しよう。アマンミケヌの魂に答えるためにも、わらわはイブキシンムを黄泉に送ることを! 夢も、希望も、未来も、邪馬台国にある事を証明し続ける事を! 邪馬台国が永遠ならん事を!」
人々が怒りと歓喜に満ちた言葉を叫ぶ。「邪馬台国ばんぜい」と……。
彼女の敬愛する養母の声を聞きながら、イヨは亡きミケヌを思い出していた。地獄と化した伊都国を救えず、ミケヌの風で外へ逃された日の事を。
抱きかかえられてスクネ達の前から逃げ出すイヨは、周りの流れていく景色を見ていた。家々は瓦礫と化し、右往左往しながら妖鬼から逃げ惑う人々。それらを見るたびにイヨは胸を痛める。
イヨ「イスズちゃん、そろそろ降ろしてよ」
イスズ「まだこの国から出てないからだめですぅ」
決して止まることなく、イスズは断固とした言葉で提案を否決した。彼女をよく知らない人が聞いたならば、ただ単に、頬を膨らませて駄々をこねているようにしか聞こえない独特の声と口調で。
仕方なくイヨは流れていく景色を眺めている。あいかわらず妖鬼が暴れまわり、その光景で心を潰されそうになりながら。
イヨ「どれだけの人が……犠牲に」
己の無力感をイヨは噛みしめる。最早どうにもならないという思いが、余計に心を痛めつけている。その流れる景色の中に、一人たたずむミケヌを見つけた。
虚ろな瞳でミケヌは石像のように身動きせずに立っていた。
イヨ「ミケヌさん!」
イスズ「ほんとですぅ。ミケヌさーん、イスズちゃん達はこっちですぅ」
名を叫んだイヨに反応して、イスズが大声を出す。声でミケヌも気がついたのか、イヨ達の方に向き直る。
ミケヌ「イヨ様……イスズちゃん」
子供のような容姿のミケヌの瞳孔がびっくりしたように開く。
イスズ「イスズちゃんはきちんとイヨちゃんの護衛をしてますぅ」
イヨ「ミケヌさんからも降ろしてくれるように言って貰えますか? わたしもまだやらないといけない事が」
瞳孔が閉じ、イヨ達に気がついたミケヌが微笑む。そして、風が吹いた。風はイヨ達を包み込む。
ミケヌ「イスズちゃん、イヨ様をお願いします。ぼくは、ぼくに出来る事を……あの人達はぼくがなんとしても……」
風は疾風となり、二人を伊都国の外へと運んだ。
それがミケヌを見た最後だった。
伊都国でミケヌが亡くなったと知った時、イヨは悲しかったが泣けなかった。泣き叫ぶイスズを慰めるのに必死で泣けなかった。
そのせいか、養母の声を聞きながらミケヌを思い出して涙が一滴だけこぼれた。それでも、今は泣けないという思いがそれ以上の涙は許さなかった。
涙を拭うとイヨは養母のヒミコの元へ向かった。伊都国で見た事実を、妖鬼による惨殺の記憶を、敬愛してやまない養母に話すために。
演説が終わるとヒミコは腰を下ろし、横に控える塩土の翁を見る。無表情で一点を見つめ、石像か何かの様にひくりとも塩土の翁は動かない。その見つめる一点にはタマモが立っていた。呆れたようにタマモが話し始める。
タマモ「あいかわらずよくやるわね、偽善者もここまで来ると感心するわね」
ヒミコ「そなたか……何か用があるのか?」
無表情なヒミコの問いかけに、妖しく唇を歪ませ、眼光を鋭くしてタマモが答える。
タマモ「ふふふ。伊都国でおもしろいのを見つけたわよ」
ヒミコ「……トヨウカグヤか?」
タマモ「あら、やはり見ていたのね?。覗き見の趣味は治らないのかしら?」
眼光をますます鋭くするタマモは、口元では笑みさえ浮かべているが、殺意を持ってヒミコを睨みつけているのは、誰の目にもあきらかだった。
タマモ「あなたの連れているイヨと、伊都国にいたカグヤ、どちらが神の器なのかしら?」
ヒミコ「その事か……どちらでもよいであろう。どちらにせよ、神代は訪れる。時期に、器がどちらかは判明する」
タマモ「ふふふ。だとしたら最初からカグヤの存在を知っていて、しかも、二人とも疑っていたわけかしら?」
ヒミコ「否定はせぬ」
真摯かつ明瞭にヒミコは答えた。冷笑するタマモの目つきがこれ以上は有り得ないほどに冷たく、そして鋭くなる。必然的に緊迫感が部屋を包み込んでいく。
タマモ「あなたが、スクネをあの国にくれてやったのよね?」
ヒミコ「その件は了承済みだったはず。そして、その理由も話しているはず」
タマモ「ふふふ、確かに了承したわ。それにあなたの思惑通り、魂魄強化を使ったら、タケヒコも本気になってくれたわ。……だけどわかっているでしょう?」
ヒミコ「それならば問題はなかったはずだが」
全身から殺気を放ちながら、タマモがもう一度唇を歪ませた。
タマモ「もう一度言うわ。今度は、あ・な・た・でも分かるように。カグヤが神の器の可能性がある事を、このわたしに黙っていたのが気に食わないのよ! 壊れなさい」
語尾を強め、タマモは冷酷に言い放つと、怒りを顕わにする。弓を構え、矢を弦に掛けて、ヒミコの額へ向ける。弓は天詔琴、矢は天之羽々矢、タマモの神宝を、ヒミコの社のせまい空間の中でタマモは構えている。避けようもなく、矢が放たれればヒミコに待っているのは死のみ。それでも、能面のような表情で、ヒミコは矢じりを見つめている。
石像のようにひくりとも動かなかった塩土の翁が、ヒミコとタマモの間に割って入る。
タマモ「あら……わたしの邪魔する気かしら? それなら、あなたもいっしょに壊していいのよ 自慰のための人形さん」
無言を貫く塩土の翁が行動で応える。天露之糸を手に巻くと、塩土の翁も殺気を放ち始めた。二人の殺気が部屋に充満する。その殺気だけで、おそらく普通の人は死ぬだろう。否、仮に死ななかったとしても、平常心でいられる者など誰もいないだろう。それほどの恐怖で満ちた空間が生まれる。その空間の中で、ヒミコは何事も無いかのように座椅子から立ち上がり、塩土の翁の肩に手を置いて口を開いた。
ヒミコ「翁、もうよい。タマモ、すまなかった。騙すつもりもなどなかったのだ。怒らせ、疑心を持たせた事は詫びる」
真摯に頭を下げたヒミコを、侮蔑の目で眺めながら、タマモは声にあからさまな威圧の色を帯びさせる。
タマモ「それで許すとでも?」
ヒミコ「ならば何か望む事はあるか? 出来得る限りの事はしよう」
タマモ「なら、もう一回聞くけど、スクネは本当に制御できるのでしょうね」
しばし沈黙した後にヒミコは答えた。その沈黙と言葉が何より雄弁に語っているのを理解しながら。
ヒミコ「予定通り、神代は訪れる」
タマモ「ふふふ。やはり、まだ他にも何かあるわけね」
疑問を正直にタマモが口にする。目は当然とばかりに鋭利で、あふれる殺気が部屋を極寒の空間に変えて行く。
極寒を温めるかのように塩土の翁が声を荒げる。
塩土の翁「タマモ、この場を去れ!」
声を荒げた際に口元を噛んだのか、それ以外の原因か、傷が頬に奔る。傷口から血は流れていない、だが傷口は次第に広がっていく。
タマモ「あら、あなたが横から話しに割り込んで来たということは……どう言う事かしら?」
問いを口にしたタマモは、塩土の翁でなく、ヒミコを睨みつけている。
ヒミコ「翁、心配の必要はありません」
傷の広がりが止まる。その様子を見ていたタマモが殺気を消すと、さげすむ様に苦笑する。
タマモ「まぁ、今回はいいわ。少なくとも、あなたが何かを隠している事はこれではっきりしたわ」
言葉ほどにタマモの表情は晴れ晴れとしていない。むしろ曇りの色を濃くしている。
タマモ「それにしても、あなたの思い通りに動くだけの人形の良さは、わたしには興味の対象にはならないけれど」
言葉と共に、矢がヒミコに向かって放たれる。矢を天露之糸で塩土の翁がはたき落とす。結果には目をくれず、タマモは背中を見せて悠々と場を後にする。去り際に消え入る様な声で、タマモが独り言を口にする。
タマモ「優秀な人形ね。行動はそっくり。そんなに過去が大事なら、もう一度、本当に繰り返せばいいのに。馬鹿みたい」
去り際の悪態を聞いたヒミコが小声で感想を口にした。
ヒミコ「それはそなたの願いであろう。そして、わらわの愚かなこだわりでもあるが……」
自嘲するようにヒミコは小さく声にした。そして、わずかな喜びの色を浮かべながら塩土の翁を見る。あいかわらずの無表情で、ヒミコの隣に戻った塩土の翁は石像のように立ったまま動かない。
ヒミコ「久方ぶりに会われた弟は、初めて会われた弟は、いかがでしたか?」
石像になった塩土の翁は何も答えない。ただ、指先がわずかに震えただけだった。それに気付いたヒミコはわずかの間、塩土の翁の手を強く握りしめた。
部屋を出たタマモと入れ違いで、何かを決意したような険しい表情をしたイヨが部屋に入って来た。
隣に立っている塩土の翁を、ヒミコは下がらせる。
イヨ「義母様にお話があります。アメノタマモさんの事です」
簡単な会釈の後、イヨはそう述べた。
ヒミコ「タマモがいかがした?」
言葉を続ける前に、イヨが大きく深呼吸する。それから、大きな瞳が数回瞬きする。わずかの静寂の後、イヨは自分の見て来た光景の一部始終を、事細かに話した。
話を終えると、イヨは自らの意見を付け加える。
イヨ「伊都国でタマモさんが矢を射掛けると、不思議な事に、突然妖鬼が強くなるのを見ました。あんな力は他に見たことありません。それに、妖鬼はまるで断末魔の叫びのような声をあげていました」
そこまで言い終えると、イヨはじっとヒミコの目を見つめた。
ヒミコ「そう……後は、わらわが調べておくゆえ、その件は、それまで伏せておきなさい」
イヨ「わかりました、義母様」
あまりの簡単な答えに、イヨは不満の残る顔をしながら答えた。それに気付いたヒミコが、イヨの両手を、自らの両手で覆うように握りしめて、優しく微笑む。
ヒミコ「イヨ、タマモの件はわらわにも考えがあります。ただ、もしもの時は、あなたの力を借りるかもしれません。その時は……」
イヨ「義母様……わたしに出来る事でしたら何でも」
快活にイヨが返事をする。その返事と共に、ヒミコは表情を引き締め直して、能面のような表情に戻る。それから握り締めた手を離し、座椅子にヒミコは腰掛けると、威厳に満ちた声で言った。
ヒミコ「イヨ、狗奴国へ行って貰いたい わらわの名代として」
敵対国である狗奴国へ行けと言ったヒミコの黒い瞳は、光の加減からか、紫色に輝いていた。