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アイナ  作者: 烏口泣鳴
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灰色の狼

 あれは何時の事だったか。思い出せないほど昔の事です。

 気付くと私はそこにいました。


   ☆ ☆ ☆


 灰が舞っていた。

 吹きすさぶ灰が雪のように。

 あたり一面、天地の隔てなく白一色で埋め尽くされていた。

 上か下かも分からぬ程に、ただただ一様に荒れ狂う灰塵のブリザードは、幻想性などという言葉を遙かに超えて、見る者に恐怖を与える狂気を発する。

 白く白く染まりあがった世界は全てを廃して吹き荒れる。

 全てを除いて作り上げられた世界は、ただ一つの特異を除いて何者にも侵されない絶対の聖域を作り上げていた。

 灰塵の中で浮かび上がる特異点。

 それは小さな白。

 周りを飛び交う灰よりも一際濁った白さを持つその特異は、その差異ゆえに周りから浮かび上がり、異常な世界の中でただ一つの異常となって、白世界の中心に座していた。

 濁った白は灰の下に埋まった体毛の色。

 灰が世界を覆い尽くしているように、狼に似た頭部を、人を模した四肢を、その体の全てを濁った白が覆っていた。

 硬質な体毛を持ったそれは何をするでもなく、不動の状態を貫いていた。

『それ』に名はない。

 生まれたばかりの『それ』は名付けられた事が無く、固有の名前を持たずに名無しとして存在している。

 人の体躯に狼を合わせた『それ』を既存の言葉で端的に表すなら人狼と呼ぶのが適切であろう。

 しかしそれは外見に対する名であり、生まれたばかりで誰にも認識された事がない『それ』自身を表す名前は未だない。


 名も無き『それ』は知っていた。己が生まれた目的を。

 生きる。それのみが生まれた理由。ただ生きる為に自分が生まれた事を知っていた。

 意識を持った瞬間から、それは強く『それ』の中に刷り込まれていた、

 名も無き『それ』は考える。生きる為にはどうしたらいいか。

 今のままでは生きられない。それは分かっていた。

 ではどうすればいいか。考え続けたが、未だ結論は出ていない。

『それ』はただ一人、灰の中で座っていた。

 灰の舞う中、唐突に『それ』は灰を掴むように腕を伸ばした。

 その手は空しく空を切り、『それ』の手は再び元の位置へと戻る。

 はた目から見れば愚かしい行為だが、その行為は『それ』にとって劇的な進化だった。

『それ』は気づいたのだ。世界に奥行きがある事を。身を動かせば世界を広げられる事を。

『それ』が今度は諸手を振るう。しかし僅かに灰の流れを乱しただけで、両腕は元の位置へと戻された。

 次に足を動かし、空を蹴る。座った状態からという無理な体勢で蹴りを放った為に重心が崩れて、『それ』は灰の中に転がった。

 仰向けになった『それ』はそんな事など気にせずに全身を振るい続けた。

 灰の吹雪く世界から見れば、塵に等しい程に無価値な行いだ。しかし、『それ』の世界は少しずつだが確実に広がっていった。

 その行為を繰り返す。延々と延々と。日の光が届かぬその場ではもはや時間の概念など生まれない。乱れに乱れた灰の流れが恒久的に繰り返される世界の中で、『それ』は延々と身体を動かし続けた。

 どれだけの時が経ったのかなどという問いは無意味であるが、あえて言うなら長い時間がたった頃に、『それ』はついに動く事をやめた。

 その方法ではそれ以上世界は広がらない事を悟ったのだ。

『それ』は身体を起こし、遠方を眺める。

 世界は遥か遠くへと広がっていた。

 世界の先には何があるのだろう。

 白一色に染まる世界の中で『それ』は思う。

 きっと世界の先は素晴らしいに違いない。

 生きる為に必要な何かがこの世界の先にあるはずだ。

 それは漠然とした思いだったが、何故だか確信を持てた。

 この世界を超えれば、生き残れると。その先へ行く事が使命であると。絶対の確信を持って心に刻み込む。

 やがて短い思考を終えた『それ』は手と足を使って身体を持ち上げた。

 ふらつきながらその身を支え、ゆっくりと安定させていく。

 刹那、灰に足を滑らせた。鋭い爪に積もった灰を抉らせながら、その身は灰へと叩きつけられた。籠った息が口から吐き出て、鈍い喘ぎが漏れた。

 それでもめげずに『それ』は再び身体を起こす。四肢で踏ん張り、震える体を安定させる。

 少しの間を置いて『それ』は身体を安定させることに成功した。その姿はまだ頼りなげではあるものの、しっかりと地面に立ち前を見据えている。

 やがて片方の手を僅かに前へとずらした。同じようにして他の肢も前へと進ませる。

 亀の歩みの如き進行だが、それでも確かに前へと進んでいた。

 視線の先にある世界の果てへと、生の手段に近づいた事を実感しながら、『それ』は進み続ける。

 視界は白く暗く、辺りは白い灰以外には何も無いまさに死の世界。不気味なほどに静まり返り、耳に届く音は灰の擦れる音だけ。そのどこまでも続くような静かな白い世界を、『それ』は静かに歩み続けた。


   ☆ ☆ ☆


 目の前に唐突に白以外の色が映りこんだ。

 暗い赤に明るい赤。とにかく赤く染まった何かが遠くに見えた。

『それ』は逸る気持ちを抑えきれず、その歩みも次第に速くなる。

 すでに進むことに馴れた『それ』は最初の頃のすり足ではなく、四足歩行の獣そっくりに進むことができるようになっていた。進む速度はあまり速くないが、それでも危なげなく進めるようになった。『それ』は自分が成長している事を感じていた。

 遠くの方に映る赤が次第にその色を変えていく。赤から茶色へ。まるで『それ』が近付いたから赤色が逃げ出したかの様に、段々と色が変わり始めた。

『それ』の心に僅かな不安がよぎる。新しい世界が手を離れていくような予感。世界から取り残されていくような恐怖。だが、『それ』はそんな自分の心を理解する事ができず、ただただ逸る心に追い立てられてその四肢を動かし続けた。

 逸る心に突き動かされ進みに進んだ結果、視界に映っていた色が次第に大きくなり、やがては視界一杯に広がった。

 眼に映る膨大な茶色。

 それは枯れ果てた森だった。枝からは葉が全て枯れ落ちていて、幹と細い枝だけが天へと向かっている。だが、葉が無いにも関わらず、あまりにも欝蒼と生え合っているその木々は全くもって光を通さず、暗く淀んでいた。枯れ落ちた葉は積み重なり、『それ』の背丈を越えるほどまで高くつみあがっていた。

『それ』は一瞬その光景に目を奪われたが、やがて意を決する様に森へと歩を進め始めた。

 異変はその時起こった。

『それ』が近付いた途端、一番前に積まれた葉が突然灰へと変わり始めたのだ。

 よく見ると森のあちらこちらで、葉も、枝も、幹も、石も、土も、何もかも区別なく、少しずつ灰へと変わっていた。その変化はなぜか『それ』の近くに行くほど活発になっていて、『それ』の足元にある地面などは完全に灰になっていた。

 明らかに異常な光景。危機感を感じても良い状況。

 それでも『それ』は止まらなかった。

 一歩踏み出せば大地が白濁し、更に踏み出せば葉が溶け崩れ、そして遂には大木が崩れるが、『それ』は欠片も気にする事無く歩み続けた。

 確かにその光景は異変だった。その事は理解していた。

 しかしなぜ起こっているのかなど考えても分かるはずがなく、また灰に変わるのは周りだけで自分に危険はない。そう判断した『それ』は躊躇いなく枯れ果てた森の中を進み続けた。

 止まる事など必要ない。ただ先に広がる世界だけを見据えて進めばいいだけだ。周りに起こる変化など自分が生まれた目的とはまるで関係ない。

 そう考えて『それ』は灰の中を進み続けた。

 枯れ果てた森は少しずつその姿を変貌させ、白く白く染まりあがっていく。茶色かった世界は『それ』が進んでいく毎に灰の吹きすさぶ白世界へと変わっていった。

 まるでさっきいた灰の世界が追いかけてきた様な錯覚を受ける。世界が『それ』を逃がしはしないと、『それ』が生きる事など許さないと言っている様な気がした。

 追い立てられる様に先へと進む。さっきまで心を急かしていた逸る気持ちとは別種の気持ちが『それ』の心を追いたてる。

 不思議なほどに苛んでくる心に疑問を持ちつつも、『それ』は灰の中を進んでいく。

 しかし、進めど進めど灰の舞う世界は変わらない。近づけばすぐさま変わってしまう木々に手を伸ばしながら必死に灰の世界から逃げ続ける。

 初めの世界で座っている時に、先には何があるのかと考えた気がする。その問いに対する答えではないが、問いに対して一つの結論を得たような気がした。

 この世界の先に何があるかは分からない。しかし行った時には既に白い灰で埋まってしまう。例え自分がどこへ行こうとも。

 考え付いた一つの結論。ただ何となくそう思っただけの漠然とした結論。

 それでもその結論は完結した一つの未来を思い描かせた。

 あまりにも不吉であまりにも残酷な想像を。すなわち、自分は灰塵に殺されてしまうだろうという、自己の存在を否定する想像を。


 静寂を貫いていた世界に咆哮が響き渡った。

『それ』の口から吐き出された悲しみを湛えた咆哮は僅かに木の形をした灰を倒壊させただけで霧散した。

『それ』は進む更に速度を上げる。心の内から溢れ出る不安から逃れる為に。

 流れる景色を視界から追い出し、ただ前を見つめて走り切る。

 その先には相変わらず茶色い森が広がっていた。ただしすぐに白く変わる事だろう。

 その当たり前の未来を見たくない一心で、更に速度を上げて、白く変わる前に森を駆け抜ける。

 走り、走り、走り、息つく暇なく走り続け、遂に『それ』は足をもつれさせた。身体が前のめりになって、地面で跳ねた。当然その程度で止まるはずもなく、二回、三回と跳ねて跳ねて、跳ね続けてようやく跳ねなくなると、今度は卸される様に地面にこすられ、焼けるほどの熱が全身に行き渡った頃に、その身体はようやく止まった。

 なんとか身体を起こして後ろを見ると、赤色の葉が生い茂る木々が立っていた。

 赤く染められた森に『それ』は僅かに見惚れてしまう。しかしその安寧はすぐさま不安によって押し流された。

 灰の世界はまだ来ていない。追いつけなくなったのかもしれない。

 しかし例え今追いつかれていなくても、すぐに追いついてくるだろう。現に灰は舞い始めている。そう考えて、再び逃げる為に前を向いた。

 だが、『それ』の動きは再び止まってしまう。

 視界の先には崖があり、その下に町があった。

 幾何学的に分けられた区画に統一されたデザインの建築物が立ち並び、その間を小さな粒が行き来している。生きかう粒は人だったり馬だったりと多彩だが、動きには一定の規則があり、それが町全体の幾何学的な印象を更に強めていた。

 眼下に広がる町を見た『それ』はなぜだか心が熱くなる様を感じた。なぜだか分からないが、ふつふつと使命感の様な物が湧きあがってきた。

 その心がなんなのか『それ』には分からなかった。生きるという使命感よりも更に強い命令が心を支配していた。何かを考えるよりも先に体が動く。自分の意思から離れて、身体が勝手に動きだした。気が付くと、『それ』は町へと歩き出していた。

 意思が乖離した状態で心の命ぜられるままに、人類が築き上げた文明へと向かって。

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