夢、サクラ
眼を覚ますとそこは昨日と同じ場所だった。
昨日起きた所と同じ場所。
昨日泣き腫らした所と同じ場所。
悪夢の様な光景から逃れる為に閉じこもった場所。
悪夢。まさしくそうだった。
いや、そうであってほしい。
あのサクラは本物のサクラじゃなかった。そんな希望にまですがってしまう。
いや、サクラだけじゃない。昨日の事自体が夢で、私はまだ起きたばかり。
そうに思いたい。
いや、そう思おう。
起きると約束した時間はもう少しだから、その時になったら優しいままのサクラが、私を起こしに来てくれて、私はそれに挨拶をして、新しい一日が始まる。
ああ、そうだ。着替えというのをしなくちゃいけないんだ。人前に出る為には朝、服を着替えなくちゃいけないんだ。それを私がやってみよう。私自身の力で、私一人でやってみよう。そうしたらきっとサクラは笑ってくれる。私の事をほめてくれる。それはきっと嬉しい事だ。
今はとにかく何かをしていたい。
やり方は覚えている。
まずはクローゼットの中から服を選ぶ。サクラが教えてくれた通りに、一つ一つを見つくろう。
選んだら次は衣服を脱ぐ。ボタンを外し、留め金をとって、体から抜く。理論的には単純で、サクラにやってもらった時には簡単だったけど、一人でやるとなると、なかなか難しかった。
ボタンを外すのは一苦労だし、留め金は折れそうになるし、何より布が体に絡まってどうしても抜けてくれない。
ベッドの上でひっくり返りながら、衣服と絡まりあう。
ごそりごそりと音を立てつつ、衣服を押し上げていく。
かなり頑張ったつもりなのだが作業はあまり進んでいない。まだ足の先が出た程度だ。
とにかく、一度小休止。衣服に顔を包まれ、吸気を阻害されながらも、なんとか呼吸を整える。
頭が冷えていく様を感じながら、ぼんやりと考える。
一人で着替えるという行為がここまで大変だとは思わなかった。
さっきからどの位の時間が経っただろうか。
大変だろうとは思った。苦労するだろうとも思った。
それでもここまで遅々として進まないとは思わなかった。
一人では何もできないのだろうか?
サクラの顔が──笑いながら着替えさせてくれた優しいサクラの顔が浮かぶ。
しかしその顔はすぐさま変貌を遂げ、固い毛並みに覆われた狼のそれへと変貌した。
思わず頭を振り、その絶望的な思考を脇へと追いやる。
「あれは夢だあれは夢だあれは夢だ」
そう、あれは夢だ。夢の事は忘れて、今は目の前の難題に集中しなければならない。
一人で着替えるという困難をクリアし、現実の優しいサクラに褒めてもらうんだ。
再び意気を取り戻し、着替えを再開する。
もぞりもぞりと転がりながら、ごそりごそりと布を擦り、いも虫が這うような速度で少しずつ体が布から現れる。
ゆっくりとゆっくりと。しかし、確実に。
だが、その遅すぎる出産劇は再び止められる事になる。
唐突に開いた扉の音によって。
その後に聞こえた聞き覚えのありすぎる声によって。
ガチャリとノブが音を立て、木材を軋ませながら扉が開いた。
びくりと私の体に震えが走った。
更なる追い討ちを掛けるように、布の向こうから声が聞こえる。
「アイナ様、起きていらっしゃいますか?」
聞き覚えのありすぎる声。それはきっと微笑みを浮かべるサクラの物であるはずなのに、同時に別の光景をも想起させた。振り払った幻影が再び湧き上がって来た。
声は間違いなくサクラの物。常よりわずかに強く吐く息は笑いというものらしい。しかし、頭に浮かぶのは血を滴らせる人狼の狂喜。
震えるほどの恐怖をその身に感じながら、一方でどこか冷静な頭は一つの事を考えていた。
なぜここまで恐怖を感じるのか。
私が生まれ落ちた時にあらかじめ持っていた数少ない記憶の中で最も強かった物が恐怖だ。
他の記憶が断片的でほんの僅かな情報であるのに対して、恐怖に対するそれだけは、まるで何年もかけて教え込まれたかのようにすさまじく多く、強かった。
恐怖を感じた時の反応。それを感じたらどうしなければならないか。そして、何を措いてでも恐怖を感じてはならない事を。記憶は強く強く訴えかけてきた。
だが、なぜその感情をサクラに感じるのか。それが分からない。
恐怖とは自己を失う事に抵抗する感情だと理解している。
つまり己の命を失う事に対する忌避だ。
ならサクラに対するこの恐怖は?
サクラが私の命を奪おうとするだろうか?
答えは否だ。
短い時間ではあるけれど、サクラは危害を加えてこないと確信した。それは狼になっても同じ事。あの姿になっても、絶対に安全だと信じている。
それが事実であれ、勘違いであれ、私自身はそう確信している。
それなのに、絶対に安全だと分かっているのに、なぜかサクラに──もっというならば、あの狼に恐怖を感じてしまうのか。
体が震え、歯の根が噛み合わないほどの恐怖を感じるのか。
それが分からない。
まるで別の場所で生まれた感情が私に流れ込んできているみたいに、自分から生まれた感情ではないみたいな……。
「アイナ様? 一体何をしていらっしゃるのですか?」
たったそれだけの言葉に、私はびくりと大げさに身を震わせてしまう。
必死に抑えようとしているのに、抑える事ができない。
「もしかして私が怖くて隠れているんですか?」
再び体がびくりと波打った。
否定しなければ。
なんとなくそう思って、私は首を振った。
だがすぐに、首が(というよりも体のほとんどが)衣服に隠れた今、その伝達手段が通用しない事に気付く。
「……ち、違う。着替えにてこ、てこずる。だから、体が外に出せない」
私は声と共に体を大げさに揺すって否定の意を示した。
「そうですか。では、私がお手伝いいたしましょう」
再度、体が震えた。
向かってくる足音が、布越しなのにやけに響く。
音はやがてベッドの──私の前で止まった。
布越しにサクラの気配がしっかりと伝わってくる。
包み込んでくれるような優しいサクラの気配。
それは絶対に恐れるようなものじゃなくて、恐れちゃいけないもののはずなのに、何で──何でこんなに体が震えるんだろう。
「それではまず服をぬいでいただきます。大きく伸びをしてください」
サクラの言う通りに、体を伸ばしてぴたりと静止する。
「そのまま動かないでくださいね」
「──ッ!」
服を脱がそうとしているだけだと分かっているのに、心が怖れに彩られる。
それでも、あれは夢だと思いこんで、なんとか表面には出さないように努める。
きっとサクラは怖がられる事を望まないだろうと思ったから。
「ではいきます」
私の体が宙に浮いた。
「……わっ!」
思わず声を上げてしまった。
余計な事を考えていた為に、急な動きに対応しきれなかったのだ。
一瞬の浮遊感を味わい、続いて重力に引かれて落下。柔らかいベッド上にぽすんと着地した。
たったそれだけの間に、纏わりついていた衣服は畳まれてサクラの膝の上に置かれていた。
「次に服を着せましょう。こちらが今日のお召し物ですか?」
サクラの視線の先には私の選んだ服が置かれていた。
「うん」
私は小さく頷く。
「ではまた動かないでください。今度は力を抜いて」
私は言われるまま力を抜いてベッドの上で横になった。
そして──世界が一回転した。
「……え?」
気付くと体が立ち上がっていた。
すでに服は着ている。
胸元に違和感を覚えて下を見ると、サクラの頭があった。
何が起こったのか分からない。
とにかく一瞬のうちにサクラが着替えを完了させたという事実だけは理解できた。
サクラに問いただそうと質問を口にしようとするが、あまりの混乱になんと聞けばいいのか、整理がつかなかった。
「……サク……ラ?」
結局、口から出た言葉はそれだけだった。
サクラはその言葉に頭を上げた。
私が今の状況に混乱している事が分かったのだろうか。サクラは安心させるように微笑むと、その手元を私に見せるように開いた。
「後はこの紐を結ぶだけです。すぐ終わりますのでもう少しだけ待っていてください」
何の疑念も解消しない言葉だったが、私は素直にその言葉に従った。
結局何が起こったかはどうでもいいのだ。結果として着替えは終わったわけだし。
「はい、終わりました」
その言葉と同時にサクラは一歩離れた。
私を観察する様に視線を上下させ、何度も頷く。そして、眩しいほどの笑みを持って今日の私を迎えた。精一杯の友愛を示すように。
だけど、
「ひぅ……っ!」
喉が詰まった。
サクラの笑顔を──釣り上った口を見た瞬間、あの狼の顔を思い出して、思わず身を強張らせてしまった。
「…………!」
刹那、サクラの顔が劇的に変化した。
拒絶に対する絶望が、サクラの表情を支配した。
それは一瞬の事でその表情はすぐに笑顔へと変化する。
だけどその笑顔はあまりにもぎこちない。その奥に隠そうとする感情があふれ出ている。
サクラも私の様子を見てそれに気づいたのか、取り繕うような笑顔をやめて、どこかさびしげな表情を浮かべた。
「やはり怖いですか?」
サクラの沈痛な声が部屋に響いた。
私はその問いに答えられず、顔をうつむけた。
「……そう……ですか。そうですね。怖いと思って仕方がない……ですね」
サクラが更に声を沈ませる。
私は必死に否定しようと、声を絞り出す。
「ち、違う! そんな事……サクラが怖いわけじゃない! サクラは優しい。サクラは良い。悪くない。それは分かってる。でも……でも、何故か分からない、けれど……」
駄目だ。支離滅裂だ。言いたい事が伝えられない。思いが伝えられない。言葉を覚えた時は、なんだって伝えられると思ったのに。こんな単純な事が伝えられないなんて。
「いいんです。分かっています。仕方のないことなんです」
「違う。私が怖いと思うのは……」
言い淀んだその先を、サクラは簡潔に受け継いだ。
「狼の方の私、ですか?」
「……そう」
あまりにも簡単な答えに私は肯定することしかできない。
「どちらも私ですので、同じことでしょう」
「それは……」
サクラの言う事は尤もだ。でも、何か違う気がした。理屈ではなく感覚的な何かが、サクラの言葉を、そして私の抱いている恐れを否定していた。
「本当は……実は違うんです」
サクラがどこか遠くを見つめながら口を開いた。
「?」
その意図が読めず首を傾げる事しかできない。
「私に対する怖れ。それは私の外見とかそういう一時的な要因から来るものではないんです。だから私はしょうがないと思って、アイナ様の恐怖を受け止めます」
「……どういう、意味?」
私の質問に答える代りにサクラはまったく別の事を切り出した。
「少しだけ昔の話をさせて下さい」




