人狼との邂逅
部屋で一人、サクラを待つこと僅か。本当に僅かな時間待っただけで、扉を叩く音が聞こえた。
「アイナ様、失礼いたします」
サクラの声だった。いくらなんでも速い。いったいどれほど急げばこんなに早くこられるのだろう。
はい、と一言返す。
すると扉が開かれ、カートを抑えながら肩を上下させているサクラが現れた。
「すいません。途中少し手間取ってしまいました」
サクラが一礼の後に部屋に入り、開いていた扉を閉めた。
「待ちなさい!」
瞬間、閉じられた扉が盛大な音と共に開かれ、サクラと同じ服を着た人が恐ろしい形相をして現れた。
手を腰に当て、鋭い目をサクラへと向ける。
「そのご飯は旦那様のものです! 今すぐこちらに返しなさい!」
対するサクラもゆらりと振り向き、鋭い声を投げかけた。
「これは今の私に必要なものです! あのドアホにはまた作ればいいでしょう。いえ、昨日やった失態を考えれば、今日一日食事を抜いてもいいくらいです。私はアイナ様と一緒に食事をするという使命を果たすために、絶対にこの品々が必要なのです!」
「──くっ」
サクラの言葉に立ちふさがる人がわずかにひるんだ。
だがそれも瞬間の事。すぐさま踏みとどまり、再びその鋭い視線をサクラへと向けた。
「旦那様に対する暴言! ──は当たっているので何も言いませんが、主人の食事を盗むなど使用人にはあるまじき暴虐です! だれが許そうとも、食事頭を任されたこの私が許しません!」
二人の視線がぶつかりあい、じりじりとした緊張が場を焦がす。
このまま延々とにらみ合いが続くのかと思われたその時、それを遮るように別の声が割り込んできた。
「大変なの! 旦那様が! 旦那様が!」
同時に扉の向こうに更なる人が現れる。さっき料理を取りに行こうとしたサクラを呼び止めた人だ。
その様子はひどく混乱していて、言葉も明確な文になっていない。
明らかに異常なその態度に、にらみ合っていた二人は睨み合いをやめて、扉の向こうで慌てている人へと詰め寄った。
「セシル、あのオタンコナスになにかあったのですか? まさかあまりにも馬鹿だから息の仕方すら忘れたとか?」
「まさか! サクラに食事を奪われた所為でショック死を!?」
セシルというのは詰め寄られている人の名のようだ。そう言えば、昨日そう呼ばれていたのを聞いた気がする。
セシル……うん、覚えた。
そのセシルは殺気だった二人に詰め寄られて、更に混乱していた。
「ち、ち、ちちち、違うよ! ちょっとサクラは惜しいけど。で、で、でもでも、ちが、違うの!」
それをなだめようと、二人はセシルに優しく声をかける。
「セシル、落ち着きなさい。何があったのか落ち着いて話してみて」
「セシル、何か食べますか? お腹が減っていては、落ち着けません」
ただし二人の手はセシルの肩に置かれ、その体を激しく揺さぶっていた。
「あわ、わわわ、落ち、落ち着きました! だから、がくがく揺らすのをやめてぇ!」
その言葉を聞いて二人が同時に肩から手を離した。
「落ち着いたなら早く話しなさい」
「うう、何? この酷い仕打ち」
セシルは目を潤ませながら必死に呼吸を整える。
やがて呼吸の乱れが収まると、セシルはようやく言葉を紡ぎ始めた。
「だ、だから旦那様が大変なの!」
「分かっています。ですから、どういう風に大変なのかを聞いているのです」
「あのね、旦那様の口と鼻をガムテープで塞いだら、突然暴れだして、その後ぐったりしちゃったの!」
「え?」
「だから! 旦那様の口と鼻をガムテープで塞いだら、突然暴れだして、その後ぐったりしちゃったの! もしかして、ガムテープって毒だったのかな? どうしよう……」
二人が頭を押さえて頭を振った。
「え? 何? 何なの? やっぱりガムテープは有毒で、旦那様はもう……」
「いえ、それはありません」
セシルの不安そうな声にサクラの声が重なった。
「まあ、あれはその程度で死なないように鍛えてあるので大丈夫でしょう。それよりも、なぜあなたはそんな事をしたのですか?」
「え、だってうるさかったから。サクラは適当にやれっていうし、アイナ様が口と鼻をふさげばうるさくないって言うから」
突然、私の名前が出されて体がぴくりと動く。
確かにそれを教えたのは私だ。間違いない。
「アイナ様、本当にそんな事を言ったんですか?」
「うん。声は空気の振動だ。だから、それを発する口と鼻をふさげばうるさくない」
私が自信を持ってそう言うと、サクラはまたも頭を押さえた。
「……まあ、二人はまだこの世に生れてから日が浅いですからね。仕方のない面もあるでしょう」
どうやら私は何か失敗を犯してしまったらしい。私に知識が足りなかったからだろう。知識がないから膨大な情報が詰まっているはずの記録もほんの僅かしか使えないし、こういったミスをしてしまうのだ。
これから人の世で生きていくためには様々な知識を得なければならない。
私は不安になった。下手に世の煩雑さを知ってしまったがために、これからの生活に。
私がうつむいていると、頭にそっと手が載せられた。
「今日の午後からはそういった事も含めて教えていかなければなりませんね」
顔を上げると、そこには優しげなサクラが立っていた。
そこで昨日言われた事を思い出した。
そうだ。今日からサクラにいろんな事を教えてもらうんだ。
「いろんな事を覚えていかなくてはいけませんが、社会で生きていくためにはしっかりと覚えていかなくてはいけませんよ」
「うん」
私が頷くと、サクラも頷いた。
「あ」
ぴたりとサクラの顔が止まった。
私が不思議に思って見つめていると、サクラは突然焦った様にカートから料理を運び始めた。
「いけません! 料理が完全に冷えてしまっています! まったくあれの所為で! アイナ様との大事な大事な大事な時間が!」
くるくると回るように料理を運ぶサクラ。その顔は何所か鬼気せまっているようにも見える。
「あ、あの、旦那様はどうすれば?」
恐る恐る話しかけるセシルだが、
「そんなもの放っておきなさい。死にはしません」
一蹴されてしょんぼりと項垂れた。
「あ、あの、それは旦那様の料理なのですが」
恐る恐る食事頭の人が声をかけるも、
「黙りなさい!」
鬼のような形相で一括され、黙ることしかできない。
サクラは食事の用意をしながら、なおも言葉を紡ぎ続ける。
「いいではないですか。あれはどうせ食べられる状態ではないでしょう? ならば私がこれをアイナ様と一緒においしくおいしくいただいたほうが、より有意義な事じゃないですか? なのになぜ邪魔しようとするのですか? 私はただ要らなくなった食料をもったいないから食事をいただくだけなのに。……なぜ! どうしてですか!?」
サクラおかしくなり始めた。
その口から紡がれる言葉も口調も少しずつ崩れ始めている。
私が驚きで身を固めていると、サクラに更なる変化が訪れた。
ずるりと、
急にサクラの皮がめくれ上がったのだ。
その中から鋼鉄でできたように硬質な毛が現れた。
どこからか息を呑む音が聞こえた。
一拍遅れて、その音が私の喉から発せられたものだと気付く。
怖い。恐い。
さっきまでの優しいサクラが崩れ、中から何か別の物が現れるその光景がただ怖かった。嫌だった。
しかしその思いをあざ笑うかのようにサクラの変化は止まらない。
シルエットが少しずつ大きくなり始めた。
少しずつ人の形が崩れ、溶け、その周りを硬質な毛が覆っていく。
黒い髪が中へと引き込まれ、換わりに銀のたてがみがその場を覆う。
皮がむけるように、サクラの外面が破られて、だんだんと内から獣が現れて──
「あら、いけません。私とした事が。ん? 二人は居なくなってしまったようですね」
その変貌は唐突に終わりを告げた。
「すいません、アイナ様。恐がらせてしまいましたか? 大丈夫ですよ。もう止めましたから」
「……あ、あ……ああ」
「すぐ起こして差し上げますからね」
私は抱え起こされ、椅子へと座らされた。
「それでは一緒に食べましょう、アイナ様」
「…………」
私は何も答えられない。
あまりの恐怖に一言もしゃべることができなった。
沈黙の朝餐は開始から少しして、増援を読んだ群れの人達の乱入によって妨げられる。
だが私にはそれまでの僅かな時間が限りなく悠遠で苦痛なものに感じられた。
☆ ☆ ☆
「アイナの前で本性を現したんだって?」
「ええ、どうしてもアイナ様と朝食を共にしたかったので」
「物凄く怯えていたよ? あの後、布団に潜りこんで泣きながら寝ちゃったし」
「そんなはずありません。アイナ様はきっと快く迎え入れてくれたはずです」
「いやいやいや、普通に怖がっていたから」
「……それはあんたの目が悪いからでしょう」
「…………まあ、とにかくフォローしときなよ? 教育係なんだから関係が良好でなくては困る。最悪、交代って事も──」
「絶対にしっかりと何の問題もなくフォローしておきます」
「よろしい。……ところでリミット掛けてなかったの? 君の本性は危ないから普段は抑えるように、二重三重の錠を掛けとけっていったよね?」
「掛けていましたよ? 二十七の手順を踏まないと偽装は解けないようになっていました」
「え? じゃあ、なんで?」
「掛けたのは私ですよ? そんなのすぐに開けられるに決まっているじゃないですか。何言っているんですか、このすっとこどっこいは」
「……じゃあ、僕が掛けようか? さすがに全てを飲み込むために生れてきた人狼は危険すぎる」
「お断りです」
「なんで!? 危ないだろ!」
「好きな時に好きな様にあの姿になれなかったら、守れないじゃないですか」
「とは言ってもね。そんなご飯を食べる為になんて……」
「アイナ様と! 朝飯を食べる為です。それにご心配なく。あれはちょっとイライラしていたからです。どこぞの誰かがアイナ様が入られた祝いの席を台無しにしたので。あのアホが反省して二度とあんな事をしなければ大丈夫です」
「いや、その節は本当に申し訳ありません。……なんかやけにアイナを好いているみたいだけど……」
「同じ大地から生まれましたから。誰かによって作られたわけではなく、自然に」
「ああ、なるほど。同族ってことね」
「怖れ多いことですが、私にとってアイナ様は妹みたいなものだと思っているのです。だからこそ大切に思っています」
「主である僕よりも大事?」
「何を当り前なことを。優先順位最底辺が」
「…………」
「私にとってアイナ様は、奥様よりも、みんなよりも、この家よりも、村の人たちよりも、世界中のなによりも大切なんです。だからこそ、守りたい」
「……僕はその他大勢か」
「だから誰かに枷をはめられる事も拒みます。もし必要であれば、何を措いてでもアイナ様を守りたいから」
「私はこの身が朽ち果てるその瞬間までアイナ様をお守りするんです」




