柔らかな夢の中
現実に戻ると昨日は消え去って、新しい今日が待っていた。
疲れも気だるさも全てが消え去って、今はただ心地がいい。
まるで新しく生まれ変わったかのようだ。
眼を開けると一面が真っ白だった。
背中にふわふわとした感触を感じる。
まるで飛んでいる様な気がした。
まったく現実感がない。
ここは本当に現実なのだろうか?
まだ眠っているのだろうか?
聞いたことがある。人は眠った時に現実に似た夢という場所に行くことがあるという。
もしかして夢の中にいるのだろうか?
そこでふと気づいた。
もしかしたら夢から出る為には何か特別な事をしなければいけないのかもしれない。
私はその方法を知らなかった。
もしかしたら二度と夢の中から出れないかもしれない。
恐怖が生まれ、しだいに世界が混乱していく。
目の前の真っ白な世界が端から黒に侵食され始める。
黒?
目の前に黒が現れて視界を埋め尽くした。
それには顔がついていて、中にある眼と目が合った。
これはなんだ?
思考が追い付かない。
考えようとしても、なぜだか頭が動かない。
ぐるぐると頭が回り始めて、世界がどんどんぼやけていく。
もうだめだ。
混乱を極めた頭が考えを放棄しそうになっていると、揺りかごをゆする様な声が耳に届いた。
「朝ですよ、アイナ様。起きてください。あさげの用意ができました」
ぼんやりとその声を聞いた。
優しい声は私の頭に入りこんで、そのまま逆へと抜けていく。
「アイナ様、起きてください。昨日申し上げた起きていただく時間です」
だんだんと世界がはっきりと映り始めた。
今なら分かる。
目の前にいるのはサクラだ。
サクラというのは目の前に立っている人の名前だ。名前というのはそれ自体の事で、それをただ唯一にする記号だ。だけどサクラの名前は植物の名前でもあって、少し変なのだ。サクラは昨日お風呂に入れてくれて、助けてくれて、手伝ってくれることになって、色々と教えてくれて、嬉しい人だ。
うん、間違いない。
「アイナ様? 起きてますか?」
サクラがまた何か言った。
その意味も分かる。起きているか聞かれているのだ。
まだ夢の中にいるのだから、起きてはいない。だからその通りに答えた。
「お、起きていない。ゆ……え、私、うん、私は……夢の中にいる」
昨日、初めて声を出した時よりも大分うまく声を出せるようになっている。しかも、私としっかりと言えた。大進歩だ。
ちょっと得意になってサクラを見ると、なぜかサクラは分かっていないようだった。
「どうやら寝ぼけているようですね。アイナ様、起きてください」
起きろと言われても、夢からの出方が分からないのだ。ここは待ってもらうしかない。
「うん、待ってもらいたいです。私は夢の中にいる。出る為の方法が分からない。夢の中から出られないので、起きられないです。サクラは夢の中にいる。しかし、出る方法を知っていますか?」
ちょっと長く言葉を出してみた。少し不安だったが、なんとかできたようだ。まだ慣れていないので、思いを言葉に変えるのには時間がかかるし、繋ぎ方もいまいちだろう。知識を体現する為には相応の体験がなければいけないというのは、昨日一日で良く分かった。だがそれも体験していけば、つまり慣れる事によって自分の物にすることができる事も分かった。
言葉を喋るという事も大分慣れてきた。もう少しすれば自分の物にする事が出来るはずだ。
そんな事を考えながら、サクラを見るとやっぱりサクラは分かっていないようだった。
ちゃんと伝わっていないのだろうか?
不安に思っていると、サクラは小さく息を吐いた後に、またも言葉を紡ぎ始めた。
「アイナ様、夢の中にいるとおっしゃっていますが、アイナ様にとっての夢とは一体いかなるものなのでしょうか。差支えなければお教えいただきたいのですが」
しばし考えて答えを口にする。
「現実に似てるけど、現実感がない所」
「なるほど。では、その区別はどうやって付けるのでしょうか? 具体的にいうとこの世界が現実ではないとどうしてお考えなのかお聞かせ下さい」
「真っ白で眩しい。ふわふわしてる背中が」
「アイナ様、それは電灯の光と羽毛のベッドによるものです。夢の中と決めつけるのは早計かと」
サクラの言葉に慌てて飛び起きる。
なるほど、確かに下にはベッドがあった。思い返してみると、昨日あまりのふかふかさに驚いて、飛んだり跳ねたりしたのだった。ふわふわの正体はこれだったのだ。
次いで天井を見上げる。
そこには煌々と辺りを照らす電灯が付いていた。あまりにも白いその光は部屋全体を異常なくらい白く染め上げている。私の想像する夢の中の世界みたいに。
前を見るとサクラがじっと私を見つめ続けていた。
その瞳を真っ直ぐに見返して、私は言った。
「勘違いだ。夢じゃない。ずっと起きていた」
「……そうでしたか。では遅れましたが、挨拶を。おはようございます、アイナ様」
「うん」
「…………」
「…………?」
「挨拶には挨拶で返すものです。決まり事の様なものですね。相手、時、場所で返答は変わります。この場合は『おはよう』と返して下さい」
「……理解した。おはよう」
「よくできました。それでは、朝食を。……普通は食堂で食べるのですが、昨日とある脳なしが浮かれまくって食堂をぶち壊しやがりましたため、申し訳ないのですが今日はこの部屋でとっていただきます」
「あれか。分かった」
昨日、私が群れに入った記念に飯を食べたり、騒いだりした。その際、リーダーが祝砲をあげると言って放った光弾が暴発。食堂と呼ばれる部屋が一時炎に包まれた。
サクラが言っているのはそれの事だ。
ちなみにその後リーダーがどうなったのかは見ていない。ただ、追い立てられるように部屋を出された時、長柄を持った人々に囲まれて泣きそうになっていたリーダーが見えたのと、そのすぐ後、扉が閉められた瞬間に聞こえた悲鳴から、何となくどうなったかは分かる。
それを証明する様に、サクラがリーダーの末路を語った。
「ちなみにあの脳なしは庭で逆さ吊りになっています」
「うん、分かった」
頷くとサクラは後ろを向いた。
「申し訳ありません。くだらない話で時間をとってしまいましたね。早速朝食にいたしましょう」
サクラはそう言って、机の上に食事を並べ始めた。
置かれたスープから湯気が立ち、天井へと消えていった。
やがて部屋の中に温かい匂いが漂い始める。
美味しそうな匂いに触発されて、口の中が液体で満たされ、腹から音が響いた。
さっきまでまったく感じなかった空腹感は、料理が並べ終わった頃にはすでに限界近くにまで膨れ上がっていた。
「どうぞ」
「うん…………」
「……?」
目の前に並べられた料理を前にして、空腹に脳を冒されながらも、私は料理に手を付けずにサクラを見つめ続けた。
「アイナ様、どうかなされましたか?」
「サクラの分は?」
そう、机の上には私の分の料理しか置かれていなかった。
昨日リーダーがこう言っていた。
『食事は誰かと一緒に食べた方がおいしい』と。
だから私はサクラと一緒に食べるつもりだったのだが、目の前には私の分しかない。
これではサクラと一緒に食べる事が出来ない。
だから、私はサクラと一緒に食べる為に、目の前の料理には手をつけずにサクラの料理が運ばれてくるのを待つことにした。
どれくらい時間がかかるかは分からないが、きっと我慢できるだろう。いや、しなくてはならないのだ。
そんなわけで決意を胸にサクラを見つめていると、サクラは固まったまま動かなくなっていた。
「……サクラ?」
「…………あ、はい。なんでしょう?」
「どうした? 急に固まった」
「いえ、まさか……その、その様なお言葉をかけていただけるとは思わなかったので」
「その様なお言葉?」
「一緒に食べよう、と」
「なんで?」
「普通は身分が上の方とは一緒に食べないものですから」
「でも昨日は食べたです」
「それは……そういうパーティーでしたから。普段の食事でしたらあり得ない事です」
「なんで?」
いまいちサクラの言っている事が分からない。獲った物は皆で食べるのが普通のはずだ。それをなぜ別々に食べなくてはいけないのか。
「──っ! とにかくそういうものなのです。世界には身分という物があり、それを弁えないと社会が成り立たないのです」
まったく理解ができない。きっと人の世の常識なのだろうけれど、どうしても理解できなかった。
「……ふーん」
しかしサクラがここまで強く言うなら納得しないわけにはいかない。昨日、皆と約束したのだ。人の社会で生きる為の常識を覚えしっかりと身につける、と。今サクラと一緒に食べるというのはその約束を違える事になる。
だけど、
「…………でも」
「はい?」
それでも私は、
「でも私はサクラと食べたい」
その瞬間、サクラが再び固まった。
固まったサクラを見ながら思う。
やってしまった、と。
今のは間違いなく約定違反だ。こんな仲間は群れに必要ないだろうから、きっと群れから追い出される。
ちらりとサクラを見ると、まだ固まっていた。相当意外だったようだ。
きっと信じてくれていたのだろう。私の事を。
私はその信頼を裏切ったことになる。
申し訳なくて顔を伏せていると、肩に手が置かれた。
私の体が震えた。恐れによるものだと記録が告げる。一体サクラはどんな顔をしているのだろう。怒りを浮かべているに違いない。覚悟を決めて顔を上げる。何を言われても私のせいだ。私はそれをただ受け入れるべきだ。
そうやって、諦めを抱きながらサクラを見ると、なぜかサクラは立ち上がって震えていた。
「料理を持ってくるのでちょっと待っててください」
「ん? 食べるのは駄目ではないですか?」
「今回は特別です。とにかくすぐに持ってきますので、しばしお待ちください」
「分かった」
頷くと、サクラは小走りで扉へと向かった。そしてノブに手をかけると、一度振り向いて、念を押すようにこう言った。
「本当にすぐに持ってきますので、ちょっとだけ待っててください」
私は再度頷くと、サクラは安心したようにドアを開いた。
「あ、サクラ!」
その瞬間、扉の向こうから声が聞こえた。
「丁度良かった。探してたんだ。旦那様がここから下ろせってうるさいの。どうすればいいかな?」
しかし、サクラは聞く耳を持たず、
「私は今非常に大事な時なのです! そんなもの適当に対処しなさい!!」
そう言ってその場から脱兎の如く駈けていった。
「あ、ちょっと待ってよ! どうすればいいの?」
それを見て私は考える。
それに対処する方法を私は知っている。そしてそれを教えれば、私に利用価値付く。つまり、群れに置いておいてくれるかもしれない。
そんな打算的な思いで持って、私はドアの前で困っている人に対処の仕方を教えてみた。
「昨日箱に貼ってたガムテープ使って口と鼻を塞げばいい。声は空気の流れだから口と鼻をふさげば出ない。うるさくなくなる」




