エピローグ
アイナが泣きじゃくりながら長い時間獣に引きずられてようやく解放された場所が道の行き止まりだった。頭上を見上げると天井に蓋が付いていた。押し上げると光が漏れた。泣きに泣いて心が乾燥しきったアイナはもう何の感慨も湧かずによじ登って外に出た。
そこは簡素な木組みの山小屋だった。刃物を研いでいる男が驚いた様子でアイナを見つめていた。
「お前、確か、あいつの娘の」
アイナには見覚えの無い顔だった。だが相手はアイナの事を知っている様だ。でもそんな事、心が乾燥したアイナにはどうでも良かった。
男は慌てた様子で立ち上がると、アイナの傍に走り寄って来た。
「どうした! 何があった!」
「黒い人達に襲われてどうしようもなくなったから、全部消す事になった。私だけ逃げてきた」
アイナは自分でも驚く程すらすらと、今迄に出した事が無い位平坦な声音で男の問いに答えた。男はすぐに理解を示して目を覆って呻き声を上げた。一頻り呻いた後、労わる様にアイナの肩に手を当てた。
「つらかったろう。とりあえずここは安全だから、安心して良い」
男は立ち上がって何処かへと消え、そして湯気の立つ皿を持って戻って来た。シチューだった。
「お腹空いているか? 大したもてなしは出来ないが、とりあえずこれを。温かい物を食べれば元気が出る」
アイナは促されて席に坐り、テーブルに置かれたシチューを前にして、ふいと視線を逸らして辺りを見回した。和式の平箪笥の上に写真が載っていた。テーブルの向こうに居る男と、それからアイナの父親が笑顔で肩を組み、その傍でアイナの母親が笑っている写真だった。随分古い写真でいくらか色褪せている。
「ん? ああ、お前の父親とは昔からの付き合いでな。まあ、その……今回の事は残念だよ。だから忘れ形見であるあんたを決して悪い様にはしない」
写真の上に視線をずらすと壁に古びた鞭が飾られていた。
「それはお前の父親が使っていた物だよ。昔は三人で小さなサーカスをやっていて、あいつは動物の扱いが上手かった」
「父さんの」
凍り付いてもう枯れ果てたと思っていた悲しみと涙が再び溢れてきた。堰を切った悲嘆はそう簡単には止まらない。どうしようもなくて、やるせなくて、アイナは目の前のシチューを払いのけて泣いた。
「辛いのは分かる。色々あって疲れただろう。寝ると良い。寝れば元気になる」
男がアイナの体を引いた。アイナはそれに抵抗して手を払いのけたが、男は力強くアイナを抱きかかえて、そのまま寝室へと運び、ベッドの中に放り込んだ。湯気の立つ皿を新たに持ってくると、枕元の机に置いて、労わる様に言った。
「お腹が空いたら食べろ。出来れば冷めない内にな」
そう言って、男は寝室から出て行った。アイナはその間毛布にくるまって泣いていたが、男が扉を閉めた音を聞いて、更に高く泣いた。
男は扉の外でその泣き声を聞いて、やるせない気持ちと共に昔の仲間を失った事を実感して、深く溜息を吐いた。それから外に出る装備を整え、出来るだけ音を立てない様に静かに外に出て、微かな月明かりの中、かつての仲間がどうなったのかを確かめる為に城へと向かった。
翌朝、戻って来た男は風呂に入って着替えてから、寝室に入った。アイナは寝ていた。シチューは冷たくなっていた。食べた形跡は無い。
仕方が無いと男は思った。大人ですらきついのだ。子供ならそれは絶えられない位に辛い現実だろう。現実の無情さを噛みしめて、寝室を後にしようとした時、背後で布団が擦れる音がした。振り返ると、アイナが真剣な目で男を睨んでいた。
「みんなはどうなってた?」
「何?」
夢でも見ているのかと思っていると、アイナは更に続けた。
「夜、お城を見に行ったんだろ? みんなはどうなっていた?」
気付かれていたか。出来れば隠し通したかったが、仕方が無い。嘘を言うのは論外だ。
「一面灰になっていた。何もかも消えていたよ」
アイナはしばらく男を睨みつけていたが、やがて表情が崩れ、また布団の中に突っ伏した。
現実は無情だ。多分、男の言葉を聞くまではアイナの中に多少の希望があったのだろう。それを想像すると罪悪感が湧いた。
男は古い電話機に向かい、受話器を取って、何処かへとかけた。
「久しぶりだな。悪いが昔のよしみで、力を貸してくれないか」
次の日、アイナは寝室から出てこなかった。男は中に入ろうとしたが、扉を物で抑えつけている様で、開く気配が無い。一人で悲しむ時間も必要だろうと、男はその日はそっとしておくことにした。
次の日、アイナはやはり寝室から出てこなかった。ノックをしても声を掛けても返事は無い。お腹が空いたら出てくるだろうと思ってが、一向に出てこなかった。まさか脱出して一人で城の跡に向かったのではと家の周りを調べたが、出た様子は無かった。よくよく耳を澄ませてみれば、中から啜り泣きが聞こえてきた。
次の日、やはりアイナは寝室から出てこようとしなかった。このままでは死んでしまうと、男は受話器を置いて、無理矢理部屋をこじ開けた。中ではアイナが廃人の様に虚空を見つめてぼんやりとしていた。気持ちは分かるが、このままにはしておけない。
「いい加減にしろ!」
男が大声を出すと、アイナがびくりと震えた。男はほっと息を吐いた。これで反応が無かったら心が壊れていてもうどうしようも無いと思っていただけに、安心して先程決まった事を伝えた。
「お前の父方の家がお前を引き取ってくれるそうだ」
「父さんの家族?」
「そうだ。日本という国に住んでいる、まあ、簡単に言えば貴族だな。その家が引き取ってくれるそうだ」
「何で? 関係ないのに」
「そりゃあ、家族の家族だろうからな。つまり家族だ」
「でも私と父さんは血が繋がってなくて」
「そんな事を気にする家じゃない。息子の娘は大切な孫なんだよ」
アイナは困惑した様子でいたが、やがてまた涙を流して布団に顔を擦り付けた。
「とにかくだ、出来るだけ早い方が良いんだろうが、準備が要る。だから、出発は四日後。それまではぼろ屋で悪いがここで暮らしていてくれ」
アイナはしばらく布団に顔を押し付けていたが、やがて顔を上げて男を見据えた。
「……何から何までありがとうございます」
礼を言うアイナを見て男は笑った。
「気にするな。親友の娘なら娘も同然だ」
男に促されてアイナはようやっと寝室から出て、テーブルに着いた。男の作った適度に冷まされたおかゆが前にあった。アイナが口を付ける。美味しかった。アイナがそれを男に告げると、男は笑った。
男はここが森の中に作った狩りの為の小屋だと言った。暮らすだけなら問題は無い。保存食は一か月分貯蔵してあるし、近くには川が流れ、森の中で採取すれば食料にも困らないと言った。
急にどうしたのかと尋ねると、これから所用で国を離れるから当分の間一人で暮らしてくれと言われた。
「出来れば、町にある俺の家に住んでもらって近所の婆さんに世話してもらうのが良いんだが、お前を襲った奴等が残っている可能性もある。だから向こうに旅立つまでは悪いが、この小屋で暮らしてくれ」
アイナは頷いた。アイナが余りにもあっさりと頷いた事で、男は逆に心配になったようだ。
「本当に大丈夫なのか?」
「大丈夫。料理も洗濯も掃除も何でも出来る。森の中の植物にだって詳しいし、四日間くらいなら一人でも生きられる」
それらを教えてくれたサクラの顔が思い起こされて、アイナはまた悲しくなって涙が出た。それを必死で拭うアイナの様を眺めて、男は同情に胸を撞かれたが、悲しみを乗り越えようとしているのだから邪魔をしてはまずいと、至って平静を装って笑いかけた。
「そうか。それなら安心だ」
男は本当に大丈夫かとしばらく悩んだが、結局信じるしかないと結論付けた。
「おかゆはまだ残ってる。お腹が減ったら温め直して食べてくれ。四日間なら冷蔵庫の中身だけで充分だろうが、他にも台所の下に保存食がたんまりある。あとは」
家の中の雑事に付いて様々に伝えた後、男は最後に電話機を手に取った。
「もしも何かあった時、本当に重要な時だけだぞ? その時にはこれで電話を掛けてくれ。番号は要らない。受話器を取るだけで、俺の仲間に繋がる様になっている」
アイナは男の言う事にいちいち頷いた。それがまた本当に分かっているのか心配にさせた。だが疑っていては始まらない。
「こんなところだな。それで、早速で悪いが、俺はもう行かなくちゃならん」
男は慌ただしく準備をして発って行った。アイナはそれを見送ってから改めて小屋の中を見回した。
今迄住んでいた自分の部屋よりも遥かに小さな家。だけれども、一人を意識するとなんとも広く見えた。ぽつりと残されたアイナは弱気になりかけた心を叱咤して、これからどうすれば良いだろうと考えた。
もう何度も考えた事だった。そして結論は出ていた。その結論だけが、今のアイナを動かしている原動力だ。
父さんの実家に預けられる。とてもありがたい事だ。見知らぬ子供を一人引き取ってくれるなんて。その人達の為に自分の出来る事をして役立とう。それに私はテイラー家の当主。家の再興の為に尽力すべきだろう。今の所、何をすればいいのかは分からないけれど。
と、色々とやるべき事は見えてくるが、それら全ての上に先だって絶対にやらなければならない事があった。
家族の仇を討つ。まだ家族を襲った奴等は絶え切っていない。何となく確信があった。家族の仇。サクラの語ったおとぎ話が思い起こされた。禁忌の魔術を使って破滅を導こうとした男、何となくそいつが今回の首謀者だろうと思えた。そいつを討つ。それが見捨ててしまった家族達へのせめてもの罪滅ぼしになるだろうと考えていた。この手で仇を討つ。その為に自分を鍛える。それが今のアイナの原動力だ。
アイナは食べ終えた食器を片し終えると、自分を鍛える為にはどうすれば良いかと考えた。何とはなしに壁に飾られた鞭が目に入った。
父さんの武器。仇を討つには最適な気がした。あの鞭を使いこなせるようになろう。そう考えて、アイナは鞭を手に取り、外に出て練習を始めた。
練習を初めて四日。何とか上手く振るえる様にはなってきたが、形としてだけで、戦うなど夢のまた夢だ。とはいえ、終日懸命に身体を動かしていたお蔭で、体調はすこぶる良くなったし、心の方も大分落ち着いていた。仇を討つ。その思いを原動力に、アイナはどんどんと元気になった。悲しみは決して癒える事は無いが、前に進む事が出来た。
今日が父方の家に引き取られる旅立ちの日だ。新しい環境にわずかとはいえ期待する心まで持ち始めていた。
しかし男の帰りが遅い。いつになったら帰って来るのだろう。
日課の様に鞭を振るっていると、背後から足音が聞こえた。咄嗟に面倒を見てくれた男だと思って振り返ったが、そこに居たのは似ても似つかない青年だった。
思わず身構えると、青年は驚いた様子でおどおどと尋ねてきた。
「あの、アイナさん、ですよね?」
敵意が無い事を感じ取って、アイナは身構えるのを止めた。
「そうだけど?」
「僕は松島と言います。鬼藤の、まあ、何と言うか部下です」
「キトウ?」
「え? あの、あなたを保護した……この小屋の持ち主の鬼藤さんなんですけど。あれ?」
「ああ、あの人の名前はキトウと言うのか」
「あ、はい、そうです、そうです」
何故、あの人は来ないのだろう。この人は何をしに来たのだろう。
青年はしばし曖昧な笑みを浮かべいたが、次第に表情を悲しみに変えていった。嫌な予感がした。
「それで、ですね。その……いえ、はっきりと単刀直入に言いましょう。鬼藤は亡くなりました」
「死んだ?」
真っ白になった頭の中で死という概念が木霊した。もう何度思い浮かべた言葉だろう。またかという冷め切った思いがじんわりと心に広がって、それが段々と悲しみに変わっていった。
「はい、聞いているとは思いますが、我々はアイナさんを襲った奴等を排除しに行ったのですが」
「ちょっと待って。どういう事?」
「聞いていなかったのですか? そうか……まずかったかな。あのですね、アイナさんを襲った奴等がアイナさんが生きている事に気が付けばまた襲ってくる。しかも奴等はアイナさんが引き取られる日本に拠点を構えている。なので奴等の拠点と奴等の全てを排除しに行ったのです。ですが、その任務の途中で鬼藤さんは亡くなってしまいまして」
その後、青年はアイナに慰めの言葉を掛け続けたが、アイナはそれらを全て聞き流して別の事を考えていた。優しくしてくれた男が死んだのは悲しい。崩れ落ちそうな程に。だが、それ以上に気になる事があった。
仇はどうなった?
私の手で仇を討つ。それだけが見捨ててしまった家族へのせめてもの罪滅ぼしだと思っていたのに。それなのに、まさか、その仇は。
アイナの胸の内に広がった不安は表情にまで表れて、それを見た青年がどうにかして安心させようと一番言ってはならない事を言った。
「確かに鬼藤さんの事は残念です。僕も悲しく思います。でも、アイナさん、安心してください! アイナさんを襲った奴等の仲間は全員もう居なくなりましたので!」
アイナの心が緩やかにその活動を停止していく。アイナの震える唇から辛うじて声が出た。
「まさか、殺したのか?」
アイナの沈んだ追及を青年は別の意味にとった。
「え? あ、ああ、まあ、そうですね。確かに敵とはいえ命を取ったのは酷い事かもしれません。ですが奴等は生きている生きている限り必ずアイナさんを襲ったでしょう。仕方の無い事だったのです」
仇が死んだ。みんな死んだ。もう私には何も残っていない。
青年の言葉が最後の引き金になって、もう涙も悲しむ心も何もかも無くしたアイナは頭の中に死を反響させながら、その場に崩れ落ちて気を失った。
物語はこれでお終い。




