プロローグ
ここにいた。
いつからかは分からない。気づいたらここにいた。
頭の中には幾つかの知識があった。
それは生まれてから、明確な意識を持つまでの間に持った様々な記憶だった。
その他にもう一つ、膨大な記録があった。知識には土の記録とあった。
情報について聞くとそれに対する情報を出してくれる。知識にはそうあった。
ここがどこだか分らない。いつからいたのか分からない。知識にはなく、記録からも情報は得られなかった。記録に答えられない事があるのかと聞いたら、問いが不明瞭すぎると答えを出せないと、記録自身が言った。
周りを見回すと世界があった。
世界はぼんやりと滲んでいた。
周りは薄暗く、はっきりと定まらない。
少し先の景色ですらはっきりと見ることができない。
ざあざあとなる音が全ての音を掻き消して、ぼやけた世界を作り出す。
風が吹かず、鳥も鳴かずの寂々としたぼやけた世界。
ただ滲んだ視線を彷徨わせ、何かを見るたびに、そこから情報が溢れてきて、それを受け止めることで精いっぱいで、頭がパンクしそうだ。
あまりの情報量に頭がぐるぐる回り始めた。
外はぼんやりと滲んでいて、ざあざあと音を鳴らしている。
記録によるとそれは雨と言うらしい。水が天から流れているのだそうだ。
下を見ると川が流れていた。それも水の流れだという。外の水は下に流れているが、この水は横に流れていた。
川に向けられている意識が、次の発見へと移る。
上を見ると空が黒ずんでいた。
直後にそれは空ではなく何かが私を覆っているためにできる影だという事を知る。
眺めたり、触ったりしてそれについて調べてみた。すると記録が答えを出した。
これはレンガというらしい。それが流れる小川の上にアーチを描いて組み上げられる事で橋になるらしく、詰まるところこのレンガの塊がそれだった。
まだ生まれたばかりで、何もかもが新鮮だ。
知識はあるが経験はないから。
何かを見、何かを触り、何かを聞き、何かを嗅ぎ、何かを感じる度に次から次へと情報が流れ込んできた。
橋の下という狭い世界の中でも、たくさんの情報が詰まっていた。
生まれて間もない私にとって全てが初めての事だった。
試しに川を触ってみた。
恐る恐る手を近付けて、川の中に手を入れる。
「────っ!」
驚いて川から手を引き上げた。
川に手を入れた瞬間、何かに押し返されたのだ。
川の中に何かいるのだろうか。
もう一度、手を漬けてみる。
再び押し返されたが我慢して浸ける。押される感覚はあるがレンガのような固形物に押されているわけではなかった。
どうやら川が押しているらしい。流れる水は想像以上に力が強かった。
水に触れていると肌が内側に締め付けられる様な感覚を覚えた。これは冷たいというらしい。つまりこの川は冷たいというわけだ。水は冷たいと氷になるらしいが、この川は凍っていない。疑問を覚えた。
様々な初めてがあった。本当に沢山の発見があった。
見る物全てが初めてで、こんな小さな世界でさえこれだけの発見があるのに、ここから出た世界には一体どれだけの広さなのだろう。
この胸が弾む思いは期待や喜びなどと呼ばれていると知る。それは感情という名の物で持っていると役に立つそうだ。
私は喜んでいた。
しかし、それらの喜びは次の瞬間に消え去った。
体がぶるりと震えた。
ひどく唐突に何の前触れもなく突然体が震え、全身が総毛だった。
ひどく嫌な感じだ。
慌てて記録に問い合わせてみる。
すると非常に危機的な状況だという事が分かった。
体の震えは寒さから来るものだという。
人は寒すぎると死んでしまうらしい。死ぬというのはそこで終わりという事で絶対に避けなければならないと記録に刻まれていた。
それ以外にも問題があった。
新しい発見に心を奪われていた時にはまったく感じなかったが、記録はここをひどい場所だと言った。
寒いから、体温はどんどん降下していく。食料もない。水だけはたくさんあるが、飲んで大丈夫かどうかは分からない。
その場所は生きる為に必要だとされる物が全く揃っていなかった。
必要な物がないと全身の機能が停止して、死んでしまうらしい。
橋の下が駄目だからといって外に出る事もできない。
雨の中を何も着ずに彷徨う事は危険だと記録されていた。体温の低下が早まって、より早く死んでしまうのだという。
ならばどうすればいいのか。
記録を辿ってみてもまともな情報が得られない。
食料を手に入れる方法を探すと様々な方法が出てくるが、それらの全ては外の世界に出る事が前提だ。ならこの雨の中でどうやって外に出ればいいのかを探すと様々な方法が出てくるが、やっぱりそれらは外に出る事が前提だ。
つまり外に出なければ始まらないのに、外に出る手段がなかった。
堂々めぐりの思考の中、少しずつ意識が薄れていった。
体温の低下による意識の混濁だと記録が告げる。このままでは死に至ると、そう言った。
ならばそれを防ぐ方法はと聞いても、開示された情報は全てこの場所では不可能な物ばかりだった。一つ、動くとあったが、それは一時的なものにすぎないとある。
このままでは死んでしまう。
生まれた事に喜びを覚えて、これからの世界に期待をした矢先に。
そんなの嫌だと思った。
なんだか胸が苦しくなった。
それは悲しみだと記録が告げる。
悲しくて悲しくてしょうがなかった。どうしようもないのに生きたくて、でも死んでしまうのがただ悲しかった。
うずくまって後は死を待つだけ。
どうしようもないと諦めかけていたその時、
──橋の上から音が響いた。
雨の向こうから微かに響いた音。
記録がそれは人と馬が発する音だと言った。
どうすればいい? と記録に聞いた。
記録は答えない。
人と馬は食べられる? と記録に聞いた。
食料にできると即答。ただしその後に追記がついた。
ただし食べる場合には周囲の環境に注意が必要。人は多くの場所で食べる事を禁忌とされ、馬は他者の所有物である場合、食べる事は咎である。更に──
それを無視して、橋の下から飛び出した。食料を得る為に。
それがどんな結果に繋がろうと関係ない。
どうせここで殺らなければ、死ぬだけなのだから。
橋の横に付いた階段を駆け上がり、橋の上へと出る。
そこには幾つもの命があった。
記録からそれが人と馬だという事が分かる。
人は幾つか。その後に馬が二つ。馬の後ろに何だかよく分からない大きな物があった。その後ろにも人が幾つかある。
あの大きいのは? と聞くと、馬車と即答した後、馬車についての説明が流れた。
食べ物ではないらしい。
だが、目の前にはその他の食べ物が沢山転がっている。
何も(この感情は? と聞くと、心配、と記録が答えた)心配する必要はない。
改めて前を向くと、人の内の一つがこちらへと向かってきた。
どうしようか迷っている間に、近づいてきた人が音を発した。
「────っ!」
あれは何、と記録に聞いた。
すぐに答えが返ってくる。
あれは声であり、言語であり、意思。音の違いによって意味を乗せ、さまざまな情報を伝える情報伝達道具──(その後もなんだか長々と語っていた。その言語は世界でもっとも使われている言語の内のとある範囲で使われている中の更に狭い地域で使われている物を改変したものとかなんとか言っていたけど、いまいち実感が掴めなかった)
一通り声について、言語について、説明した後に、仕上げとして目の前の人が喋っていた言語データが頭の中に流れ込んできた。
まさに奔流。膨大な言語データが入り乱れながら、一瞬の内に頭の中に納まった。
立ちくらみを起こして倒れそうになるが、何とか踏みとどまる。
「どちら様ですか?」
意味が聞こえた。
目の前に立っている人が発した音に意味が付いた。
音に色が付いた様な錯覚を覚えた。
世界が一瞬にして変わったような錯覚を覚えた。
「黙っていないで答えなさい! もう一度、聞きます。あなたはなぜここにいるのですか?」
言っている意味は分かるが、答えようがない。だって、なぜここにいるのか分からないから。
仕方ないので、ここにいたからだと答える事にする。
始めて言葉を話すというのは少し(緊張と記録がこたえた)緊張した。
「こ……こくぉ…………ここね……ここに」
なんとか喋ろうとするが、中々うまく喋れない。慣れないからだろうか。知識としては分かっているのに、いざ声を出そうとするとうまく口の中が動かせない。
やがて前に立つ人は息を吐きながら、声を発した。
「もしかして喋れないのですか?」
「は……い」
素直に肯定する。
伝わっているかどうか不安だったが、意味を汲み取ってくれたらしい。
「でも、言っている事は分かるのね?」
その人はそう言った。私はまた肯定する。
「はい」
その人はなぜか首を上下させると、こう言った。
「ならば聞きなさい。ここはテイラー家の私有地です。あなたが警備の中をどうやってここまで侵入できたのかは分かりませんが、敵意がないのなら早々に立ち去りなさい。もしここを侵しに来たのであれば相手になります」
そう言ってその人は地面を思いっきり踏みつけた。
敵意がないから去れと言われた。敵意は無い。ならばここから立ち去るべきだろう。
だが、食料が欲しい。今ここを離れたら死んでしまうだろう。今にも体の機能が停止しそうなのだ。
死なない為には何かを食べなければならない。
だけど目の前の人はここから離れろと言った。
どうすればいいか分からない。
こんな時にどうすればいいかは、知識にはなく、記録に聞いてみたが、答えは返ってこなかった。
どうすればいいだろう。真剣に考えてみるが、答えは浮かばない。
ただ考えている間に、目の前に立つ人がもう一度地面を強く踏み締めた。
「早く答えなさい! あなたは敵ですか?」
「ちがー……う」
「ならばなぜここから立ち去らないのです!」
その人が一際大きい声を発した丁度その時、
「もうやめなよ」
後から声が聞こえた。
振り返るとそこにも人が立っていた。
人は続ける。
「こんなに小さな女の子をこの雨の中、しかも裸でいつまでほっぽり出しておくのさ。早く屋敷に連れ帰って保護しなくちゃ」
「しかし、旦那様──」
「意見は求めていない」
「申し訳ありません」
旦那様というのは群れのリーダーみたいなものらしい。
そのリーダーは上から膝を折って目線を合わせてきた。
「お嬢ちゃんの意見を聞く事を忘れていたね。どうだろう? 一緒に来てくれれば、食べ物も寝床も用意できるけど」
食べ物をくれるなら、とても嬉しい。
「行く」
「そうか、よかった! じゃあ、君は今からお客さんだ! 我が家へようこそ、お嬢さん!」




